『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第六回)

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清水正の著作   D文学研究会発行本

平成22年9月9日(木曜)

白谷雲水峡から屋久島環境文化村センターへ

 今回の屋久島行きの第一の目的は林芙美子が『浮雲』執筆のために取材した安房近辺の屋久島を探訪することにあったので、今や屋久島を象徴する縄文杉まで登山する予定は立てなかった。白谷雲水峡の散策も最も初心者向けのコースを選んだ。雲水峡の入口から「憩いの大岩」を昇り、二大杉を見て、さつき吊橋から「飛流おとし」を眺め、弥生杉に到るコースで、ゆっくり歩いても一時間もかからなかった。しかし、初めて屋久島の森の中に一歩を踏み込んだ時に覚える感覚は新鮮であった。人の手によって歩道は危険のないように石が敷き詰められ、吊り橋も頑丈に造られている。人工的な道から一歩を踏み外せば、森は危険な怪しい原始的な力で迫ってくるに違いない。安全な道を歩いていてさえ、森の妖しい深さを感じて、ぞくぞくした。
 弥生杉に着いたのが十二時、雲水峡の入口に戻って来たのは十二時半であった。一時十分に、観光バスは屋久島観光センターに着いた。建物の二階にある「レストラン屋久島」で海鮮フライ定食とビールで昼食をすました後、観光センター前の道路を横断して「なごりの松原」のベンチに仰向けに寝て青空を見上げる。ここには椋鳩十文学碑が建てられていた。碑には「道は雑草の中にあり」と刻まれている。宮之浦の海風を全身に感じながらつかの間の休息を存分に味わった。この松原から見る宮之浦漁港の風景もすばらしかった。


























 二時にバスは観光センターから鹿児島県屋久島環境文化村センターへと向かい、五分後には到着した。ここで屋久島の地理、歴史、経済、文化についての解説を受けた。センターには縄文杉の巨大な写真や、シダ類の写真、土埋木、白骨樹、伐採に使用した斧などが展示されていた。
二階の一室には林芙美子が机に向かって原稿を書いている絵が展示されていた。パネルには「『月に35日雨が降る』〜小説『浮雲』」の見出しで「小説家・林芙美子は、長編小説『浮雲』を安房の宿で執筆し、雨の多い屋久島の自然を細かく描写しています。/有名な「月に35日雨が降るは、島に着いた主人公を出迎える営林署員の言葉に出てきます。「はァ1ケ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、35日は雨というくらいでございますからな・・・」。」と書かれている。
 この解説文だけを読むと、あたかも『浮雲』全編が安房館で執筆されたようにも受け取れるが、もちろんそんなことはない。富岡兼吾が屋久島の営林署に仕事が決まり、ゆき子と一緒に鹿児島から屋久島へと向かうのは〈五十七〉章からである。『浮雲』は全67章から構成されている。つまり林芙美子の鹿児島、種子島屋久島の旅の成果が小説に反映されるのは『浮雲』の後半部である。
 当時「主婦之友」の記者であった編集記者・中山淳太郎は「林芙美子さんとの旅」(「小説新調」第49巻第4号 平成7年4月1日)で次のように書いている。
 
  一カ月にわたる長い旅行の間、林さんが、見聞したことをその場でメモしているのを見たことは一度もない。それなのに林さんの書かれたのを見ると、たとえば「浮雲」のなかの屋久島の描写にしても、わたしたちが体験したものがそのまま生き生きと生かされているのだ。
  もちろん関係資料もあってのことだろうが、資料だけではとてもああはいかないだろう。あるいは夜自分一人の部屋でひそかにメモをとっておられたのか。いずれにせよ、林さんの物を見る目の確かさ、卓抜な記憶力、それらはわたしなどには不思議でもあり、ただ驚くよりほかはない。

 林芙美子一行は安房館にいつからいつまで宿泊し、いつどこからどの船で帰ったのか。記者として同行した中山淳太郎の回想記にもそのことは記されていない(この点については、後で改めて検証したいと思っている)。林芙美子安房館で取材のメモや資料の整理ぐらいはしただろうが、屋久島で取材したことをその日のうちに旅館で『浮雲』に生かしたと考えるのは無理がある。取材旅行から帰ってから、屋久島での富岡兼吾とゆき子の場面は書かれたのだと考えるのが順当だが、林芙美子のように膨大な量の小説やエッセイを執筆し続けた作家に常識的な考えは通用しないかもしれない。こういった点に関しては引き続き実証的な検証を怠るわけにはいかないだろう。