『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第五回)

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清水正の著作   D文学研究会発行本

平成22年9月7日(火曜)
益救神社から白谷雲水峡へ
9月2日は八時に起き、朝食の後、八時半鹿児島交通バスで宮之浦埠頭へ。ガイドは屋久島出身の岡元八千重さん。トッピーからの客を乗車させて、十時過ぎ益救神社への参拝。「町指定文化財 益救神社仁王」の石像ニ体、その背後には巨大なガジマルが根を綱のように地に下ろしている。十時五十分、バスは益救神社を後に白谷雲水峡へと向かう。
山々に囲まれた道路を快調に走って着いたのは十一時過ぎ。谷を流れる清澄な水、谷を慎重にわたる鹿、心をなごます木々の緑、バスを降りると自然に深呼吸したくなる。雲水峡入口を入ってすぐに、環境省林野庁が立てた「ここから国立公園です 美しい自然を永く子孫に伝えるため一人一人が大切にしましょう」と書いた看板がシダの間から顔を覗かせている。お堅い役所の看板も苔化粧を施されて、屋久島の自然に溶け込んでいる。いつの間にかガイドの岡元さんは黒いヒールを白い運動靴に履き代えて、みじんの疲れも見せず、はきはきとした美声でガイドを務めている。木で組まれた細い歩道を一歩一歩登り、小さな橋を渡ると、すぐ目の前に巨大な岩が幾重にも重なりあった場所に出る。一歩踏み外せば大けがをするような岩場だが、この日はサングラスをかけていても眼が痛くなるような快晴日で、一行は元気よく、子供心に戻って上りきった。
 再び樹間を歩いていると土埋木(どまいぼく)を説明する白い看板が立っていた。そこには「江戸時代に伐採された屋久杉の用途は、主に平木(屋根の材料)用であったため、割れ易い木を選んで加工し易い部分のみを利用しました。利用されなかった枝条や幹、根株は林内に放置されました。屋久杉は樹脂を非常に多く含んでいるため、200〜300年たった現在でも腐ることなく残っています。それらの残材を「土埋木」と称して林内から搬出し、貴重な屋久杉工芸品として利用しています。」(林野庁 屋久島森林管理署)と書かれていた。
 谷川の水は観光客の存在などにはまるで無関心のように自ずからなる道を、苔むした岩肌をなめるように流れていく。岩と樹と苔と水、そして吹き流れるさわやかな風と樹間からひっそりと顔をだす光の融合した世界に、しばし時を忘れる。ここに流れる時は、都会に流れる文明の時とは異質の時、ゆったりとした時である。時間に追われるように生きている者にとっては、ここ屋久島の白谷雲水峡に流れる時は、あたかも停止しているかのようにさえ感じる。
 切られても、倒されても、打ち捨てられても、腐らずに何百年の時を自らのからだに刻んだ土埋木に、わたしは深く想うところがあった。存在の時空を占めるのは決して生きてあるものだけではないのだ。清流の音に耳をすませば、森の精霊たちのつぶやきが聞こえてきそうだ。先日、検診日に近代先端機器で聴覚検査を受けたことをふと思い出した。どんなに文明が進み、医療が発達しても、森の精霊のつぶやきを聞き分ける聴覚を獲得することはできないだろう。
 十一時半、「二大杉」(切株更新)に到着。林野庁の看板には「この杉は切株の上に種子が落下して発芽生育した二大杉です。このようにして世代交替が行われることを切株交替といいます。屋久島の山ではこのような杉がいたるところで見られます。まさに屋久島ならではの人と自然との営みが組み合わされた光景と言えましょう」とある。
 研究教育の現場に生きる者にとって土埋木と切株更新の杉には深く心を動かされた。死んでも死なない土埋木と、自らのからだを種床として後進を育てる二大杉、わたしは水分をたっぷりと含んだ樹木と土と、そして木漏れ日の光を全感覚で受けとめながら、ゆっくりと歩をすすめた。