『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第三回)

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清水正の著作   D文学研究会発行本
林芙美子屋久島で最後に泊った田代館を訪ねる
平成22年9月5日(日曜)
 九月一日、バスで鹿児島本港南埠頭に到着したのが十一時半過ぎ。待合室からは桜島が見える。平和食堂「我流風」で定番らーめん大盛りを食べてまずは腹ごしらえ。十二時半、とつぜん大雨が降るがすぐに止む。待合室のみやげ売り場で今日入荷したばかりというみかん顔のストラップを購入。一時にトッピー3に乗船。ターミナルを後に屋久島へと向かう。



午後三時、宮之浦港に着く。迎えに来た田代別館の田代貴久さんの運転で旅館についたのが午後三時半。ひとまず部屋でゆっくりして、散歩に出る。田代別館前の「とうせんきょうばし」(唐船峡橋)を渡って宮之浦港方面へと足を運ぶ。途中、小雨が断続的に降る。木陰で話をしていた二人のお嬢さんのうちの一人が田代別館の子供ということで、これも縁ということで記念撮影。










川に降りてボートを撮影しようとして軽いねんざ。川沿いの道を宮之浦大橋の方へ歩く。信号を渡って薬局に入り、エアーサロンパスを購入。軽いねんざには効果があったのか自然に痛みがとれた。大橋を右に見て、左方面を歩いていくと「屋久島特産品協会」がある。パートで交代で勤務しているという寺田さんに田代館の所在を訪ねると親切に教えてくれた。






「益救神社通り(救いの宮)」の標識のある通りを入ってまっすぐ歩いていくと右手に空き地があった。通りがかりの地元のご婦人に尋ねると、ここに田代館があったが、一昨年取り壊されたということであった。来た道を戻り本通りに出て、「山口ストアー」のご主人に田代館のことを訪ねると、確かに一昨年まで田代館があったという証言が得られた。目的を達したので田代別館に戻ることにした。




帰りは宮之浦大橋の近くにある昭和五年に作られたという風情のある橋を渡った。釣りをしている老人がいたので、なにが釣れるのかと聞くと、コアジがとれるということであった。たしかに小さな魚が釣り上げられていて、無造作に橋の上に投げ出されていた。肉眼で見る限り、川の水は澄んでおり、ただ一匹の魚影もない。小雨降る中、美しい自然の光景に見とれながら歩いていると、途中で崖の草むらに赤いカニが何匹もいることを発見した。近づくと石垣の隙間に身を潜め、じっとこちらの様子を伺っている。この命がけで、必死に生きている姿に感動し、しばし見とれてしまった。


午後六時半、旅館に到着。七時から夕食。この場に女将が挨拶にこられ、田代館の先代女将について話を聞くことができた。食後、ゆっくりインタビューする予定であったが、女将は家に来客があったとかで、取材は明日に持ち越すことになった。ロビーの壁に女将を取材した新聞記事が張られてあったので、それを読む。

「田代房枝さん(75)屋久島町宮之浦 創業105年の旅館女将 日本舞踊でもてなす」と大きな見出しで、女将の写真も大きく載せられている。「ここに生きる」というシリーズの「72」(「みなみネット」2008年3月19日水曜日・屋久島支局・長井三郎氏執筆)の記事である。

 朝は五時半に起床。客の見送りは欠かしたことがない。夜は仕事が終わって午後十一時過ぎに風呂。ここでも翌日客が使うときに不都合はないかチェックの目が働く。就寝するのは午前零時半ー。女将になって五十余年、刻み続けてきた日課だ。
 田代別館の前身である田代旅館の創業は、一九0四(明治三十七)年。今年で百五年目。「屋久島で一番長く続いている旅館」とし自負する、その最初の建物は宮之浦川左岸の街中にあった。木造平屋建てで、部屋数はわずか三部屋。
 二十三歳で結婚、三代目の若女将となった。「当時のお客さんは、仕事関係の人ばかり。観光で訪れるお客さんなんて、いなかった」と振り返る。

 今回の研究旅行は屋久島における林芙美子を検証することが第一の目的であった。林芙美子屋久島と言うと、すぐに安房の旅館(当時は「安房旅館」、今は浮雲の宿「ホテル屋久島山荘」の看板がかかっているが、正式名称は「屋久島ロイヤルホテル」)が取材の対象として思い浮かぶ。林芙美子はこの安房旅館を処点にして屋久島の取材活動を展開したが、「屋久島紀行」を読めば明らかなように、屋久島で最後に泊まったのは田代別館の前身「田代館」である。田代別館のどこにも、林芙美子と「田代館」のつながりを伝えるものはなかった。広告合戦激しいホテル・旅館業界にあってはきわめてめずらしいことである。私は田代房枝女将にお会いして、その謙虚な、優しい心配りに感動したので、林芙美子と田代館のつながりを大いに宣伝し、林芙美子文学のファンが一人でも多く田代別館を訪れてもらいたい気持ちに駆られた。

 林芙美子は「屋久島紀行」で次のように書いている。

  十一時頃、バスは宮の浦の部落へ着いた。村の入口で、若い巡査が珍しそうにバスのヘッドライトに照らされて立った。巡査に田代館という古い宿屋を聞いて、私達はバスを降りた。宮の浦の部落はみんなランプであった。磯の匂いがした。宿屋は案外がっちりした大きい旅館であった。女中がいないのも気に入った。無口なおとなしい女主人が、ランプをさげて、二階の広い部屋へ案内してくれた。橘丸ははいる様子でしょうかと聞くと、多分大丈夫でしょうという返事だった。バスの運転手は、この旅地で、最も私達に親切を示してくれた。明日七時には安房へ発って帰るつもりだと言っていた。

 ここに登場する〈無口なおとなしい女主人〉が房枝女将が二十三歳で田代家に嫁いで行った時の、義理の母にあたる先代の女将(二代目)である。
 九月二日は、早めに夕食を終え、部屋で房枝女将にインタビューすることになった。今まで林芙美子研究においてあまり知られていなかった田代館と林芙美子の関係についてどこまで肉薄できるか、和やかな雰囲気のなか話ははずみ、房枝女将から貴重な証言を得ることができた。