『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第二回)

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清水正の著作   D文学研究会発行本


九月一日午後三時、屋久島の宮之浦港に着く。

平成22年9月4日(土曜)
林芙美子の「屋久島紀行」を読む

 林芙美子は『浮雲』の終わり近く屋久島での富岡兼吾とゆき子を描いているが、この傑作のほかにも「屋久島紀行」(「主婦之友」昭和二十五年七月号に掲載)で屋久島について描いている。この紀行文もすばらしい文章で、島の様子もさることながら、島に生きる自転車も自動車も知らない人たちや、バスの後ろをどこまでも裸足で追ってくる子供たちを活写している。
安房から宮の浦まで、悪路をバスで行くことにした林芙美子は、バスの乗り場で「麦生から安房までの二里あまりの道を裸足で味噌を買いに来たおばあさん」と逢う。このおばあさんは安房の荒物屋に味噌を買うために二里の道を裸足で歩いて来て、再び夕暮れの道を麦生まで歩いて帰るのである。林芙美子は抑えた筆致で「二里の山坂は、このおばあさんにとっては少しも淋しい道ではないのだろう」と書いているが、このおばあさんの姿は行商で芙美子を育て上げた母親きくの姿とも重なっていたことだろう。
六時頃バスは安房を出発、七時に日はとっぷり暮れ、ときどき通りすぎる部落の子供たちはバスを見ると叫びながら夜の道を追ってくる。その場面の描写が読むものの心を熱くさせる。

 バスのヘッドライトに照される子供達は、輝くような眼をして、バスのぐるりに寄って来た。子供達は喚声を挙げた。みなバスのヘッドライトを浴びて、銅色の顔をしていた。バスは道いっぱいすれすれに、部落の軒を掠め、がじまるの下枝をこすって遅い歩みで走った。私はしっかり窓ぶちに手をかけて、暗い道に手を振っている子供達を見ていた。かあっと心が焼けつくような気がした。家々に帰り、子供達は、二つの眼玉を光らせたバスのヘッドライトを夢に見ることだろう。私は時々窓からのぞいて、暗い道へ手を振った。

 わたしはこういう文章をじっくり読む。『浮雲』もそうだが、林芙美子の文章はゆっくり一字一字読んで味わうに値する。わたしが太字にした文章に心響かない読者は、もう文学とは無縁なひとというほかはない。わたしはこの場面を読んで、七十四年の生涯を閉じた寡黙な父親のことばを思い出した。大正四年生まれの父親が子供の頃であるから、八、九十年以上も前の話である。初めて我孫子の鉄道を機関車が走る姿を一目見ようと近隣から多くの人間が集まって驚きの声をあげたということであった。巨大な鉄の塊が激しく蒸気を吹き出し、轟音を響かせて動き出した時の驚愕はどんなものであったろうか。今、現代人はこういった素朴な、からだ全体で感じる驚きを失っている。
林芙美子は島の子供達の純朴な驚きに深く共感している。林芙美子は闇の中で眼を輝かせている島の子供達だけに手を振っているのではない。両親とともに、重い荷を背負って行商に歩いた少女時代の自分の姿にも手を振っている。林芙美子がバスの中から手を振ったその〈暗い道〉がどれだけ深く暗かったことか。

  夜道は長くつゞいたが、雨は降らなかった。沁々と静かな夜である。バスが停るたび、地虫が鳴きたてていた。むれたような、亜熱帯の草いきれがした。月が淡く樹間に透けて見えた。どうすればいゝのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む。もう、二度と来る土地ではないだけに、この夜は馬鹿に印象強く私の心に残った。

 林芙美子が『浮雲』の取材を兼ねて屋久島の旅に出発したのは昭和二十五年四月十三日の夜であった。急行の二等車で九州に着くのに一昼夜かかっている。門司で一泊、翌十四日に汽車で長崎へ向かい、一週間ほど滞在する。その間、天草にも二泊している。その後、船で熊本に渡り、三日ほど滞在、鹿児島に着いたのは四月の末になっていた。鹿児島では、昭和天皇もお泊まりになったという格式のある旅館に宿泊、林芙美子の部屋からは、母きくの生まれ故郷桜島が一望できた。林芙美子はこの部屋が気にいっていたが、旅館側の都合で部屋替えの要請があり、怒った芙美子は天文館近くの繁華街の小さな宿屋に移る。林芙美子桜島には寄らず、四日目の朝九時に照国丸に乗船、午後二時頃種子島西之表港へ着く。午後九時に出港、屋久島へと向かう。照国丸は翌朝六時頃、宮之浦の沖合で客や荷物をおろした後、午前九時頃、安房の沖に錨を下ろす。本船からハシケに乗り移り、安房川河口の船着き場に着く。林芙美子は近くの「安房館」という木造二階屋の旅館に泊まり、この旅館を処点に精力的な取材活動を展開する。

 わたしが先に引用したのは、林芙美子が『浮雲』の終幕部を執筆するための取材を終えて、安房から宮之浦に向かう途中の場面である。この日、海はかなり荒れて、このしけでは明日、三百五十トンの橘丸が安房の沖に来そうにはないが、宮之浦の沖には来るかもしれないということで、思い切ってバスの運転手に頼んで、夜、宮之浦に向かったのである。

 『浮雲』は雑誌「風雪」の昭和二十四年十一月号に連載第一回目が掲載された。「風雪」は昭和二十五年の八月号で休刊、『浮雲』は発表舞台を「文学界」に移し、昭和二十六年の四月号で完結した。二ヶ月後の二十九日、林芙美子は心臓麻痺で絶命した。取材で屋久島を訪問してから、わずか一年あまりの死であった。もう一度引こう「どうすればいゝのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む」。この〈荒漠とした思い〉が胸に痛い。「もう、二度と来る土地ではないだけに、この夜は馬鹿に印象強く私の心に残った」一年後の自らの死を予感したようなことばが重く響いてくる。
 
 子供は絵になる生々した顔をしていた。娘は裸足でよく勤労に耐えている。私は素直に感動して、この娘達の裸足の姿を見送っていた。桜島で幼時を送った私も、石ころ道を裸足でそだったのだ。

 素直に感動する心を失えばもはや人間とはいえない。批評は作品に素直に感動するところから出発し、そこに至る経過報告である。わたしは今、林芙美子の『浮雲』論を執筆していて、文学の力をつくづく感じている。「石ころ道を裸足でそだった」林芙美子のまなざしは優しく深い。こういうまなざしは嘘を一瞬で見破る。嘘つきで卑劣漢の富岡兼吾を命がけで追いかけ続けたゆき子もまた「石ころ道を裸足で」駆け抜けて行った。噴火する島、桜島で生まれ育った母を持つ林芙美子は「屋久島は山と娘をかかえて重たい島」と詩った。