帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載13) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載13)

師匠と弟子

清水正

  現代医学の知識で納得のいく奇跡もあれば、自然科学的次元ではとうてい納得のいかない奇跡もある。イエスが起こした奇跡のうち、パンの量を増やしたことは、先に引用した荒野での悪魔の誘惑に乗ったことと同じように見える。わたしの個人的な考えとしては、いっさいの奇跡を起こさない無力で滑稽なイエスにこそ真実を覚える。

 ヨハネ福音書で前後未曾有の一大奇跡と言われるラザロの復活を起こしたイエスを立派とは思わない。ここでのイエスは自分が神に使わされたひとり子であることを証明するために奇跡を起こしている。イエスは自分の言葉と行為に神の権威を付与するために奇跡を起こしていている。ヨハネ福音書においてイエスは神の権威を必要としている。荒野で悪魔の誘惑を退けたイエスは、ここでは積極的に悪魔の誘惑に乗っているばかりか、そのことを正当化している。『ヨブ記』の悪魔は神と予め相談のうえ、ヨブの信仰を試みている。『ヨブ記』の神と悪魔は実に親密な関係にあり、この関係は『創世記』の全知全能の神と蛇との間にも見られる。先にも指摘したように、『創世記』の神はどう見ても全知全能とは思えない。神はアダムとエバに向かってエデンの園に生えている知恵の実を食したら死ぬと言った。しかし、蛇の誘惑に乗って知恵の実を食したエバとアダムは死ななかった。この時点で神の言葉は絶対性を失っている。わたしの目には、神と蛇は創造主と被造物の関係にあると言うよりは、同一のものの裏表の関係にあるように見える。エデンの園から姿を消した神は、すぐに蛇に化身して自らの被造物を言葉巧みに誘惑している。自らの被造物を試みなければならないほど、この神は退屈していたのだろうか。いずれにしてもアダムとエバが神の命令に従わず、蛇の誘惑に乗ったことで、人間の喜怒哀楽のドラマ(歴史)は始まったとは言える。

 ユダヤキリスト教の教えの中で納得のいかないことは多いが、特に分からないのは〈罪〉である。人間は生まれながらにして罪深き存在なのだ、と言われてもさっぱり分からない。いったいユダヤキリスト教で当たり前の如く言われている〈罪〉とは何なのか。

  人間は生まれた時から罪を背負っているのだという、そういう考え方がそもそも受け入れられない。神の命令に背いたことが罪なのであろうか。それなら神は自分の命令に背くようなものをはじめから造らなければよかったのではないか。知恵の実を食したことが罪という考え方も納得がいかない。神は被造物アダムとエバが永遠に無知のままエデンの園にとどまることを願っていたのなら、知恵の実を植えておかなければよかったのではないか。

 いずれにせよ〈原罪〉という言葉自体に微塵のリアリティも感じない。〈悪〉も〈善〉も、民族、宗教、時代によって異なっており、それを知った者はもはやこれらに絶対的な一義性を与えることはできない。

 人間が知恵の実を食して神のような存在になることが、なぜ罪なのか、それが分からない。

  人間は共同社会の中で生きていかざるを得ないので、その社会・組織の維持安定のために一定の掟(ルール)を作る。その掟に背いた者は厳しく罰せられることになる。これは知性や理性に則って現代社会を生きる者にはよく理解できる。あくまでもルールであり、ルール違反であって、そこに絶対的な神の命令や、命令に反したことによる罪が生ずるわけではない。

 一民族に唯一神が存在するとすれば、もうそれだけでこの神は相対化を免れない。相対化をあくまでも拒もうとすれば、決着がつくまで徹底的に戦わなければならないことになる。そういうことで、今でも戦いは続いている。

 わたしはキリスト者ではない。しかし十七歳からドストエフスキーの作品を読み続けていることで、いつも神のことを考え続けてきたし、人間イエスの生き方、死に方には深い関心を持っている。ドストエフスキーはデカブリストの妻フォンヴィージナ宛の手紙の中で「もしキリストが真理の外にあっても、私は真理と共にあるよりはキリストと共にありたい」と書いた。この箇所だけを読めば、ドストエフスキーは正真正銘のキリスト者となる。が、ドストエフスキーは同じ手紙に「私は同時に不信と懐疑の時代の子です」とも書いている。ドストエフスキーは信仰においても一筋縄ではいかない。わたしは二十歳の昔からドストエフスキーはその内部に神も悪魔も抱え込んだディオニュソス的作家と見なしている。あるいはベルジャーエフの言うように、ドストエフスキーはそれまでのキリスト教をはてしなく深めた作家ということになろうか。

 わたしは今、マルコ福音書を読むことで人間イエスに照明を与えようとしているのだが、福音書に登場するイエスはすでにたっぷりと〈神のひとり子〉の衣装を着せられている。荒野で悪魔の誘惑をことごとく退けたイエスが、なぜ弟子や人々の前で数々の奇跡を起こすのか。わたしはいっさいの奇跡を起こさないイエスに人間イエスを見る。マルコで墓場の狂人にとり憑いていた〈汚れた霊〉を豚に乗り移らせたりするイエスは人間イエスの範疇から逸脱した存在である。

 

 

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載12) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載12)

師匠と弟子

清水正

 マルコ福音書だけを読み直していても、様々な疑問が次々にわき起こってくる。その一つにイエスが起こしている奇跡の数々がある。湖の上を歩いたり、病人を直したり、パンの数を増やしたり‥‥。わたしは奇跡を起こすイエスよりも、奇跡など何一つ起こさない無力な人間イエスにまずは照明を与えたいと思っている。だから、奇跡の数々を起こすイエスはどこかしら後世の者たちの脚色を感じて鼻白んでしまう。

 まずは、松原寛も著作でたびたび取り上げた、イエスが荒野で悪魔の誘惑を退ける場面を取り上げよう。引用はマタイ福音書による。

 

  さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

  そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

  すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

  イエスは答えて言われた。「『人はパンだけでのみ生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

  すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、

  言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

  イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

  今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

  言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

  イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

  すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。〔4章1~11〕(4~5)

  Тогда Иисус возведен Духом в пустыню,для искушения от диавола,

  И,постившись сорок дней и сорок ночей, напоследок взалкал.

  И приступил к Нему искуситель и сказал:если Ты Сын Божий,скажи,чтобы камни сии сделались хлебами.

  Он же сказал ему в ответ:написано:《не хлебом одним будет жить человек,но всяким словом,исходящим из уст Божиих》.

 Потом берет Его диавол в святый город и поставляет Его на крыле храма,

 И говорит Ему:если Ты Сын Божий,бросься вниз;ибо написано:《Ангелам Своим заповедает о Тебе,и на руках понесут Тебя,да не прекнешься о камень ногою Твоею》.

  Иисус сказал ему:написано тагже:《не искушай Господа Бога твоего》.

  Опять берет Его диавол на весьма высокую гору,и показывает Ему все царства мира и славу их,

  И говорит Ему:все это дам Тебе,если падши поклонишься мне.

  Тогда Иисус говорит ему:отойди от Меня,сатана;ибо написано:《Господу Богу твоему поклоняйся и Ему одному служи》.

  Тогда оставляет Его диавол,ーи се,Ангелы приступили и служили Ему.〔ОТ МАТФЕЯ 1~11〕(3)

 

 ここでイエスは〈悪魔〉(диавол)の試みを毅然とした態度で拒んでいる。〈試みる者〉(искуситель)は『創世記』の〈蛇〉(змей)がエバを誘惑したようにイエスを誘惑することはできなかった。荒野で悪魔の誘惑を退けたイエスが、マルコ福音書ではなぜパンの量を増やす奇跡を起こすのだろうか。五つのパンが増えて五千人の男たちの胃袋を満足させている。イエスの起こす奇跡を眼前に見た弟子たちや、イエスについてきた人々は、まさにそのことによってイエスを尋常ならざる存在と見なしたであろう。イエスは荒野で現出してきた悪魔の誘惑には乗らなかった。しかし、五つのパンを増やすことは石をパンに変えることと同じことではないのか。マルコ福音書で奇跡を起こすイエスは内なる悪魔の誘惑に乗った者にすら見える。イエスは奇跡を起こすにあたって何ら躊躇していない。イエスにとって湖の上を歩くこと、風を止ませること、パンや魚を増やすこと、病人を治すことなど、もはや自然なことであって、特に奇跡を起こしているという意識さえなかったように描かれている。

  

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載11) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載11)

師匠と弟子

清水正

 

 神や悪魔は外在するものでなく内在するものだという前提のもとにドストエフスキーの文学作品は成立している。ロジオン・ロマーノヴィチが悪魔の誘惑に落ちたと言っても、その悪魔は彼自身の中に潜んでいたのだと見ることができる。イワン・カラマーゾフが悪魔と対話しても、やはりその悪魔はイワンの内部世界から出現したのだと見なされる。しかし、ドストエフスキーの描写は迫真的なので、まさに悪魔は外在しているように感じられる。ソーニャはイエス・キリストを視ることができるが、その幻像(видение)は他の人物には見えないし、イエス・キリスト自身が作中に独立した存在として登場することもない。スヴィドリガイロフが三度も見たという亡き妻マルファの幽霊(привидение)も同様である。ドストエフスキーの作品には基本的には人間だけが登場人物として設定されており、幻覚や幽霊はそれを見る主体の投影物として描かれる。

 善悪を知ることができるということを、知恵の実を食して神と同等となった人間が善悪を決定できるというのであれば分からないこともない。神は自らの意志によって恣意的に善と悪を決定でき、それを絶対化するというのであれば理解可能ということである。しかし、知識が絶対的な善悪観念を獲得することは不可能であることに間違いはない。

 全知全能の神は、アダムとエバに禁じた木の実を食べると死ぬと言っていた。が、蛇の誘惑に乗って木の実を食べたアダムとエバは死なずに生きていた。とすれば、この神は嘘をついていたことになる。いずれにせよ、『創世記』における全知全能の神は、自らが造った蛇や人間の意志をコントロールできない相対的な存在だったということになる。

 全知全能の神と記されながら、この神は蛇や人間の自由意志に対して無力である。『創世記』の神は被造物に自由意志を与えている。被造物の意志もまた神のものでなければ、その神を全知全能とするわけにはいかないだろう。

 神が退屈のあまり、蛇や人間に自由意志を与えて遊ぼうというのならわかる。全知全能の神が、敢えて蛇や人間に自由意志を与え、自らを相対化して世界の中に一人物として参加したいと願ったというのなら理解できる。もしそうでないのなら、『創世記』の神を全知全能の神と見なすことはできない。

 旧約聖書新約聖書を読めば、数多くの矛盾に直面して戸惑いを通り越して笑うほかはなくなる。

  モーセ十戒の一つに「殺すなかれ」がある。が、イスラエルの神は至る所で殺すことを命じている。イエスは「汝の敵を愛せよ」と言っている。これら三つの言葉を同時に聞いて、一義的行動を迫られた者はどうしたらいいのか。生真面目な者なら発狂しかねまい。

 それに命令自体が曖昧である。モーセの「殺すなかれ」ひとつをとってみても、殺す対象が限定されていない。動物や昆虫は含まれていないのか。人間全般を指しているのか。それとも同族のユダヤ人だけを対象にしているのであって、他民族は殺してもかまわないと言っているのか。十戒モーセから一方的に命じられており、いっさいの質問が許されていない。従って他の戒に関してもきわめて曖昧なままである。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載10) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載10)

師匠と弟子

清水正

 

   ユダヤキリスト教における〈神〉は『創世記』における全知全能の神ということになろうか。

 自分の姿に似せてアダムとエバを造った神は、彼らをエデンの園において、この園のすべての木の実を食べてもいいが、中央の木の実だけは食べてはならない、この木の実を食べると死ぬと言い残して園を去る。木の実には狡猾な蛇が潜んでいてエバを言葉巧みに唆す。蛇は、神がこの木の実を食べてはいけないと命じたのは、この木の実を食べると神のような存在となって善と悪を知るようになるからだと言う。アダムとエバは神の姿に似せて造られているが、この木の実を食べると姿形だけではなく内的にも神そのものとなるということである。

 ところで『創世記』を読んでいて一番の疑問は、全知全能の神がどうしてアダムとエバが蛇の誘惑に乗って自分の命令に背くことを予め知らなかったのか、ということである。もし、本当に知らなかったとすればこの神をどうして全知全能と見なすことができるだろうか。もし、予め何もかも知っていたとするなら、この神は単に自らの被造物を試したということになる。もしそうだとするなら、なぜわざわざ試すのか、というさらなる疑問が生ずることになる。この神は暇をもてあましてアダムとエバを試みずにはおれなかったのだろうか。

 次の疑問は、この知恵の木の実を食べると善と悪を知るようになるということである。わたしの認識で言えば、人間は知を獲得することによって善悪観念を摩滅することになる。これはドストエフスキーが『悪霊』で描いたニコライ・スタヴローギンにおいて証明されるだろう。神が定めた善、神が定めた悪を、そのまま受け止める信者においては善悪観念はまさに生きている。しかしここに一人の思弁家が登場して、なぜそれが悪であり善であるのかを神に問いただすようなことがあれば、もはやすでにその善と悪は相対化の波に襲撃され、元の確固たる姿を保持することは不可能となる。

 知恵の木の実を食べると神のようになるということに焦点を当てれば、人間は神と同じように善と悪とを定めることができるということになる。善と悪はそれを定める神の手に全面的に委ねられたということである。しかし、この場合、すべての人間が神のような存在となれば、やはり善と悪は相対的なものとならざるをえないだろう。わたしたちは善悪観念が民族、宗教、時代、地域などによって異なることを知っている。唯一絶対不動の善悪観念を見いだすことはできない。

 『創世記』の中で最も興味をひく登場人物は蛇である。この蛇もまた神によって造られたという設定になっているが、わたしの目には神そのものに見える。ここで神は蛇に化身してエバを巧妙に誘惑しているように見えるのである。神が蛇に化身してまでエバを誘惑したことはいったい何を意味しているだろうか。神は神になろうとする被造物に最も魅力を感じていたのだろうか。神は唯一者であることの孤独に耐えられず、ついに神になろうとする被造物をつくって誘惑し、不断に神を問い、神と対話し、神に反逆し、神に屈服するような、自分(神)と全く同一ではないが、いつも自分とかかわわらずにはおれない存在を必要としたのだろうか。

 

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師匠と弟子

清水正

 マルコ福音書を読んでいてわたしがもっとも興味があるのは、この福音書を書いたのは誰かということである。「マルコ福音書」と言うからには、マルコが作者であることに間違いはないのであろうが、このマルコが近代文学者、たとえばドストエフスキーのような作者と同じような存在と断定できるのかどうかについては、おそらく断定しきれない諸問題を抱え込んでいよう。マルコはイエスの弟子の一人で、十二弟子と同様に、イエスと行動を共にしていたのかどうか。マルコ福音書を読む限り、マルコはイエスの言動および弟子たちの反応を知っている。マルコは彼らの姿を冷静にとらえている。イエス一行と行動を共にしていなければ知り得ない事実や奇跡を描いている。マルコはイエスと弟子たちの後ろに控えて、両目をしかと見開き、イエスの発する言葉を何一つ聞き逃すことのないよう細心の注意を払っている。マルコは機能の優れた撮影器機と録音機器を身につけてイエス一行に、まるで映画(撮影)監督のように付き従っている。今日の優秀なドキュメンタリー映像作家の役割を十分に果たしていると言えよう。

 マルコは自分の思いを発していない。イエスの苛立ちを、弟子たちの裏切りを報告しても、それに対する自分の意見を表明することはない。マルコにイエスを師匠と仰ぐ気持ちがあったとは思えないし、弟子たちの裏切りに激しい憤怒を感じているようにも思えない。マルコは確かに、現代の小説家が備えていなければならない現象学者の判断保留の冷静な視線を備えている。早急に判断を下す前に、事実そのものを客観的に記述しようとする姿勢に貫かれている。

 

 問題はその〈事実〉である。何をもってして〈事実〉と言うのかである。「マルコ福音書」の1章から見ていくことにしよう。

 

  神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

  預言者イザヤの書にこう書いてある。  「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、

  あなたの道を整えさせよう。

  荒野で叫ぶ者の声がする。

  『主の道を用意し、

  主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 そのとおりに、

  バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

  そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

  ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

  彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。

  私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊バプテスマをお授けになります。」〔1章1節~8節〕(59)

 

 すでに1章1節からイエスは単なる人の子ではない。マルコは最初の一行において〈神の子イエス・キリスト〉と書いている。この神の子イエスイザヤ書で予言されていた神の〈使い〉ということになる。最初、人々は荒野に現われたヨハネをキリストと思っていたが、ヨハネは本当のキリストは聖霊によってバプテスマを授ける方だと言う。

 ここで言われている〈神〉〈神の子〉〈聖霊〉〈使い〉〈罪〉〈バプテスマ〉と言った言葉が何を意味しているのか。キリスト者でない者は正直言ってチンプンカンプンである。分かったような顔をして素通りすることはできない。

 

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載8) 師匠と弟子

近況報告

清水正ドストエフスキー論全集』第11巻「松原寛&ドストエフスキー」の校正に精を出している。相変わらず引用文献探しにいそがしい。今回はナウカドストエフスキー全集の「作家の日記」第25巻。今わたしが寝起きしているマンションの一室に第26巻は探し出したが、必要な第25巻が見つからない。自宅にTELして書斎の本棚にあることを確認した。このナウカ版ロシア語全集は二揃い所持しているが、ひとつはヤフオクで落札したので、おそらく箱詰めにされたままどこかの部屋に置かれているのだろう。わたしはまだそれを確認していない。自宅、書庫、マンションと本が一か所にまとめられていないので、とにかく本探しが憂鬱。さらに憂鬱なのは校正。かつて書いた原稿を校正で読み返すのがとにかく面倒くさい。誤字脱字を発見するたびにため息がでる。校正は時間がかかるし、現在書いているものを中断しなければならない。松原寛論の見直し、『罪と罰』論の続行、ひっきりなしに容赦なく襲ってくる神経痛、まったく寝る暇もない。なんだかこんな調子で九月もあっという間に過ぎ去っていくのだろう。コロナ騒動で今年度は一度も対面授業が行われず、寂しいかぎりである。わたしは今年度で学部の講師も退任するので、学生諸君とじかに文学を語れないのは残念である。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載8)

師匠と弟子

清水正

 自ら弟子にした者たちはイエスが〈いと高き神の子〉であることを知らない。〈汚れた霊〉は遠くにイエスを見ただけでイエスが〈神の子〉であることを瞬時に看破する。

 ところで、ゲラサの地でイエスの起こしたことは何であったのか、改めて冷静に見ていくことにしよう。イエスは墓場の狂人にとり憑いていた〈汚れた霊〉に向かって出て行けと命じた。なぜそのようなことを命じたのかいっさい説明はない。〈汚れた霊〉は豚にとり憑くことを条件にイエスの命令を受け入れた。これはイエスと〈汚れた霊〉の取引である。

 一人の人間に〈汚れた霊〉が入り込んでいたということは、つまり〈汚れた霊〉は或る何ものかによってその力を封じ込められていたことを意味する。犠牲になった一人の人間にとっては災難であるが、そのことによって他のゲラサの人々は安泰な生活を保証されていた。ゲラサの豚飼いは二千匹の豚を所有していたのであるから、彼らがこの地でそれなりに豊かな生活を営んでいたことは確かであろう。いわば彼らはこの地で平穏な生活を送っていた。ところがある日とつぜんイエス一行がやってきて、この平穏を一挙に奪い去ってしまう。いったい湖に駆け込んで死んでしまった二千匹の豚の損害を誰が贖ってくれるのであろう。豚飼いたちは、イエスと〈汚れた霊〉とのやりとり、その取引を耳にしていたわけではないだろう。彼らにとって発狂した豚どもの突然の暴走は、常識を逸した驚愕の出来事であり、理性ではとうてい理解できないことであった。要するにイエスは、突然現れてゲラサ地方の秩序を破壊した男ということになる。ゲラサの人々が災いのもとであるイエス一行の退去を求めたのは当然すぎる。否、ゲラサの人々がも少し激しい性格の持ち主であったなら、イエス一行に殴りかかっていたかもしれない。

 イエスは〈汚れた霊〉も、ゲラサの人々も願っていなかったことをわざわざ起こして、平安を乱し、秩序を破壊して、そのまま立ち去っている。イエスの起こしたことに感謝しているのは、それまで〈汚れた霊〉にとり憑かれていた墓場の狂人だけである。はたしてイエスによって正気を取り戻したこの男が、ゲラサの人々に歓迎されたとはとうてい思えない。二千匹の豚の損害を抱えた豚飼いたちにとって、この正気に戻った男は復讐の的になる可能性が大である。いずれにせよ、イエスは頼まれもしないのに余計なことをしでかさずにはおれない男ということになる。こういった男を、弟子たちはどう思っていたのか。このゲラサの豚の場面では、弟子たちにはいっさい照明が与えられていないが興味のあるところである。

 福音書において〈汚れた霊〉はイエスと直接言葉を交わしている。〈汚れた霊〉の存在が疑いようもなく認められている。わたしは福音書に人間イエスの姿を的確に捉えようとしているのだが、このイエスはすでにたっぷりと霊的な要素を体内に取り入れてしまっている。彼はナザレのイエスであると同時に〈神の子〉という衣を肉化している存在でもある。ナザレのイエス、人間イエスは、福音書が書かれた時点ですでに神の子の衣装を着せられた存在に変容していたということである。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載7)

師匠と弟子

清水正

 

 ドストエフスキーが『悪霊』で取り上げたゲラサの豚の場面を見てみよう。

 

  エスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。

  この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。

  彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。

  それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

  彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、

  大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」

  それはイエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。

 

 イエス一行がゲラサの地に着いた時、まず最初に反応したのは墓場の狂人である。この狂人に入り込んでいた〈汚れた霊〉は瞬時にイエスが〈いと高き神の子〉であることを看破している。この〈汚れた霊〉はイエスから「この人から出て行け」と命じられると「どうか私を苦しめないでください」と懇願する。〈汚れた霊〉が墓場の狂人から出ることが、どうして彼らの苦しみとなるのか。そもそも〈汚れた霊〉は自らの意志で墓場の狂人に入り込んだのか、それとも彼らよりも霊格の高いものによって封じ込められたのか。封じ込められたとすればいかなる理由によるのか。〈汚れた霊〉にとって狂人の中に入り込んでいる状態は、彼らにとって安逸だったのであろうか。外に出ることが彼らにとって苦しみを意味するのなら、とうぜんそのように考えられる。

 

  それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。

  そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。

  ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。

  彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」

  イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

  豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。

  そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

  見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。

  すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。

  それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。

  しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

  そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。(67)

 

  イエスは〈汚れた霊〉の申し出を受け入れた。なぜ〈汚れた霊〉は豚に入ることを望んだのか。なぜイエスはそれを受け入れたのか。疑問だらけである。〈汚れた霊〉にとり憑かれた二千匹の豚は狂ったように崖を駆け降り、湖に飛び込んでことごとく溺れ死んでしまう。この光景をリアルに脳内映像化できる者にとっては実に凄まじいばかりである。崖を爆走し、湖へ向かって駆け下りる二千匹の豚の悲鳴が聞こえるだろうか。たちまちのうちに血潮に染まる湖面、驚愕の面もちで成り行きを見守る豚飼いたちの表情が見えるだろうか。イエスの弟子たちは、この狂気じみた光景をどのように受け止めていたのか。

 『悪霊』論でも書いたが、この「ゲラサの豚」の場面をドストエフスキーですら的確には捉え切れていない。なぜ、〈汚れた霊〉は豚に入り込むことをイエスに願ったのか。ここには一筋縄ではいかない、イエスと〈汚れた霊〉との間で取り交わされた約束(契約)がある。

 ドストエフスキーは当時の革命家を〈汚れた霊〉にとり憑かれた豚と見て、彼らは死すべき運命にあると見なした。しかし、こういった図式的な見方で革命家の運命を決定づけることはできない。現に、革命家の首魁を装った二重スパイの豚野郎ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーは無傷のまま『悪霊』の舞台となったスクヴァレーシニキを軽やかに通り過ぎている。

 〈汚れた霊〉は二千匹の豚に乗り移った。豚どもは発狂して湖に溺れ死んだ。注意せよ。死んだのは豚であって〈汚れた霊〉ではない。〈汚れた霊〉は死んだかに見せて、生き続けている。死んだ豚どもから解放されて天空を飛翔する〈汚れた霊〉の姿が視えるのでなければ、このゲラサの豚の場面を読んだことにはならない。

 

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