近況報告 相変わらず『罪と罰』について書き続けている

近況報告

相変わらず『罪と罰』について書き続けている。

今日は送られてきた「季刊文科」82号を開いて松本徹「輪廻転生への希求 三島由紀夫没後五十年」と勝又浩「初めにことばあり─神と神々(2)」を読む。勝又論文は西洋の神と日本の神の違いに言及したもので、わたしの関心と共通するものがあり興味深く読んだ。続けて「新潮」11月号の連載評論・大澤信亮小林秀雄」を読む。「新潮」は表2にD文学研究会発行の著作の広告を載せているので毎月送られてくる。必ず読むのがこの連載である。今回で69回ということでずいぶん長く連載しているがいつも面白く読んでいる。坂口安吾の「教祖の文学」がとりあげられている。小林批評の本質を安吾なりに鋭く指摘したもので、今日でも少しも色あせていない。

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清水正ドストエフスキー論全集

 

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清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

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動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

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近況報告 「文芸批評論」の内容

近況報告

大学の授業は依然として対面授業ではなく、わたしはクラスルームで受講生に指示を与える方式をとっている。今回は「文芸批評論」の内容を紹介する。

10月8日清水正
先週書いたものが消えています。うまく送信できていなかったのかもしれません。
林芙美子の『浮雲』をわたしはたいへん高く評価しています。図書館長時代には二冊の林芙美子の本を監修しました。『林芙美子の芸術』2011年11月と『世界の中の林芙美子』2013年12月の二冊です。林芙美子は外国文学をたくさん読んでいますが、ロシア文学ではチェーホフドストエフスキーの作品をよく読んでいます。日本の近代現代の詩人、小説家、批評家に深く影響を与えた作家にドストエフスキーがいます。林芙美子の師匠格にあたる川端康成もその一人です。川端にまとまったドストエフスキー論の著作はありませんが、彼が三島由紀夫をはじめとして後輩の作家たちにドストエフスキーを熱心に語っていたことが伝えられています。
ドストエフスキーの作品の中でも特に『悪霊』は葛西善蔵横光利一坂口安吾椎名麟三などに大きな影響を与えています。ところでわたしは、『悪霊』の主人公ニコライ・スタヴローギンを和製化した人物が『浮雲』の主人公富岡兼吾とみなしています。林芙美子の『浮雲』を本格的に研究したいひとはぜひ『悪霊』にも挑戦してください。
わたしは林芙美子に関しては『林芙美子屋久島』、『「浮雲」放浪記』全五冊、『林芙美子の文学 「浮雲」の世界』全二冊、『林芙美子浮雲」における死と復活の秘儀』などを刊行しています。これらの著書は林芙美子の『浮雲』をドストエフスキーの文学に関連付けて批評したもので約十年の歳月を要しました。まだまだ林芙美子の文学は本格的に研究批評されているとは言えません。わたしは『浮雲』を世界文学の地平において批評しましたが、その世界が広く理解されるには相当の年月が必要とされるでしょう。
とりあえず受講者はじっくりゆっくり『浮雲』を熟読してください。課題は11月に入ってから指示します。

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遠藤周作の『私にとって神とは』

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清水正ドストエフスキー論全集

近況報告

先日まで連載した「帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー」は連載36でとりあえず中断する。連載した原稿は2016年に日大病院退院後書き続けていたものだが、この続きは『ドストエフスキー曼陀羅──松原寛&ドストエフスキー──』や『清水正ドストエフスキー論全集』第11巻に収録したり、すでに「Д文学通信」に発表してある。退院後から今日まで、ずっと原稿を書き続けているので、ブログにでも発表しないと何を書いたのかも忘れている。

ここ二週間ほど校正に追われて原稿を書く暇がなかった。相も変わらず『罪と罰』に執拗にこだわっているのだが、少し時間を空けるのもいいかもしれない。

先日、図書館から借りている本の返却要請が大学からあったので、マンションから歩いて三十秒ほどの自宅の書斎にしばしこもって本を探すことにした。倉庫状態の書斎から借りている本を発見するのも一仕事。帰り際、本の山の上に遠藤周作の『私にとって神とは』が目についたので持ち帰って読み始めた。キリスト教のことや、なぜ信者になったのかなどやさしく書いてある。まあ、一言でいえば遠藤周作の宗教観は母親教のようなもので、ユダヤキリスト教の厳しい父性的な側面は真正面から取り上げられていない。親鸞悪人正機説マルメラードフの愛と赦しの神学に似ている。離婚した母親がカソリックに入信、遠藤少年はその母親の悲しみに限りなく寄り添うようなかたちでキリスト者であり続けたと言えようか。母親から一方的に与えられた、からだにぴったりしない洋服を、精一杯自分のからだに合わせるように和服化していった遠藤周作の姿に、悲しみの母親に対する限りのない慈愛を感じる。遠藤における宗教は母性的な愛と赦しであるから、別にキリスト教でも仏教でもよかったということだろう。

この際、もう一度遠藤の『イエスの生涯』『キリストの誕生』『死海のほとり』を読み直そうと思い、記憶にある書斎の棚を妻に探してもらったが、三冊とも箱しかなかったということである。いったい中身の本はどこへ行ったのやら。そのうちひょっこり顔を出すかもしれない。

ということで、『罪と罰』を通して執拗に信仰の問題を考えることにしたい。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載36) 清水正 

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清水正ドストエフスキー論全集

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載36)

清水正 

    ここで、シベリアの監獄で労役についていたロジオンが、早朝六時、小屋のそばに積んである丸太に腰掛けて、眼前に広がる荒涼とした川面を眺めていた場面を見てみよう。

 ラスコーリニコフはじっとすわったまま、目をはなそうともせずにながめていた。彼の思いは、やがて幻想へ、瞑想へと移っていった。彼は何も考えなかった。ただそこはかとない哀愁が彼の心をさわがせ、うずかせるばかりだった。
  ふいに、彼の横にソーニャが現われた。彼女は、ほとんど物音を立てずに近寄ってきて、並んで腰をおろした。(下・399~400)
 Раскольников сидел,смотрел неподвижно,не отрываясь;мысль его переходила в грезы,в соверцание;он ни о чем не думал,но какая-то тоска волновала его и мучила.
   Вдруг подле него очутилась Соня.Она подошла едва слышно и села с ним рядом.(ア・421)

 ロジオンが〈幻想〉(грёза)から〈瞑想〉(созерцание)へと入り込んで行ったことに注意しよう。江川卓が〈瞑想〉と訳したсозерцаниеは〈観照〉という意味もある。この語からすぐに連想するのは、イエス・キリストの〈幻〉を視ることのできるソーニャが観照派に属していたことである。ソーニャが〈ラザロの復活〉を朗読した時、その傍らにいたロジオンはソーニャとイエス・キリストの秘儀を知ることはできなかった。ロジオンは未だ不信と懐疑の思弁の人にとどまっていた。しかし、今、ロジオンは〈瞑想〉(созерцание)の次元に入り込むことでソーニャの〈信仰〉の領域へと参入することになる。と、〈突然〉(вдруг〕、ロジオンの傍らにソーニャが現れる。このソーニャは実在するソーニャであると同時に、ソーニャに化身したキリストでもある。
 ロジオンは遂に〈思弁〉(диалектика)からイエス・キリストの〈命〉(жизнь)へと飛び込んだ。作者は「ふたりを復活させたのは愛だった」(Их воскресила любовь)と書いた。この〈愛〉(любовь)はロジオンにとっては実在するソーニャであると同時に、そのソーニャに化身したキリストでもある。いずれにしてもロジオンは〈徐々に〉ではなく、〈突然〉復活の曙光に輝いた。
 ドストエフスキーは『罪と罰』という〈物語〉(рассказ)のエピローグにおいて〈殺人者〉が〈突然〉信仰を獲得する場面を読者に報告した。が、同時に「彼は、新しい生活がけっしてただで手にはいるものではなく、これからまだ高い値を払ってあがなわなければならぬものであること、その生活のために、将来、大きないさおしを支払わねばならぬことも、すっかり忘れていた……。」とも書いている。ロジオンの〈復活〉は決して絶対不動を意味しない。ロジオンは再び〈信仰者〉から〈思弁の人〉へと戻る可能性をも秘めているのだ。はたして作者のうちには、ロジオンに対する不信と懐疑はもはや微塵も残ってはいなかったのであろうか。作者の眼差しは〈ひとりの人間が徐々に更生していく物語〉の方へと向けられている。が、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、この〈新しい物語〉を書くことはできなかった。これは何を意味するのか。
 ロジオンは復活の曙光に輝くことで〈永遠の命〉を獲得した。これでロジオンの〈経歴〉と〈物語〉(историяとрассказ)は幕を下ろした。ロジオンの復活を絶対とするためには、彼が徐々に更新していく〈新しい物語〉など用意されてはならないし、もともとできないのである。少なくとも、ロジオンの実存にもっともふさわしくないのが〈徐々に〉という時性である。ロジオンの運命はあくまでも〈突然〉の時性に支配されていたのであるから。
 『罪と罰』で描かれたロジオンの〈история〉(経歴)の突出事項は〈殺人〉と〈復活〉である。この殺人と復活の間にソーニャによる〈ラザロの復活〉の朗読場面とロジオンの殺人告白(厳密に言えば報告)と大地への接吻、自首などがある。わたしはこのロジオンの〈история〉に素直に頷けない。屋根裏部屋の空想家ロジオンに最もふさわしい〈история〉は、殺人と復活に至る筋書きを彼の空想(蒸し暑い夏の日の夢)と見なすことである。この観点からすれば、『罪と罰』はロジオンの〈история〉(殺人を犯さない屋根裏部屋の空想家)に虚構(殺人から復活に至る全場面)を交えた物語(рассказ)ということになる。
 ドストエフスキーはロジオンの〈斧〉による〈殺人〉によって過激な革命家の一つの典型を示した。が、この巧妙な仕掛けを看破できる読者は存在しなかった。ロジオンは高利貸しアリョーナを殺すことによって皇帝殺しを実現した。目撃者リザヴェータ殺しはロジオンの革命理論(ネチャーエフの革命家理論)の揺るぎなき遂行である。ドストエフスキーは〈ロジオン=過激な革命思想家〉をある意味、完璧に隠し通した。読者はドストエフスキーの思惑通り、『罪と罰』をロジオンの〈思弁〉から〈信仰〉へと至る物語(рассказ)として読み続けてきた。
 ロジオンは単独者として皇帝殺しという革命を果たした。が、作者はロジオンに革命成就者としての栄光を授けることはなかった。革命を果たした後のロジオンに魂の救いはない。ドストエフスキーが予め用意していたのは偉大なる罪人ソーニャである。革命によっては人間の魂を救うことはできないという確信が作者にあったのであろうか。ロジオンは淫売婦ソーニャの前にひざまずく。ロジオンにキリストの姿〈幻=видение〉は見えないが、キリストを体現しているかのようなソーニャの、その全人類の苦悩を一身に背負ったかのような姿の前には、まさに思弁を超えた次元でひざまずかずにはおれなかった。
 人類にとって望ましい未来の社会は革命によっては成就できない。否、社会の制度は変革できても、魂の問題はそれによっては解決できない。ロジオンが果たした過激な革命実践によってもレベジャートニコフの穏健な革命思想によっても、ソーニャが引き受けざるを得なかったような苦悩は解消しない。殺人後、ロジオンを絶え間なく襲った苦しみは、信仰者ソーニャと共に歩むことでしか解消しない。
 ドストエフスキーが『罪と罰』で用意した回答は革命ではなく信仰であった。彼はエピローグでその保証人となった。が、『罪と罰』の読者の何人が、この作者の保証書を素直に受け取ったのであろうか。ロジオンの斧による過激な革命にも、ソーニャの狂信にも納得できないものが残る。

 
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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載35) 清水正 

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清水正ドストエフスキー論全集

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載35)

清水正 

  ソーニャは神を信じることで救われているのか。救われているとして、その救いとは何を意味するのだろうか。淫売稼業で残された義理の弟妹たちを面倒みなければならない、この状況のただ中にあって何をもってして救いというのだろうか。ソーニャの内的苦悩は計り知れない。現実的になんの解決にもならない信仰による救いを、はたして救いと言えるのだろうか。思弁的見地からは何もしてくれない神を狂おしいばかりに信じているソーニャの内面において、救いは成就されているのだとでも言うのであろうか。『罪と罰』に描かれたソーニャは、彼女自身が紛れもないキリストに見えてくる。ロジオンもそう感じたからこそ、突然ソーニャの前にひれ伏したのである。ロジオンは、すぐに起きあがって「ぼくは人類のすべての苦悩の前にひざまずいたのだ」と言う。この時の、思弁の人ロジオンの行動は〈突然〉の時性に支配されている。思弁は思弁本来の性格によって信仰そのものの領域に踏み込むことはできない。ロジオンは孤独な屋根裏部屋の思弁家であるが、時に彼の行動は思弁や自意識を越えた〈突然〉(вдруг)の時性に支配される。
 ロジオンは書斎派のアポロン的な哲学者にはなれない。ロジオンが求めているのは思弁の持続(はてしなく続くおしゃべり)ではない。が、ロジオンにおける〈突然〉は、思弁から信仰へと彼の背を押すが、すぐにまた信仰から思弁へと突き戻す作用を持っている。ここにロジオンの信仰という一義に徹しきれない悩ましい実存の本質が潜んでいる。結果としてロジオンは作者ドストエフスキーによって復活の曙光に輝いているが、この曙光が永遠に輝き続ける保証はない。

 「思弁の代わりに生活が登場したのだ」と書いた後、ドストエフスキーは次のように続けてペンを置いた。

  彼の枕の下には福音書があった。彼は無意識にそれを手にした。この本は彼女のだった。彼女がラザロの復活を彼に読んでくれたあの福音書だった。徒刑生活の最初のころ、彼女が宗教で自分を悩まし、福音書の話をはじめ、自分に本を押しつけるのではないか、と考えたことがあった。だが、まったく驚いたことに、彼女は一度もその話をしようとせず、一度として彼に福音書をすすめようとさえしなかった。病気にかかるすこし前、彼は自分から彼女に頼んだのだった。彼女は黙って聖書を持ってきた。今日まで、彼はそれを開いて見ようともしなかった。
  いまも彼は、それを開こうとはしなかった。ただ一つの考えが彼の頭をかすめた。『いまや、彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか? すくなくとも彼女の感情、彼女の願望は……』
  彼女も、この日は一日興奮していて、夜になると、また病気をぶりかえしたほどだった。けれど彼女は、自分のしあわせがむしろ空怖ろしく思われるくらい、幸福感にひたっていた。七年、わずかの七年! 幸福をえた最初のころ、ときとしてふたりは、この七年間を七日のように見ることもあった。彼は、新しい生活がけっしてただで手にはいるものでなく、これからまだ高い値を払ってあがなわなければならぬものであること、その生活のために、将来、大きないさおしを支払わねばならぬことも、すっかり忘れていた……。(下・403~404)

 

  しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。(下・404
  Но тут уж начинается новая история,история постепененного перерождения его,постепененного перехода из одного мира в другой,знакомуства  с новою,доселе совершенно неведомою действительностью.Это молго бы составить тему нового рассказа,ーно теперешний рассказ наш окончен.(ア・422)

 文字通り読めば、ロジオンは初めて福音書を読む気になったらしい。はたしてロジオンは〈踏み越え〉(アリョーナ、リザヴェータ殺し)の前に福音書を読んだことがなかったのであろうか。子供の頃、母プリヘーリヤから読み聞かされた程度の福音書の知識しか持ち合わせがなかったのであろうか。もしそうだとすれば、ロジオンはソーニャの小部屋で初めてヨハネ福音書中の「ラザロの復活」を聞いたことになる。注意すべきは、ロジオンが自らの目で読んだのではなく、狂信者ソーニャの声を通して聞いたことである。活字を通して読むことは思弁の働きを活発にさせる。ましてや神に対する不信と懐疑のただ中にある者にとってはなおさらである。さらに注意すべきは、ロジオンは〈踏み越え〉た後に「ラザロの復活」の朗読(ソーニャの信仰告白)を聞いていることである。
 ロジオンは高利貸しアリョーナ婆さんのアパートに瀬踏みに立ち寄った後、地下の居酒屋で酔漢マルメラードフの告白を聞くことになる。ロジオンはこの告白でソーニャの存在を知った。ロジオンはこの時、踏み越えた〈後〉で、ソーニャにそのことを報告しようとする。踏み越えた後でなければ、ロジオンはソーニャと同一の次元に立つことはできない。これはロジオンが逃れることのできない運命として直覚したことで、この書かれざる直覚を共有できない読者は、ロジオンとソーニャの神秘的な合一のドラマに参入できない。
 いずれにしても、ロジオンは福音書に書かれた数多くのイエスの言行のうちから、「ラザロの復活」の場面を最初に聞いたことを忘れないようにしておこう。ロジオンはこれから七年間の獄中生活のただ中で福音書を読み続けることになる。ドストエフスキーは四年間にわたるシベリアの監獄生活においてデカブリストの妻から贈られた福音書を読んだ。この死の家で福音書を読み続けたドストエフスキーが、ロジオンにおける〈新しい物語〉ーー〈ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語〉を約束している。

 ドストエフスキーはこの〈新しい物語〉(новая история)に揺るぎのない確信を抱いていたのだろうか。ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう」(Это могло бы составить тему нового рассказа,)と書いた。ロジオンの〈新しい物語〉(новая история)、その「将来、大きないさおしを支払わねばならぬ」現実的な歴史は、ドストエフスキーによって〈新しい物語〉(новый рассказ)として描かれなければならない。が、ドストエフスキーはこの約束を果たさぬままに生を終えた。
 〈突然〉の時性に支配されていたロジオンの〈踏み越え〉と〈復活〉の〈物語〉(история)に立ち会ってきた読者にしてみれば、ドストエフスキーがエピローグで約束したロジオンの〈更生〉〈生まれかわり〉〈一つの世界から他の世界への移行〉が〈徐々に〉(постепенный)成し遂げられるということに妙な感じを覚える。
 ロジオンの行動は突然に支配されている。もしロジオンがこの突然の時性から解き放されていれば、彼の殺人という踏み越えも、ソーニャの前の跪拝も、ソーニャとの性的合一も、そして復活の曙光に輝く瞬間もないことになる。わたしは屋根裏部屋の思弁家にとどまり続けるロジオンにリアリティを感じ続けているので、『罪と罰』本編、及びエピローグで伝えられるロジオンの〈経歴〉(история)そのものにも作者の〈物語〉(рассказ)を強く感じる。何度でも指摘するが、わたしはおしゃべりし続けるロジオンに現実性を感じるので、二人の女を殺すロジオンにはどうしても違和感、というか虚構性(рассказ)を感じてしまうのである。わたしの『罪と罰』テキストに対する不信と懐疑は執拗で、その執拗な力をエネルギーにして批評行為を続けている。わたしが二十歳の昔から疑問に思っていたことは、ロジオンによる第二の殺人リザヴェータ殺しと、殺人の道具に使った斧であった。この謎の解明には五十年近くの年月を必要とした。
 ロジオンは最初の場面から思い惑っている一人の青年として登場していた。しかし、ロジオンのこの思い惑い自体に照明を与えた批評研究はなかった。ロジオンの惑いは高利貸しの老婆アリョーナ婆さんを本当に殺すことができるかできないか、そういった彼の非凡人思想に重ねた〈踏み越え〉の次元にとどまっていた。しかし、〈踏み越え〉の対象をアリョーナにだけ限っていたのではリザヴェータ殺しの秘密は解けない。ドストエフスキーはきわめて巧妙な書き方で当時の優秀な検閲官の眼をくらましている。ましてや発表誌「ロシア報知」の編集者はもとより、大半の読者がその作者の巧妙な手口を看破することはできなかった。
 作者ドストエフスキーがまず第一に隠したのはロジオンの内なる〈過激な革命思想〉であった。『罪と罰』の読者で、主人公のロジオンが過激な革命思想を抱いた青年と見なす者はいない。『罪と罰』の舞台は一八六五年七月である。ロジオンが大学に入学する一八六二年以前、ペテルブルグ大学の進歩的な学生たちが制度改革を求めてデモをしたりチラシを配ったりしていた多数の者たちが逮捕、監禁、追放の憂き目にあっていた時代である。その時代にあって、ロジオンが革命思想の洗礼を受けないはずはない。しかし社会の根源的な悪は皇帝による専制君主制度そのものにあり、従ってそれはどんな手段を使ってでも打倒しなければならないと認識していた、いわば正当な革命思想を抱き、革命のためには自らの命をも顧みなかった純粋な革命家は『罪と罰』の世界に一人も登場しない。過激な革命家の代わりにドストエフスキーが登場させたのは、ロシア最新思想の感染者として、思う存分に戯画化されたレベジャートニコフのみであった。 『罪と罰』表層のテキストを読む限り、主人公のロジオンも、また作者ドストエフスキーも〈革命〉思想を潜めているとは思えない。が、すでに指摘した通り、ロジオンが殺人の道具として〈斧〉にこだわったことは、彼の潜めた革命思想の発露以外のなにものでもなかった。〈斧〉で殺した相手は〈高利貸しアリョーナ〉を装った皇帝であった。革命の為には手段を選ばず、革命のために邪魔なものは容赦なく始末される。第二の殺人〈リザヴェータ殺し〉はそのことを端的に語っている。つまり、ロジオンの中に潜む革命思想とその体現の為には〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉は必須であったというわけである。
 ロジオンの深い思い惑いはつまり「革命か神か」の二者択一にあったということになる。しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』のこの重要なテーマを隠した。政治犯として死刑執行寸前の体験とシベリア流刑の体験を持つドストエフスキーは、『罪と罰』の主人公ロジオンが実は過激な革命思想を抱いていたことが検閲官に看破されることを極力恐れていただろう。それにしてもドストエフスキーは〈皇帝殺し〉を企んでいた〈一人の青年〉を〈高利貸しアリョーナ婆さん殺し〉の次元で描ききり、百年以上にわたって読者をもだまし続けていたのだからそうとうなものである。謎を解く鍵は〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉にあったわけだが、おそらく『罪と罰』にはまだまだ謎が仕掛けられているに違いない。
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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載34) 清水正

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載34)

清水正 

   ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「愛が彼らを復活させた」(Их воскресила любовь,)「思弁が命に取って代わった」(Вместо диалектики наступила жизнь,)と書いた。ここで言われている〈愛〉、〈復活〉、〈命〉をどのように理解すればいいのだろうか。まず、〈彼ら〉(Их)をソーニャとロジオンと見なした上で考えてみよう。ソーニャは淫売婦であるから〈姦淫〉の罪を負っている。が、ソーニャは罪人であると同時に狂信的な信仰者であった。この信仰者ソーニャにおける〈復活〉とはどういうことを意味するのか。またロジオンは二人の女を斧で叩き殺しておきながら遂に〈罪〉(грех)の意識に襲われることがなかった。罪意識のない犯罪者の〈復活〉とはいったいどういうことなのであろう。ロジオンは犯行後、一回でも良心の疼きに襲われたことがあっただろうか。
 確かにソーニャが言ったように、ロジオンは苦しんでいる。そのことを否定することはしまい。しかしその〈苦しみ〉は二人の女を殺したことに対する良心の呵責によるものではない。ロジオンは犯行後、自分が非凡人の範疇に属する人間ではないことを思い知った。つまりロジオンは、自分が殺した高利貸しアリョーナ婆さんよりも卑小なシラミでしかないことを認めざるを得なかった、そのことに苦しんだのである。罪の意識に襲われないままに復活の曙光に輝いてしまったロジオンは、はたしてイエスの言葉「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死すとも生き返る。また、生きて、私を信じる者は、永遠に死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」に対して、「主よ、そのとおりです。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」と言えたのであろうか。わたしは、ソーニャが貧しい菱形の小部屋で朗読(告白)したあの〈ラザロの復活〉の場面をもう一度、ロジオンに照明を与えて再現してもらいたいとさえ思う。ソーニャの狂信的な〈信仰〉に対するロジオンの妥協を許さぬ〈思弁〉があってこその『罪と罰』の醍醐味である。
 ドストエフスキーはソーニャの〈信仰〉の結果を余りにも都合よく描き出してはいないだろうか。ロジオンはソーニャの信じる神様はなにもしてくれないではないかと言う。これはひとりロジオンの思いではない。一家の犠牲になって淫売稼業に身を落としたソーニャに、神はいったいどのような救いの手を差し伸べたというのか。マルメラードフとカチェリーナの死後、ソーニャは残された三人の子供たちの面倒もみなければならない。やっと十歳になったポーレンカの運命も決まったようなものである。現実的な眼差しを注げば、ソーニャと三人の子供たちの運命は悲惨の一語につきる。ソーニャは神様はなんでもしてくださる、ポーレンカに自分のようなことをさせるわけはないと言う。が、『罪と罰』の世界に、ソーニャの言うなんでもしてくださる神様はついに登場しない。その意味で『罪と罰』は宗教的なファンタジー小説の部類に属することはない。『罪と罰』はあくまでもリアリズムの手法に則っており、ソーニャには視えるイエス・キリストを誰にでも認知できる存在として作品世界に登場させるようなことはしなかった。が、ドストエフスキーはロジオンの〈何もしてくれない神様〉とソーニャの〈何でもしてくださる神様〉の問題を、〈思弁〉と〈信仰〉の次元からずらして、別の方向へと舵を取ってしまった。
 ドストエフスキーは〈何でもしてくださる神様〉を作中に登場させる代わりに、〈ラザロの復活〉の朗読場面を隣室で立ち聞きしていたスヴィドリガイロフ(Свидригайлов)にその役目を背負わせている。〈ラザロの復活〉という前後未曾有の一大〈奇蹟〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であった得体の知れない〈怪物〉(чудо)に〈現実的に奇蹟を起こす人〉(чудотворец)の役割を演じさせた。スヴィドリガイロフはソーニャを淫売稼業の泥沼から救いだし、カチェリーナの連れ子三人を養護施設に預けた。とりあえずめでたし、めでたしである。が、このスヴィドリガイロフの善行で「何でもしてくださる神様」の存在を認めることができるのだろうか。『罪と罰』の中で、スヴィドリガイロフのこの善行をめぐってソーニャとロジオンが表だって口にすることはない。
 スヴィドリガイロフは死んだ妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を視ることができる。この〈привидение〉を〈провидение〉と書き換えると〈神〉となる。マルファ(Марфа)は、ラザロの復活の場面でイエスに面と向かって「あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」と応えたマルタを意味する。スヴィドリガイロフがソーニャたちに施した金はもともとマルファのものである。すると、マルファがスヴィドリガイロフの手を通して何でもしてくださる〈神様〉(провидение)の役を演じたと言えないこともない。が、いずれにしても、こういった設定はリアリズムの圏外に属する。ドストエフスキーが『罪と罰』で描いたスヴィドリガイロフのソーニャに対する善行(奇蹟)は余りにもファンタジー過ぎる。このファンタジーを信じることはソーニャの狂信を信じることと同様に困難を極める。
 わたしは改めてソーニャにおける〈救い〉を問題にしたいと思う。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載33)

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載33)

清水正

 

    ドストエフスキーは全生涯を通して神の存在を問題にした。神は存在するのかしないのか。神は存在するとして、なぜこの地上世界を不条理に充ちた世界として創造したのか。いったいこの世界のどこに正義・真理・公平が体現されているというのか。『罪と罰』のカチェリーナ、ロジオン・ラスコーリニコフ、『悪霊』のアレクセイ・キリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフの口からわたしたちは神に対する深く激しい抗議の言葉をきくことになる。はたしてドストエフスキーは自らが創造した人神論者たちを説得することができたのであろうか。アレクセイ・カラマーゾフやゾシマ長老の信仰は、彼らの不信と懐疑に十分に応えることができたのであろうか。
 ドストエフスキーが信仰と思弁の問題に関して徹底的に追及しているのは『罪と罰』である。地下の居酒屋でロジオン相手に親鸞悪人正機的な赦しの神を説くマルメラードフの神学、ロジオンの要請に応えてラザロの復活を朗読した狂信者ソーニャの信仰、これらの神学と信仰は本当に思弁の人ロジオンを回心させることができたのであろうか。わたしはドストエフスキーの人神論者以上の執拗さで神の問題を問い続けていきたいと思っている。
 マルメラードフの口にする神は、「汝姦淫するなかれ」の死罪に値する戒律を破っている淫売婦ソーニャを、自分の娘を犠牲にして酒におぼれているろくでなしのマルメラードフを、額に獣の数字666を刻印している涜神者ロジオン・ラスコーリニコフをも赦す神である。この神は愛と赦しの新約の神イエス・キリストドストエフスキー風に描き出したものと言える。マルメラードフが頭に抱いている神はおそらく新約の神イエスであって、厳しく裁き、罰する旧約の神ではない。マルメラードフの神学は旧約の神と新約の神の違いを明確にした上で展開されていないし、そもそも旧約の神の存在は彼の意識の圏外にある。ソーニャの場合も同様で、彼女の信仰の対象はあくまでもイエス・キリストである。尤もヨハネ福音書において、イエスは自分が天の神から遣わされた神のひとり子であることを証明するためにラザロの復活という奇蹟を起こすのだと口にしている。従ってイエスを信じることのうちには旧約の神を信じるということが予め含まれているということになる。
 ユダヤキリスト教の文化・信仰圏に生まれ育った者にとって神と神の子(および聖霊)の一体化は論議以前の真理として受け止められているのかも知れない。が、それとは異なる文化・信仰圏に生まれ育った者にとっては旧約の神と新約の神の一体化を理性的に理解することはできない。ましてや聖霊となるとちんぷんかんぷんである。なぜ、神と神の子の一体のほかに聖霊を必要とするのか。聖霊をたとえば、神と神の子の間を仲介する天使と見れば、それなりの理解はできるが、それにしても神と神の子の間になぜに仲介者を必要とするのか、その理由がわからない。
 『罪と罰』の中で観照派に属すると思われるソーニャはイエス・キリストを〈幻〉(видение)として視ることができる。「ラザロの復活」の朗読の場面において、ソーニャは部屋の片隅に現出したイエスを視ている。大半の読者には理解できないとしても、ドストエフスキーはそのように描いている。わたしがここで問題にしたいことは、ドストエフスキーはこのイエス・キリストの〈幻=видение〉を、その場にいたロジオン・ラスコーリニコフには分からないように描いていることである。『分身』における新ゴリャートキンは作中において旧ゴリャートキンのみならず、その他のすべての登場人物にとっても実在している人物として描かれている。もし、ドストエフスキーが『罪と罰』においてイエス・キリストを〈幻=видение〉としてではなく、誰にでも認知できる存在として描いたなら、この作品の評価はずいぶんと異なったものになったに違いない。
 ドストエフスキーの文学は既存のキリスト教を大々的に広めるために創造されたわけではない。彼がなしたことは、はてしのない不信と懐疑の力によってキリスト教の深みへと徹底的に踏み込んでいったことにある。このドストエフスキー的な不信と懐疑の洗礼を受けていない信仰は信仰とは言えない。換言すれば、キリスト者を称する者はすべてドストエフスキー的な不信と懐疑に真っ向から対面し対決しなければならない。ソーニャが感知しているイエス・キリストの存在〈幻=видение〉を同様に感知できる者は、ソーニャと同じ信仰を獲得していると言えるかもしれない。が、それを感知できない者にとってはイエス・キリストの存在はないに等しいのである。
 ソーニャと同じ部屋にいて、ロジオンはソーニャの視ている〈幻=видение〉を感知することはできない。ロジオンはソーニャの信じる神を信じようとしても、彼の弁証法(диалектика)がソーニャの信仰を〈狂信〉としか認めないのである。信仰と思弁の戦いはおそらく永遠に決着がつかないであろう。ところで『罪と罰』を書いたドストエフスキーは、この永遠に決着のつかない問題に決着をつけてしまった。

 

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