ラスコーリニコフはじっとすわったまま、目をはなそうともせずにながめていた。彼の思いは、やがて幻想へ、瞑想へと移っていった。彼は何も考えなかった。ただそこはかとない哀愁が彼の心をさわがせ、うずかせるばかりだった。 ふいに、彼の横にソーニャが現われた。彼女は、ほとんど物音を立てずに近寄ってきて、並んで腰をおろした。(下・399~400) Раскольников сидел,смотрел неподвижно,не отрываясь;мысль его переходила в грезы,в соверцание;он ни о чем не думал,но какая-то тоска волновала его и мучила. Вдруг подле него очутилась Соня.Она подошла едва слышно и села с ним рядом.(ア・421)
しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。(下・404) Но тут уж начинается новая история,история постепененного перерождения его,постепененного перехода из одного мира в другой,знакомуства с новою,доселе совершенно неведомою действительностью.Это молго бы составить тему нового рассказа,ーно теперешний рассказ наш окончен.(ア・422)
ドストエフスキーはこの〈新しい物語〉(новая история)に揺るぎのない確信を抱いていたのだろうか。ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう」(Это могло бы составить тему нового рассказа,)と書いた。ロジオンの〈新しい物語〉(новая история)、その「将来、大きないさおしを支払わねばならぬ」現実的な歴史は、ドストエフスキーによって〈新しい物語〉(новый рассказ)として描かれなければならない。が、ドストエフスキーはこの約束を果たさぬままに生を終えた。 〈突然〉の時性に支配されていたロジオンの〈踏み越え〉と〈復活〉の〈物語〉(история)に立ち会ってきた読者にしてみれば、ドストエフスキーがエピローグで約束したロジオンの〈更生〉〈生まれかわり〉〈一つの世界から他の世界への移行〉が〈徐々に〉(постепенный)成し遂げられるということに妙な感じを覚える。 ロジオンの行動は突然に支配されている。もしロジオンがこの突然の時性から解き放されていれば、彼の殺人という踏み越えも、ソーニャの前の跪拝も、ソーニャとの性的合一も、そして復活の曙光に輝く瞬間もないことになる。わたしは屋根裏部屋の思弁家にとどまり続けるロジオンにリアリティを感じ続けているので、『罪と罰』本編、及びエピローグで伝えられるロジオンの〈経歴〉(история)そのものにも作者の〈物語〉(рассказ)を強く感じる。何度でも指摘するが、わたしはおしゃべりし続けるロジオンに現実性を感じるので、二人の女を殺すロジオンにはどうしても違和感、というか虚構性(рассказ)を感じてしまうのである。わたしの『罪と罰』テキストに対する不信と懐疑は執拗で、その執拗な力をエネルギーにして批評行為を続けている。わたしが二十歳の昔から疑問に思っていたことは、ロジオンによる第二の殺人リザヴェータ殺しと、殺人の道具に使った斧であった。この謎の解明には五十年近くの年月を必要とした。 ロジオンは最初の場面から思い惑っている一人の青年として登場していた。しかし、ロジオンのこの思い惑い自体に照明を与えた批評研究はなかった。ロジオンの惑いは高利貸しの老婆アリョーナ婆さんを本当に殺すことができるかできないか、そういった彼の非凡人思想に重ねた〈踏み越え〉の次元にとどまっていた。しかし、〈踏み越え〉の対象をアリョーナにだけ限っていたのではリザヴェータ殺しの秘密は解けない。ドストエフスキーはきわめて巧妙な書き方で当時の優秀な検閲官の眼をくらましている。ましてや発表誌「ロシア報知」の編集者はもとより、大半の読者がその作者の巧妙な手口を看破することはできなかった。 作者ドストエフスキーがまず第一に隠したのはロジオンの内なる〈過激な革命思想〉であった。『罪と罰』の読者で、主人公のロジオンが過激な革命思想を抱いた青年と見なす者はいない。『罪と罰』の舞台は一八六五年七月である。ロジオンが大学に入学する一八六二年以前、ペテルブルグ大学の進歩的な学生たちが制度改革を求めてデモをしたりチラシを配ったりしていた多数の者たちが逮捕、監禁、追放の憂き目にあっていた時代である。その時代にあって、ロジオンが革命思想の洗礼を受けないはずはない。しかし社会の根源的な悪は皇帝による専制君主制度そのものにあり、従ってそれはどんな手段を使ってでも打倒しなければならないと認識していた、いわば正当な革命思想を抱き、革命のためには自らの命をも顧みなかった純粋な革命家は『罪と罰』の世界に一人も登場しない。過激な革命家の代わりにドストエフスキーが登場させたのは、ロシア最新思想の感染者として、思う存分に戯画化されたレベジャートニコフのみであった。 『罪と罰』表層のテキストを読む限り、主人公のロジオンも、また作者ドストエフスキーも〈革命〉思想を潜めているとは思えない。が、すでに指摘した通り、ロジオンが殺人の道具として〈斧〉にこだわったことは、彼の潜めた革命思想の発露以外のなにものでもなかった。〈斧〉で殺した相手は〈高利貸しアリョーナ〉を装った皇帝であった。革命の為には手段を選ばず、革命のために邪魔なものは容赦なく始末される。第二の殺人〈リザヴェータ殺し〉はそのことを端的に語っている。つまり、ロジオンの中に潜む革命思想とその体現の為には〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉は必須であったというわけである。 ロジオンの深い思い惑いはつまり「革命か神か」の二者択一にあったということになる。しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』のこの重要なテーマを隠した。政治犯として死刑執行寸前の体験とシベリア流刑の体験を持つドストエフスキーは、『罪と罰』の主人公ロジオンが実は過激な革命思想を抱いていたことが検閲官に看破されることを極力恐れていただろう。それにしてもドストエフスキーは〈皇帝殺し〉を企んでいた〈一人の青年〉を〈高利貸しアリョーナ婆さん殺し〉の次元で描ききり、百年以上にわたって読者をもだまし続けていたのだからそうとうなものである。謎を解く鍵は〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉にあったわけだが、おそらく『罪と罰』にはまだまだ謎が仕掛けられているに違いない。 ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。