清水正  村上玄一を読む(連載6)

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村上玄一を読む(連載6)

清水正

 

 『鏡のなかの貴女』を読んで主人公でもあり語り手でもある〈ぼく〉に魅力を感ずる読 者がいるのだろうか。小学一年生の時に「一度に大勢の女を裸にする、そんなことのでき るヒトラーとは、いったい、どんな人間なのか」と秘かに興味を抱いて興奮したとスナッ クのママに語る〈ぼく〉は、心の底に権力掌握の野望を隠しながら、しかし現実には定職 にもつけない惨めな生活に甘んじている。〈ぼく〉は「ぼくには、ネクタイをしなければ ならない人種が、どうしても好きになれない。だけれども、いまのぼくは無意味にネクタ イをしなければならない。ああ、イヤだ。もっと本当の仕事をしたい。自分に納得のでき る仕事をしたい」と嘆く。それでは〈ぼく〉はいったい何をしたいのか。〈ぼく〉は所長 に銀座でカニ料理を御馳走になった時に、思いきって「小説を書きたいんですが……」と 口にする。

 所長はとつぜん笑いだし、教え諭すように「君、いい歳をして何を言いだすん だね。そんなものは暇な人間に任せておけばいいんだよ。そうだなあ、女子供の知的遊戯 といったところかな。男の小説は、もう書きつくされたんだよ。これからは、女子大生や 主婦が小説を書く時代なんだ。もっとも、ちゃんと立派な仕事を持った男が、その立場を よく理解したうえで、余技として書くのなら判るよ。それにしても、君には何が書けるん だ?」と言われてしまう。

 さて、〈ぼく〉の「小説を書きたい」という願望であるが、後 に彼は今様の文学青年には「死ぬ覚悟もなくて、小説が書けるとでも思ってるのかい? え!」と啖呵を切っているが、この時はまったく違う。〈ぼく〉は所長に「君は、もう、 いい歳だろうけど、何をやりたいんだね」と聞かれ、「とっさに何も思い浮かばなくて、 しかし、ここで考えこんでしまっては、自分の値打ちを下げるばかり、だから、所長に感 心してもらおうと、出鱈目でも、思いきって言ってみた」のが「小説を書きたい」云々と いう言葉である。

 この〈ぼく〉の言葉をそのままに受け止めれば、彼はアルバイト先の所 長に感心してもらいたい、自分の値打ちを下げたくないという、そういう阿りと虚栄の心 で〈出鱈目〉を口にしたということになる。はたして〈ぼく〉にとって小説を書きたいと いう願望は口から出任せの出鱈目なのか、それとも命懸けなのか。

 小説構成上の問題から 言えば『鏡のなかの貴女』は〈ぼく〉が〈ぼく〉を主人公として書いている一人称小説で あるから、すでに〈ぼく〉は小説を書きたいと思っている男ではなく、現に小説を書いて いる男ということになる。少なくとも〈ぼく〉は、所長の「それにしても、君には何が書 けるんだ?」という揶揄的な問に対してはきちんと『鏡のなかの貴女』という小説で答え たということになろう。

 〈女子大生〉でも〈主婦〉でも、〈暇な人〉でもない〈ぼく〉が 書いた小説は〈女子供の知的遊戯〉ではない、〈もう書きつくされた〉かもしれない〈男 の小説〉である。所長の言う「男の小説」は〈男を主人公にした小説〉とも〈男が書く小 説〉とも受け取れるが、〈ぼく〉が書いた小説は〈男〉である自分自身を主人公とした小 説である。   〈ぼく〉が書ける〈男〉は、所長が評価するような、男らしい野望に満ちた男 、ちゃんと立派な仕事を持った男ではない。〈ぼく〉が書ける唯一の男は「自分に納得の できる仕事をしたい」と念じながら、アルバイト先で電話番、新聞の切り抜き、使い走り に身を焦がし、週給二万七千円を貰うためにいかなる屈辱にも甘んじている男、呑み仲間 からは「お前には何の取り柄もなさそうだな」「俺は、こういう感じの人にはなりたくな いなあ」「どこか、生き方が狂ってるんでしょうね」とか「もっと彼の身にもなってみろ 、可哀そうじゃないか」などと言われてしまう男である。

 〈ぼく〉は自分の顔つきが生まれつき不運の相をおびているのかもしれないと思った直 後、ふと「だけど、真正の自分の顔を確認したくて、鏡を覗き込む人がいるだろうか…… 」と独りごつ。はたして〈ぼく〉は、その〈鏡を覗き込む人〉となる。〈ぼく〉が小説で 書きたかったことはこのことの他にはなかったと言っても過言ではない。〈真正の自分〉 を確認するためには、自分を誤魔化すことは許されない。どんなに醜いことでも、どんな に恥ずかしいことでも、そこから目を逸らすことは許されない。

〈ぼく〉はその実験に果 敢に乗り出す。電車の窓ガラスに映った〈もうひとりの自分〉を眺めながら、〈ぼく〉は 〈彼〉に語りかける「顔が長すぎるよ。鏡のせいじゃない。水色のワイシャツ、ちょっと カッコよすぎるんじゃないか? 口が大きすぎる、とくに上唇、猥褻な感じだねえ。髪の 毛がのびているよ、フケはついていないか? 目脂は? いつも左眼につけているけど。 ああ、疲れたねえ、……さあ、笑って、笑って、六十秒。歯茎を出しちゃあ、いけないよ 、それは下品というものだ。ぼくは、ほんの少しだけ歯を出して、ガラスに映るぼくに微 笑みかける。そのとたん、絶望の感覚が背筋を這う。お前は笑う資格のある人間だったの か。いったい何を笑ったんだ? 愉快なことでもあったのか、え? 醜い、お前の顔は醜 い! さっきのお前の顔は、乱交パーティー主催者といった感じだった。いいえ、そんな 多勢の人びとを取りしきるような器ではありません。あの笑いは、場末のストリップ劇場 で、本番をやりたい一心で舞台に駆けあがろうとする中年男のものだった。いえ、そんな 勇気と行動力のあるタイプには見えません。女性の下着に執着し、秘かにその臭いを喜ん でいる変質者的な笑いだった。好色さが露骨にあらわれている、ボロボロになった人間の 救われない顔だ。」

 さて、〈ぼく〉はこの小説において「ぼく自身の、もっとも醜い部分を直視し」得たか 。〈ぼく〉は自分の容姿に関しては「ぼくの目は細く、鼻はすわっているし、唇は厚い。 背は高くないくせに猫背で足も短い」などかなり大胆に、素直に語っている。しかし容姿 の醜さなどはそれをそのように見なす意識の醜さに較べればなにほどのことでもない。〈 ぼく〉が自分の上唇に〈猥褻〉を感じようと、歯茎を出した笑いに〈変質者的な笑い〉や 〈好色〉を感じようと、そんなことは彼の〈もっとも醜い部分〉を直視したことにはなら ない。

 〈ぼく〉は本当に自分を〈愚劣な人間〉〈破廉恥漢〉だと思っていたのだろうか。 〈ぼく〉は「自分で死ぬ気など、さらさらない。ならば、せめて見せかけでも、世の中に 通用する人間であるというポーズをとらなくてはならない」と語っている。〈ぼく〉は〈 ぼく〉を主人公にした小説において故意に自分を〈愚劣な人間〉〈破廉恥漢〉に仕立てあ げようとしたのではないか。それは単なる〈ポーズ〉なのではないか。

 自分を誤魔化さず 、真剣に生きようとする〈ぼく〉、「金を稼ぐことを目的として生きている人種を、この うえもなく嫌悪しつづけてきた」と語る〈ぼく〉は、定職なし金もなしの、その惨めな生 活に秘かな誇りさえ抱いているのであって、その心理の二重性をきちんと押さえないかぎ り〈もっとも醜い部分〉は浮上してこないだろう。

 〈ぼく〉は彼が認知している〈愚劣〉 や〈破廉恥〉に顔をしかめて赤面することはないだろう。なにしろ〈ぼく〉の心の底には 自分のことをきちんと把握できないインチキ野郎どもとは違って、自身の〈愚劣〉や〈破 廉恥〉を直視することができるすばらしい男だという、この小説では最後まで語られなか った自分に対する思いが潜んでいるのだから。もっと端的に言えば、「おれぐらいカッコ いい男はいないよ」と〈ぼく〉は秘かに思っているのである 。

 さて、鏡のなかの〈貴女〉に「あなた好きよ!」と言われた〈ぼく〉はその後どのよう に生きていくのだろうか。

「江古田文学」100号記念号が刊行。「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載第四回)が掲載されている。

江古田文学」100号記念号が刊行された。

「情念で綴る「江古田文学」クロニクル」と「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載第四回)が掲載されている。

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江古田文学」99号と100号

  

今回は「 江古田文学」97号に 発表したものを掲載する

 

動物で読み解く『罪と罰』の深層(連載1)

清水正

 

罪と罰』には様々な動物(哺乳動物・鳥・昆虫・神話的動物)が登場する。どのような動物がどのような役割を担って登場しているのかを見ていくことにしよう。

■〈猫〉(кошка)

 まず最初に登場するのが猫である。手塚治虫のマンガ版『罪と罰』では第一頁2コマ目、画面左下に一匹の黒猫が描かれている。この黒猫は『罪と罰』の舞台となった十九世紀中葉のペテルブルクを俯瞰的に眺められる高い建築物の上にすわっている。次の3コマ目、左半分には乾草を積んだ荷馬車とその中で眠りほうける百姓男、中央に継ぎ接ぎだらけの上着を着てヨロヨロ歩く酔漢の後ろ姿、右端に二人の子供が走り去っていく姿が描かれている。酔漢と子供たちの間には「旅人はその町で見た。ハダシの子どもたちと、酔っぱらいと、売春婦のむれ。みんなが何かを期待し、そして絶望してくらしていたのである」と記されている。ここで言われている〈旅人〉は1コマ目では空を飛ぶ〈鳥〉であり、2コマ目の〈猫〉である。端的に言えば、3コマ目は猫の目に張り付いたカメラが映し出した世界である。手塚治虫は二十世紀日本から百年の時空を飛翔して十九世紀ペテルブルクへと至りついた〈鳥〉を、高層建築物の上に〈猫〉として変容させ、さらにその〈猫〉の目にカメラを装着して現実の世界を映し出す描法をたった三コマで駆使している。

 原作『罪と罰』ではどうか。『罪と罰』は13日間の物語で第一日目は一九六五年七月八日である。途方もなく暑い夕方時分、主人公の〈一人の青年〉が屋根裏部屋から通りに出て、何か惑いがあるらしく、のろのろとK橋の方へ向かって行くところから物語は始まる。この時点で主人公の名前は明かされていない。主人公はあくまでも〈一人の青年〉である。この青年はペテルブルク法学部の学生時代に下宿の娘ナタリヤと婚約し、女将に百五十ルーブリの借金を負っていた。が、ナタリヤは一年半前に腸チフスで死んでしまい、その死にショックを受けた青年は大学も家庭教師の仕事もやめて、今は屋根裏部屋に引きこもっている。青年は夕方になると散歩するために外に出るが、外に出るためには女将の部屋の前を通らなければならない。もし女将に見つかれば、面倒な話もしなければならない。そこで彼は〈猫〉となって、そっと誰にも知れぬように外に出るというわけである。この〈青年〉が〈猫〉となって女将と出会うことを回避したことは、意外と重要な意味を持っている。女将と出会えば、青年は借金弁済のことやら仕事のことやら、要するに現実的な話をしなければならない。青年は〈猫〉になることで、当面する現実的問題を回避し、自分でも〈幻想〉(фантазия)としか思えなかった「はたして私にアレができるだろうか?」(Развие я способен на это?)という〈アレ〉(это=表層的には高利貸し老婆アリョーナ殺し)へと向かっていかざるを得なかった。

 

■〈豚〉(свинья)

 青年は犯行前の瀬踏みのためにアリョーナ婆さん宅を訪れた帰り、地下の居酒屋に立ち寄る。そこで青年に声をかけてきたのが酔漢マルメラードフである。彼は、自分の娘ソーニャが淫売婦にならざるをえなくなった理由を道化的口調に乗せて雄弁に語る。マルメラードフはソーニャが十五歳の時に幼い子供三人を抱えた未亡人カチェリーナと再婚する。結婚後マルメラードフは人員整理の対象となって役所を解雇される。以後、彼は酒に溺れるようになり、仕事についても酒が原因で失職がちになる。さんざん苦労してペテルブルクの安アパートに一家六人で住むようになるが、家主のアマリヤがカチェリーナに三回にわたって誘惑の声をかけてくる。年頃になったソーニャの身売りの話である。貧しくても誇り高い貴族女学校出のカチェリーナはきっぱりと断っていたが、ついに三回目の誘惑の声に屈してしまう。ソーニャは五時半過ぎに黙って部屋を出て行き、八時過ぎに帰ってくる。彼女は〈処女〉を〈銀貨三十ルーブリ〉に代えて戻ってきたのである。この描かれざる三時間がソーニャにおける〈踏み越え(преступление)である。マルメラードフは翌日、ソーニャの処女を買ったイワン閣下を訪問して自らの就職を決めてくる。彼は一ヶ月まじめに勤務し、給料二十三ルーブリ四十カペイカを手にする。ところが、その日の夜、彼は給料の残金を盗み出し、すべて酒代に代えてしまう。素寒貧になった彼は、淫売稼業をしているソーニャを訪ねて酒代をせびる。ソーニャはなけなしの金三十カペイカを文句ひとつ言わず父親に差し出す。彼はその金で今酒を飲んでいるのだと言う。

 この誰が見てもろくでなしのマルメラードフが青年に向かって言うのだ、「今このわたしを見ながら、わたしが豚ではないと断言なさる勇気がありますか」(взирая в сей час на меня,сказать утвердительно,Что я не свинья?)と。ユダヤキリスト教圏内において〈豚〉呼ばわりされることは、日本語の〈ろくでなし〉をはるかに越えて軽蔑、排斥の意味が込められている。いわば神から見捨てられたろくでなし、卑劣漢である。従ってここでマルメラードフが青年に向けて発した言葉は実に挑発的である。世界中の誰もが彼を〈豚〉と見なすであろうことをよく承知した上で「わたしが豚でない」と、青年から見れば「あなたは豚でない」と断言できるかと問うているのであるから。この挑発的なマルメラードフの問いに青年はひと言も答えていない。酒場の観衆はひひひ笑いで対応し、マルメラードフも敢えてこの問題にこだわらず、話題を横滑りさせていく。そのことで読者の大半もまた、マルメラードフの提起した問題を忘れ去ってしまう。しかし、マルメラードフの問いにこそ重要なことが秘められている。

 作品の中でマルメラードフを「豚でない」と断言している者は一人もいない。が、口には出さないが、マルメラードフが「豚でない」と確信している人物がいる。酒代をせびられてなけなしの金三十カペイカを黙って差し出したソーニャである。ソーニャは知っている。実の娘を閣下に身売りさせ、結果として淫売稼業に追いやったマルメラードフが、どんなに苦しみ、どんなに悲しんでいるかを。マルメラードフ自身が言うように、彼は酒に快楽など求めてはいない、彼は酒瓶の底に苦しみを悲しみを求めているのだ。青年は、沈黙を守ったが、ソーニャの気持ちを理解していたはずである。青年は、マルメラードフの告白を通して一家の犠牲となって〈踏み越え〉ざるをえなかったソーニャと決定的な出会いをはたしたのである。

 

■〈獣〉(зверь)

 マルメラードフは告白の最後に、万人を裁き、万人を赦される唯一人の神について語る。親鸞悪人正機説を彷彿とさせるマルメラードフ神学のお披露目である。彼は語る「『酒のみも出い、いくじなしも出い、恥知らずも出い!』そこで、われわれが臆面もなく出て行っておん前に立つと、神さまは仰せられる。『なんじ豚ども! そちたちは獣の相をその面に印しておるが、しかしそちたちも来るがよい!』すると知者や賢者がいうことに、『神さま、何ゆえ彼らをお迎えになりまする?』するとこういう仰せじゃ。『知恵ある者よ。わしは彼らを迎えるぞ。賢なる者よ、わしは彼らを迎えるぞ。それは彼らの中のひとりとして、みずからそれに値すると思う者がないからじゃ……』こういって、われわれに手を伸ばされる。そこで、われわれはそのみ手に口づけして……泣きだす……そして、何もかも合点がゆくのだ」(米川正夫訳)と。

 ここで、喉の渇きを癒そうと思って酒場に寄り、マルメラードフの神学を聞く羽目になった青年に注目しよう。この青年は瀬踏みに行ったアリョーナ婆さんにラスコーリニコフと名乗っている。ロシア人の名前は洗礼名、父称、姓からなる。酒場の時点で読者は青年の姓がラスコーリニコフであることは分かっているが、未だに洗礼名と父称は報告されていない。マルメラードフは初対面の青年に自分の姓と身分(九等官)を名乗るが、青年は「勉強中です」としか答えず、マルメラードフは青年を〈元学生さん〉と見なして一方的に告白話を展開した。

 青年のフルネームはロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフである。洗礼名〈ロジオン〉(Родион)は〈薔薇〉を、父称ロマーノヴィチ〉(Романович)はロジオンの父親の名が〈ロマン〉(Роман)であったことを意味し、姓〈ラスコーリニコフ〉(Раскольников)は〈分離派〉(Раскольники)に由来する。イニシャルРРРを下から上にひっくり返すと666になり、悪魔の数字となる(РРР=666説を初めて発表したのは『謎とき「罪と罰」』の著者・江川卓である)。つまり『罪と罰』の主人公である〈一人の青年〉(один молодои человек)の額には悪魔の数字666が刻印されていたことになる。ところで、マルメラードフが告白の最後に神学を披露した時点で青年のフルネームは報告されておらず、従って青年の額に悪魔の数字が刻印されていたなどという認識を得ていた読者はいない。そこで改めてマルメラードフの言葉に照明を当てる必要がある。 「獣の相をその面に印しておる(образа звериного и печати его)〈豚ども〉(Свиньи)の中に〈酒のみ〉〈いくじなし〉〈恥知らず〉が想定されている。もちろんマルメラードフ自身も含まれている。が、誰よりも明白に〈獣の相をその面に印しておる〉のは、マルメラードフの面前で話に耳を傾けていた勉強中の元学生ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(РРР=666)であったことになる。因みにマルメラードフがここで言う〈獣〉(зверь)はヨハネ黙示録13章に出てくるそれを意識している。

「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった」(ヨハネの黙示録13章1節) 「И стал я на песке морском и увидел выходящего из моря зверя с семью головами и десятью рогами: на рогах его было десять диадим, а на головах его имена богохульные.」(ロシア語訳聖書より) 「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った」(ヨハネの黙示録13章11節) 「И увидел я другого зверя, выходящего из земли; и говорил как дракон.」(ロシア語訳聖書より)

  「ここに知恵がある。思慮のある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である」(ヨハネの黙示録13章18節) 「Здесь мудрость. Кто имеет ум, тот сочти число зверя, ибо это число человеческое; число его шестьсот шестьдесят шесть.」(ロシア語訳聖書より)  海から上ってきた第一の獣は豹に似ており、足は熊、口は獅子のようであり、〈竜〉(дракон)から大きな権威を与えられていた。七つの頭のうちの一つが打ち殺されたかと思われたが、その致命傷もなおった。この獣は傲慢なことを言う口を与えられ、〈神に対するけがしごと〉を言い始めた。地から上ってきた第二の獣は、地に住む人々に第一の獣の像を造らせて礼拝させ、従わない者を皆殺しにした。そしてすべての人々の右手か額に獣の名、または獣の名の数字を刻印した。

 ここで、様々な隠喩と象徴に満ちた「ヨハネ黙示録」を十全に解釈することはできない。ここでは黙示録の獣と『罪と罰』の主人公の関係についてだけ言及するにとどめる。第一の獣には角が〈十本〉、頭が〈七つ〉、冠が〈十〉とある。これら七、十という数字は竜から与えられた絶対的な力と位と権威を意味している。ラスコーリニコフは自分を絶対者、選ばれた唯一者と考え、非凡人の代表格であるナポレオンと自身とを同一視する傾向があった。第一の獣の頭には〈神をけがす名〉があったが、ラスコーリニコフの額には〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ=РРР=666〉という悪魔の数字が刻印されていた。

 ラスコーリニコフはソーニャに「ラザロの復活」の場面の朗読を要請するが、その前に数々の〈神に対するけがしごと〉を口にしている。一つだけ引用しておこう。 「ポーレチカもきっと同じ運命になるんだろうな」と彼は出しぬけにこういった。 「いいえ! いいえ、そんなことのあろうはずがありません、違います!」とソーニャは死にもの狂いの様子で、まるでだれかふいに、刀で切りつけでもしたかのように叫んだ。「神さまが、神さまがそんな恐ろしい目にはおあわせにはなりません!」 「だって、ほかの人にはあわせてるじゃありませんか」 「いいえ、いいえ! あの子は、神さまが守っていてくださいます、神さまが!……」と彼女はわれを忘れてくりかえした。 「だが、もしかすると、その神さまさえまるでないのかもしれませんよ」一種のいじわるい快感を覚えながら、ラスコーリニコフはそういって笑いながら、相手の顔を見やった。(米川正夫訳)  狂信者ソーニャは神さまは「なんでもしてくださいます!」と言う。哲学的思弁家でもあるラスコーリニコフは、現実を冷静に見ればむしろ神は何にもしてくれないじゃないかと言う。何にもしてくれない神を盲目的に信じるよりも、現実を冷静に見て判断する分別こそが必要なんだ、とまで挑発する。

 ラスコーリニコフはソーニャの前では〈不信心者〉(безбожник)、〈神の冒瀆者〉(богохульник)を装って〈神に対するけがしごと〉を口にするが、それをもって彼を反キリスト者と決めつけることはできない。彼はポルフィーリイ予審判事の前では〈新しきエルサレム〉を、〈神〉を、〈ラザロの復活〉を文字通り信じていると断言している。ラスコーリニコフの分裂は深く、彼を一義的に判断することぐらい危険なことはない。彼は誰よりも激しく執拗に〈神に対するけがしごと〉を口にしながら、同時に誰よりも〈神〉を求めている〈悪魔=666〉なのである。この悪魔はとつぜん淫売婦ソーニャの前にひれ伏し、彼女の足に接吻する。そしてすぐに身を起こすと、驚愕したソーニャに向かって「わたしはあなたの前にひざまずいたのではない。わたしは全人類の苦悩の前にひざまずいたのです」と答える。一家の犠牲になって身売りしている〈大いなる罪人〉(великая грешница)ソーニャは、言わばすべての人間の罪を背負って十字架上で息を引き取ったイエスその人を思わせる。

 ラスコーリニコフという〈悪魔〉は人間の〈苦悩〉に関してきわめて敏感である。マルメラードフは「ものに感じる、学問のある人」とラスコーリニコフを見なして告白話を披露したことを忘れてはならない。全人類の〈苦悩〉(страдание)の前にひれ伏すことのできる〈悪魔〉は限りなく〈神〉に近づいた存在とも言える。ラザロの復活を読み終えたソーニャはラスコーリニコフを「限りなく不幸だ」と思う。この不幸な人間(殺人者・分裂者)に向かって、苦しみという十字架を背負って生きよ、と強く指示したのが大いなる罪人ソーニャ(淫売婦・キリスト者)であった。

 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフを666(獣)と見なすことはできるが、ドストエフスキーの場合、名前においても多義的な象徴的意味が込められている。ロジオン(Родион)は〈薔薇〉(美・愛・聖)を意味するが、同じくギリシャ語起源のイロジオン(Иродион)と見なせばヘーロース=геройつまり〈英雄〉となる。ロジオンは、ゼウス神に反逆して天界の火を盗みカウカソス山に鎖でつながれ鷲に肝を食われるという罰を受けた、ギリシャ神話の英雄プロメテウスにもたとえられている。またロジオンはポルフィーリイ予審判事によって「太陽におなりなさい、そうすれば、みんながあなたを仰ぎ見ますよ! 太陽は、まず第一に太陽でなければなりません」(Станьте солнцем, вас все и увидят. Солнцу прежде всего нада быть солнцем.)と言われている。

 ポルフィーリイは現実的な役割としては予審判事であるが、実質的には優秀な心理分析官であり批評家であり、そして予言者でもある。彼が、二人の女を斧で殺害した殺人者ロジオンを〈太陽〉と見なしていることを、単なる皮肉のきいた冗談とのみ受け取ることはできない。いずれにせよ、ロジオンという名は美・愛・聖の統合としての〈薔薇〉(Роза)であり、世界を変革する使命を帯びた〈英雄〉(Герой)であり、万人に仰ぎ見られる〈太陽〉(Солнца)といった多義的な意味を込められている。

 父称ロマーノヴィチ(Романович)はロマーヌィチ(Романыч)とも表記されている。前者をロマノフの息子と見れば〈ロマノフ王朝〉、後者をロマンの息子と見れば〈ローマの、ローマ人の、ローマ帝国の、長編小説の〉などと解釈できる。

 姓のラスコーリニコフ(Раскольников)は〈分離派〉(раскольники)、〈分離派教徒〉(раскольник)、〈分裂・分離派〉(раскол)、〈打ち割る〉(расколоть)などが考えられる。因みにロマノフ王朝第二代皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチはロシア正教会の権威強化のためニコンを総主教に任命したが、ニコンの奉神礼改革によって教会は分裂した。ニコンの改革案は一六六六年にギリシャ正教会で承認されたが、傲慢な態度で皇帝の反感を買っていたニコンは総主教の座を剥奪された。改革案に断固反対した信徒は一六六六年以来分離派と見なされ弾圧迫害の試練を受けることになる。『罪と罰』はニコンの改革から二百年後の一八六五年七月のペテルブルクを舞台として展開されている。ロジオンの母親プリヘーリヤはこの二百年を十分に意識してラスコーリニコフ家を由緒ある家柄とし、〈一家の柱であり杖である〉一人息子に没落したラスコーリニコフ家の再建という使命を託すのである。この母親の過剰な期待が、ロジオンを〈高利貸しアリョーナ殺し〉という第一の〈踏み越え〉(преступление)に追い込んで行ったとも言える。〈666〉という悪魔の数字を刻印されていたのは決してロジオンだけではない。ラスコーリニコフ家の人々全員にこの数字は深く関わっているのである。

 次に問題にしたいのは〈獣〉(Зверь)に力と位と権威を与えた〈竜〉(Дракон)である。この〈竜〉を『創世記』における〈蛇〉(Змей)と見る解釈がある。〈蛇〉は「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」(Змей был хитрее всех зверей полевых, которых создал Господь Бог. )(3章1節)と書かれている。

〈蛇〉は女に神が食べてはならないと命じた木の実を食べることをすすめる。〈蛇〉は言う「あなたがたは決して死にません。あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(нет, не умрете; Но знает Бог, что в день, в который вы вкусите их, откроются глаза ваши, и вы будете, как боги, знающие добро и зло.)(3章4~5節)と。 〈蛇〉は狡猾な動物であり人間を誘惑するものであるが、全能の〈神〉(Бог)によって造られた被造物であることに間違いはない。被造物である〈蛇〉が誘惑し、被造物である〈人〉(エバとアダム)が〈神〉の命令に背いてその誘惑にのってしまう、この誘惑劇をどのように理解すればいいのか。『創世記』の〈神〉は自らが創造したものに対し、試み、裁き、罰するものとして描かれている。異教徒にとってこの全能の〈神〉を神として信じることはとうていできない。〈神〉が全能であるなら、被造物である狡猾な〈蛇〉が誘惑し、〈人〉が禁断の〈木の実〉を口にすることを予め分かっていたであろう。予め分かっているのに、敢えて試みるということ自体が滑稽である。脚本通りに演技している舞台俳優に、とつぜん監督が現れて罰したり裁いたりする理不尽と同じである。 『創世記』の〈神〉は被造物である〈蛇〉や〈人〉に自分と同等の自由意志を賦与したというのであろうか。〈蛇〉は自分の意志で〈人〉を誘惑し、〈人〉もまた自分の意志で禁断の〈木の実〉を口にした。書かれた限りのことで読めば、〈蛇〉も〈人〉も自由な意志を持っているように見える。が、被造物の意志をコントロールできない〈神〉を全能と言えるのだろうか。それにたとえ自由意志を〈神〉から与えられていたにしても、被造物である物は〈神〉の裁き、断罪を一方的に受ける身であって、〈神〉と同等の位置を占めることはできない。ドストエフスキーのリアリズム文学を読むように『創世記』を読めば、〈神〉は退屈の余り一人遊びを始めたようにしか見えない。〈人〉を恐るべき言葉で誘惑する〈蛇〉は〈神〉の化身であり、〈人〉が誘惑に落ちることを予め分かっていながら誘惑せずにおれないこの〈神〉は、組織の頂点に立った人間(たとえば独裁者)の不安や恐怖を体現した存在とも見える。一神教の〈神〉は人間の様々な要素をたっぷりと備え持った存在であり、不断に試み、裁き、罰せずには自らの権威を絶対化できない存在なのである。

 いずれにしても、〈神〉から自由意志を与えられた〈蛇〉や〈人〉は、〈神〉に従属することに我慢がならず、〈神〉に反逆し、〈神〉と戦うことになる。〈神〉は絶対的な存在ではなく、その地位は代替可能な相対的な存在と見なされる。そもそも〈神〉が絶対的な存在であるなら、被造物から戦いをのぞまれるなどという屈辱的なことはあり得ない。が、一神教の世界では創造者である全能の絶対的な〈神〉と〈被造物〉でしかない〈蛇=竜〉の戦いが様々なかたちで描かれてきた。この戦いの場に〈神〉が登場した時点で〈神〉は絶対の玉座から相対の座に引きずり落とされているが、一神教の支配する世界では、最終的には〈神〉が勝利を収めることで、その絶対性はかろうじて守られることになる。〈神〉と〈蛇=竜〉の壮絶な戦いをミルトンは『失楽園』で想像力豊かに華麗にビジュアルに描いているが、しかしここにも相対性にまみれた〈神〉の絶対性、全能性を根本から問う視点は見られない。 『罪と罰』の主人公〈一人の青年〉の額に〈666〉という〈獣〉の数字を刻印したのは誰か。まずは『創世記』の〈蛇〉(Змей)として考えてみよう。この〈蛇〉はある種の人間、つまり自分を非凡人や絶対者と考えるような人間の心を鷲掴みするような誘惑の言葉を発していた。 〈蛇〉は神が禁じた〈木の実〉を食べると、〈人〉が〈神〉のようになり、善悪を知るようになると言う。被造物の〈人〉が全能の創造者〈神〉となることができるというのであるから、〈蛇〉は実に恐るべき誘惑の言葉を発していたことになる。この誘惑の言葉に〈女=エバ〉がまず反応し、〈木の実〉を食し、次いで〈男=アダム〉も食する。つまり〈人〉は〈蛇〉の誘惑に乗って〈神〉になる途を選んだことになる。〈蛇〉はどのようなことを言えば〈人〉が〈神〉の命令に背いて禁断の〈木の実〉を食するかを予め知っていたことになる。

 エデンの園での〈蛇〉と〈女〉の会話から分かることを列記しておこう。〈人〉は〈神〉のような存在になりたいと思っていた。〈神〉は〈人〉が自分と同じようになることを望んでいなかった。〈蛇〉は〈神〉の真意を理解していたが、〈神〉に反逆して〈女〉を誘惑することに成功した。

 さて、ここで素朴な疑問を呈しておこう。〈女〉によれば、園の中央にある〈木の実〉を触れても食べてもいけないのは「あなたがたが死ぬといけないからだ」ということであった。しかし、エバもアダムも〈木の実〉を食べてもただちに死ぬことはなかった。この時点で〈神〉の言葉はその絶対性を奪われ、〈神〉の言葉より、〈蛇〉の言葉の方が説得力を獲得する。

 次に問題にしたいのが、〈神〉のようになると「善悪を知るようになる」という〈蛇〉の言葉である。ドストエフスキーは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンにおいて〈善悪観念の摩滅〉という問題を提起した。スタヴローギンは言わば理知の極限において、何が善であり悪であるかを判断できない虚無の領域に入り込んでしまった。理性、理知、思弁の次元にとどまる限り、絶対的な善や悪を知ることはできない。つまり〈木の実〉を食したことによって〈賢さ〉を手に入れた〈人〉は、「善悪を知る」こととは全く逆に、スタヴローギンと同じ途をたどることになる。 〈蛇〉の言葉をそのままに受け止めれば、『創世記』の〈神〉は〈善悪〉を知っている。換言すれば〈善悪〉を決定できるということである。人間の理性や知性は〈善〉〈悪〉を限りなく相対化することはできるが、そこに唯一絶対性を付与することはできない。ロジオンは言わば禁断の〈木の実〉を食した〈666〉であり、賢い思弁家である。が、ロジオンの知性は、ソーニャの信じている〈神〉(бог)の絶対性を獲得することはできない。ロジオンは〈蛇〉の誘惑に乗って〈木の実〉を食し〈賢さ〉を手に入れたが、〈神〉のように〈善悪〉を知ることができず、〈思弁〉(диалектика)からイエス・キリストの〈命〉(жизнь)へと向かわざるを得なかった。  いずれにせよ、『創世記』の〈神〉と『罪と罰』の〈神〉とを同一視することはできない。前者は試み、裁き、罰する〈神〉であるが、後者はマルメラードフの告白で語られるように裁きの後で赦す〈神〉であり、額に獣の数字〈666〉を刻印されたロジオンさえ赦す〈神〉なのである。

 ロジオンは〈666〉としてローマ皇帝の息子としての薔薇であり英雄であり太陽である。が、ロジオンは皇帝ネロのように、ナポレオンのように〈666〉としての力、権威を発揮することはできなかった。ロジオンは開幕時からすでに〈革命か神〉かの深い惑いの中にあり、〈踏み越え〉(アリョーナ殺しとリザヴェータ殺し)の後にはさらに分裂の度合いを深めている。ロジオンは最初の犯行において、斧の刃先を自分の額に向けて振り上げており、これはアリョーナ殺しの前に〈666〉を叩き割った隠喩と受け止めることもできる。つまり、この解釈でいけば、ロジオンは〈666〉としてではなく、〈666〉から解放された直後にアリョーナの頭を叩き割ったことになる。

 アリョーナ殺しは意識朦朧状態で斧の峯を使っているが、目撃者リザヴェータの場合は明晰な意識を保持したまま斧の刃先で叩き殺している。〈666〉を叩き割った後でのこの殺人行為をどう受け止めたらいいのか。ロジオンは〈666〉から解放されたのではなく、より深く〈666〉との関係を強めてしまったのであろうか。ロジオンは後に、犯行はある神秘的でデモーニッシュな力の作用によって行われたのだと思う。まさにロジオンは自分の力では統御できない〈悪魔〉の誘惑に乗ってしまったのだ。が、この〈悪魔〉は、〈神〉に対立する存在とは思えない。ロジオンの最初の〈踏み越え〉は〈殺人〉であるが、最終的な〈踏み越え〉は〈復活〉である。ロジオンに殺人を促した神秘的でデモーニッシュな力の作用とは、言わば〈悪魔〉に化身した〈神〉のものではなかったのかとも思わせる。

 が、ロジオンは二人の女を殺しながら〈罪〉の意識に襲われることはなかった。罪意識のないまま、ロジオンは復活の曙光に輝く。作者は「思弁の代わりに命が到来した」と書いて、ロジオンの復活を保証するのだが、殺された二人の女の苦痛や恐怖をいったいだれがどのように贖うというのであろうか。

 信者にとって聖書は絶対であるが、そうでない者にとっては聖書を文学書として読むこともできる。『創世記』において〈神〉は絶対として描かれるが、その絶対からしてすでに相対的である。被造物である〈蛇〉や〈人〉に〈神〉の命令に背く自由意志が与えられた時点で彼は相対化の世界に落ちたことになる。聖書を文学作品と見れば、〈全能の神〉を創作した作家こそが〈神〉の上位に位置することになろう。このことに関しては当然反論もあろうが、今は不問に伏して先に進むことにする。

 ロジオンの父称の一つロマーノヌィチ(Романыч)を〈Роман=小説の〉と解釈するとロジオンの父親は〈小説〉となるが、その〈小説〉を書いているのは作家であるから、まさにロジオンの生みの親はドストエフスキーとなる。ドストエフスキーはロジオンのみならず、すべての登場人物の生みの親であり、被造物である人物たちは作家の意志を超えることはできない。ロジオンは殺人を犯し、ソーニャと出会い、そしてエピローグでは復活の曙光に輝く。わたしは『罪と罰』を半世紀にわたって読み続けているが、未だにロジオンの高利貸しアリョーナ、リザヴェータ殺しから復活に至るまでの〈踏み越え〉を納得できないでいる。十七歳で「馬鹿ばかりが行動できる」という〈地下室人〉の言葉に共鳴を覚えたわたしは、思弁の人、屋根裏部屋の空想家ロジオンが殺人という行動を起こしたことが不思議でならなかった。不断に精神の分裂を抱えている自意識過剰の青年が、殺人という一義的行動に走ったことが腑に落ちなかった。こういった青年は大学教授か文筆業に従事することは可能でも、殺人などというだいそれた一義的行動家になることはあり得ないと思っていたのである。が、一読者でしかないわたしがこんな不満をもらしたところでどうしようもない。人物たちの言動に関して決定権を握っているのは作家なのであるから。しかし、作品を解体しその再構築化をはかることが読者に禁じられているわけではない。この批評行為は作品の〈絶対性〉に揺さぶりをかけるということで、ある種の〈信者〉のような読者にとっては冒瀆と見なされる行為である。

 ロジオンに最初の〈踏み越え〉(殺人)がなければ、最後の〈復活〉もあり得ない。作者が書きたかったのは単なる屋根裏部屋の空想家ではなかった。作者はタイトル通り、〈踏み越え〉(преступление)と〈罰〉(наказание)を描きたかったのだ。最も行動家から遠く離れたかのような空想家・思弁家を作者は殺人者として描いた。わたしは自分に照らして空想家・思弁家のイメージを作り上げ、そのことに固執していた。〈地下室〉に閉じこもって、政治的な活動家を愚弄していたわたしは殺人を実行したロジオンに何か納得できないものを感じ続けていた。が、思弁家=非行動家という図式を振り捨てて、作品に描かれたロジオンを冷静に見つめ直すと、彼はわたしが勝手に思いこんでいたような青年ではないことも分かってきた。彼の言動(現存在諸様態)はゴリャートキン(第二作『分身』の主人公)の如く正真正銘の狂気に陥るほど深刻とは言えないにしても、〈突然〉(вдруг)に支配されていたことは明らかである。思弁は論理的展開を前提とするが、ここに〈突然〉が現出すると、論理が破綻する。「わたしにアレができるだろうか?」という疑問は未だ論理の枠内に収まっている。アレ(表層的にはアリョーナ殺し)が論理の枠内に収まっている限り、思弁の主体を行動に駆り立てることはできない。

 ロジオンは雑誌に「犯罪に関する論文」を寄稿するほどのインテリであるから、彼の思考は論理的である。はたして論理的思考によって行動家となれるのであろうか。もしかしたらこういったわたしの疑問そのものに疑問を抱く者が少なからずいるかもしれない。わたしが二十歳の頃、まさに日本は政治的な季節を迎えており、過激な革命運動に身を呈する者は珍しくなかった。おそらく彼らは自分たちの行動に確信を持っていたのだろう。が、連合赤軍の凄惨なリンチ事件の発覚、続く浅間山荘事件をもって日本における革命運動は実質的に幕を下ろした。わたしは十七歳で『地下生活者の手記』を読み、ドストエフスキー文学の凄まじい自意識の洗礼を受けたので、革命思想の絶対性など微塵も信じていなかった。当時の活動家たちはおそらくドストエフスキーなど読んでいなかっただろうから、革命思想を根底から覆す思想に直面することもなく、活動に専心することができたのであろう。彼らの革命運動の実態を、ドストエフスキーは『悪霊』において百年以上も前に描き尽くしていた。事件を起こした後で、それを知ることになった革命家たちはいったいどのように総括するのであろうか。

 若者たちを一義的な行動に駆り立てる革命思想がある。従って論理的思考がその主体者を行動から遠ざけるということにはならない。もしロジオンの思弁が革命に絶対正義を見いだしていれば、彼は迷うことなく革命家の途を選んだであろう。が、『罪と罰』の最初の場面を読めば明白なように、ロジオンは思いまどっている青年として描かれている。作者はロジオンの〈惑い〉の内実(革命か神か)について触れていないが、これは当時の検閲官の目をたぶらかすためである。十九世紀ロシア中葉に生きるインテリ青年で革命に関心を持たなかった者はいない。が、ドストエフスキーはロジオンに過激な革命家の接近を封じている。作中に登場するロシア最新思想の持ち主と言えば、穏健な活動に甘んじているレベジャートニコフただ一人である。しかもドストエフスキーはこのレベジャートニコフにすらロジオンとの〈革命をめぐる〉対話を許さなかった。読者はよほど注意して読み進まないと『罪と罰』に秘められた〈革命〉の要素を発見することができない。

 ロジオンは殺人の道具としてどうして〈斧〉にこだわったのか。〈斧〉は皇帝殺しの象徴的な道具として当時の急進的な革命家たちによって檄文などに記された。つまり〈斧〉はロジオンに秘められた革命思想を体現している。さらに問題となるのは、当初予定されていなかった〈リザヴェータ殺し〉をなぜドストエフスキーは設定したのかということである。ここには目的を達成するためには手段を選ばずという革命思想の根幹が示されている。ロジオンは「わたしにアレができるだろうか」と考えるが、〈アレ〉は単なる〈高利貸しアリョーナ殺し〉だけではなく〈皇帝殺し〉をも意味していた。因みにこういった点に関しては今までに執筆した『罪と罰』論、特に「『罪と罰』再読」(「ドストエフスキー曼荼羅」8号 二〇一八年一月)で詳細に考察したので興味のある方はぜひご一読ください。

 ロジオンの〈666〉に関しては実に多様な解釈が可能であり一筋縄ではいかない。犯罪に関する論文において、非凡人には「良心に照らして血を流すことが許されている」と書いたロジオンは、確かに論文執筆時においては自分を〈ナポレオン〉と同等の〈非凡人〉の範疇に入れていた可能性もある。その時彼は未だ単なる屋根裏部屋の一思弁家にすぎなかったが、しかしそれにも関わらず自分を世界を変えうる英雄と見なしていたとは言えるだろう。ああでもないこうでもないとはてしなくしゃべり続けるたわいもない空想家にとどまるか、それとも〈英雄〉として〈非凡人〉として自分自身の第一歩を踏み出すべきか。ロジオンは〈アレ〉を前にして迷いに迷う。そうだ、この迷い自体が彼の〈凡人性〉を証明しているが、それに気づくのは犯行後のことである。

 ロジオンは『創世記』のエバのように〈蛇〉(змей)に誘惑されるのではない。ロジオンにおける〈蛇〉はすでに彼自身の内部に深く侵入しており、いわばそれは彼自身と言ってもいいほどである。ロジオンの内部に〈英雄〉と〈蛇〉が存在し、はてしのない会話を交わしているようなものだが、まさにある神秘的でデモーニッシュな力が働いてロジオンは〈蛇〉に呑みこまれてしまうのである。これをソーニャに言わせれば「あなたは神さまから離れたのです。それで神さまがあなたをこらしめて、悪魔にお渡しにになったのです!」(От бога вы отшли, и вас бог поразил, дьяволу предал!)ということになる。これに対してロジオンは「そうそう、ソーニャ、それはぼくが暗やみに寝そべって、あのいっさいが見えてきたときさ、あれは悪魔がぼくを迷わせていたんだね? そうだね?」(Кстати, Соня, это когда я в темноте-то лежал и мне все представлялось, это ведь дьявол смущал меня? а?)と応える。ここでの〈悪魔〉は両者ともに〈дьявол〉である。が、ロジオンは次のセリフでは「黙ってくれ、ソーニャ、ぼくは何もひやかしちゃいない。だってぼくは、自分でも悪魔に引っぱって行かれたことを知っているんだ」(я ведь и сам знаю, что меня черт тащилу.)と言って〈悪魔〉を〈черт〉で表している。

 因みに、『カラマーゾフの兄弟』でドミートリイ・カラマーゾフは「ここでは悪魔と神が戦っている、で、その戦場は―人間の心なんだ」(Тут дьявол с богом борется, а поле битвы―сердца людей.)と言っているが、ここで〈悪魔〉は〈дьявол〉である。また同作品の第十一編・九の「悪魔・イワン・フョードロヴィチの悪夢」(ЧЕРТ. КОШМАР ИВАНА ФЕДОРОВИЧА)では〈悪魔〉は〈черт〉で、本文でイワンが口にしている〈悪魔〉も〈черт〉である。イワンは幻影の〈悪魔〉がローマの詩人テレンティウスの句「Satan sum et nihil humanum a me alienum puto(ぼくはサタンだ。人間のことで無縁なものは何もない)」を口にしたときも、〈Satan〉を〈сатана〉(サタン)ではなく〈черт〉に置き換えている。 ドストエフスキーは『悪霊』で「ゲラサの豚」を取り上げたときは、〈悪霊〉を聖書通り〈бес〉で表している。以上〈悪魔〉はドストエフスキーの場合〈дьявол〉〈черт〉〈бес〉で表記される。それでは『創世記』に登場する〈蛇〉(змей)は登場しないかというと、『カラマーゾフの兄弟』でスネギリョフ退役二等大尉とイリューシャ少年が〈大きな石〉のある場所にたどり着いたとき、空に飛んでいる三十ばかりの〈凧〉〈змей〉として現れている。

 ドストエフスキーは〈神〉(бог)に対する〈悪魔〉として『創世記』の〈蛇〉(змей)を特に意識してはいなかったのであろうか。〈神〉(бог)の化身としての〈悪魔〉(змей)という見方をした場合、〈神〉(бог)と〈悪魔〉(змей=дракон)の戦いという構想は成立しない。ドミートリイやイワンにとっての〈悪魔〉(дьявол,черт)ははたして〈神〉(бог)と同格のものとして扱われていたのであろうか。彼らにとっての〈神〉は、〈дьявол〉〈черт〉と戦う時点ですでに相対化されていたと見ることができる。 〈神〉が相対化されているという点ではミルトンの『失楽園』も基本的には同じである。 『失楽園』は次のように始まる。

 神に対する人間の最初の叛逆と、また、あの禁断の木の実について(人間がこれを食べたために、この世に死とわれわれのあらゆる苦悩がもたらされ、エデンの園が失われ、そしてやがて一人の大いなる人が現われ、われわれを贖い、楽しき住処を回復し給うのだが)―おお、天にいます詩神よ、願わくばこれらのことについて歌い給わらんことを!(上・7)

 ミルトンは存分に詩神に導かれて〈神に対する人間の最初の叛逆〉と〈禁断の木の実〉について想像力を飛翔させた。『失楽園』を読んでいる間中、わたしは一編の壮大なスペクタクル映画を観ているような興奮を味わった。『失楽園』を忠実に映画化しようとすれば何十、何百億もの予算を計上しなければならないだろうが、脳内映像ですませば予算はゼロである。わたしは十分に脳内映像で満足した。

 ミルトンは神をどのように捕らえていたのか。この神は絶対の衣装を纏わされた相対的存在である。が、相対的存在でありながらあくまでも絶対の座から追放されることはない。もともとユダヤキリスト教の神は人間くさい要素を多分に持っている。この神は人間の現実世界において権力の座についた者の臆病、邪心、嫉妬、憎悪を余すところなく備えており、反逆者に対しては徹底的に容赦なく反撃する。神に反逆したサタンに対する攻撃はそれを証明している。神が相対化を免れた絶対存在であるなら、天使たちの反逆など最初からあり得ない。 『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイは人間の心は神と悪魔の永遠の戦場だと語っていたが、まさにミルトンの描く『失楽園』の世界もまた神とサタンの永劫の戦場を活写している。サタンは神との戦いにおいて敗北するが、彼らの精神は神に屈服していない。彼らサタンは神に反抗する精神の自由を満喫しているかのように大胆に振る舞っている。サタンは、絶対の衣装を纏った神よりははるかに人間的な躍動する精神世界を生きている。神が、サタン並に振る舞うのでなければ、ただ絶対性を賦与されただけの人工的な、作り物の印象を免れない。ミルトンの想像力はサタンの側に与することによって大胆に刺激的に飛翔する。

 ミルトンの時代にあって神を相対化すること自体がタブーであったのかどうかは別として、彼の詩神は神の絶対性をも超脱して自在に飛翔する。神と同等のサタンを設定することによって、神はその絶対性を試みられる。ドストエフスキーの場合は、イワン・カラマーゾフの「神の存在は信じるが、神の創造した不条理に満ちたこの世界を認めるわけにはいかない」という言葉に端的に示されたように、神は地上世界における真理・正義・公平を体現しなければならない存在として想定され、それらを体現しない神は反逆、抗議の対象となる。

 ミルトンはドストエフスキーの人神論者たちが神に求めた真理・正義・公平などを問題にしていない。特に『失楽園』前編で問題にされているのは、神とサタンの闘争である。この闘争は人間の世界における政治的な主導権争い、それも仲間内の壮絶な争いを容易に連想させる。設定上、『失楽園』の神は絶対性を剥奪されることはなかろうが、天使たちによって反逆された時点で、すでにその相対的存在であることを暴露されている。が、ミルトンの詩神は、神の絶対性を保持することを前提に想像力を飛翔させている。神がサタンによってその玉座を奪われるかもしれないというハラハラドキドキは予め封印されている。そこに異教徒であるわたしなどは物足りなさを感じるが、ミルトンの内に神を相対化する異教徒の眼差しがあったことは否めないであろう。詩神に魅入られた者は、既成の神をも超脱する力を賦与されており、詩神は神よりはむしろサタンに加担するものなのである。ミルトンの場合、サタンと結託する詩神の本来の力をミルトン自身がかなり意識的に抑制していたと見ることもできる。ミルトンは『失楽園』執筆にあたって想像力を存分に発揮しながら同時に〈前提〉(神の絶対性の保持)から逸脱しないよう慎重に抑止力を行使している。

 神に反逆し、敗北したサタン軍は地獄へと突き落とされる。ここでもわたしの興味のあるのは神の意志とサタンの意志とである。ミルトンは神の意志を〈一切を統べ給う神の意志〉と書いている。神はサタンの陰険な策謀を分かっていて見逃していた。ミルトンの神は、厳しく禁じた知恵の実をアダムとエバが食することを予め知っていながら、敢えて彼らの自由な意志にまかせた『創世記』の神と同様な性格を賦与されている。神には〈無限の善と恩寵と慈悲〉が備わっているが、同時に〈言語に絶する破滅と憤怒と復讐〉の念もたぎっている。  ミルトンにとって神は〈絶対性〉を保持する者として描き出されるが、サタンはその〈絶対性〉を認めない。サタンにとって神の〈絶対性〉は自らの〈絶対性〉を否定することにはならない。サタンは神と同等の〈理性〉と〈力〉を備えた者として認識されている。

 サタンは自身を神と同等のものと見なしている。神との戦いに敗れたのもたまたまそうなったのであって、戦略を充分に練り直せば勝利も可能と考えている。「彼がわたしより偉大だというのは、雷霆をもっていたからにすぎぬ」とサタンはひとりごちる。サタンは神がこの〈雷霆〉を持っていること自体が、神のサタンに対する絶対的優位性を備えているのだとは考えていない。サタンは神のもとにあって、神と共に安穏な生活をしようとは思わない。サタンにとって神と共にあることは、神への服従を意味している。サタンは神と共にある平穏な生活にあっては自らの自由を思う存分発揮することはできなかったのである。本来、神の国にあって大天使の地位にあったサタンは神の腹心であり、神の寵愛を一身に受けていたはずである。にもかかわらず、サタンは寵愛よりも自由を欲したのである。

 サタンにおいて自由であることは、神の支配統治からの離脱を意味していた。それは神に対する反逆ということになる。サタンの反逆は神の王国の秩序を根底から突き崩し、世界を混沌へと変えることになる。サタンは世界全体をカオスの渦へと巻き込むことによって新たなる世界構築を望んでいたかのようである。つまり、サタンは現存する神を殺し、自らが新たなる神となって再生することを願っていたことになる。『失楽園』前半における神の軍団とサタンの軍団による壮絶な戦いは、地上世界における権力奪取をめぐる人間の戦いを色濃く反映している。『失楽園』の神は、地上世界における人間(権力者)の貌を超越していない。この神は生々しいほどに権力欲に支配された人間の闘争心、復讐心、統治心、そして絶対的な勝利を確信しているときのみに寛容な心をかいま見せる。 『失楽園』の神とサタンはまさにドストエフスキーがドミートリイの口を通して言わせた、広すぎるくらい広い人間の心に内在する〈神〉(бог)と〈悪魔〉(черт)である。ドストエフスキーの場合、この〈神〉と〈悪魔〉は決着のつかない永遠の戦いを続行しなければならない運命にあるが、ミルトンの場合は神の勝利を前提にした戦いということになる。

 サタンの言葉を引こう。

 思うに、支配するということは、充分野心の目標たりうる、―たとえ、地獄においてもだ。天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか!(上・21)

 サタンの野望は支配であり、自由である。神のもとにあって大天使としていくら優遇されようとも、神の支配下にあることは間違いない。サタンは神の配下にあること自体に我慢がならない。とうぜんサタンの内には神を打倒し、神に代わってすべてのものに対する支配権を獲得しようとする野望が煮え立つ。そして遂に反逆の時を迎え、全力を尽くして戦った結末が敗北であり、地獄への追放であった。しかし神を絶対的な存在と見なさないサタンは、さらに反逆の牙を剥かずにはおれない。サタンは奴隷の安穏よりは地獄での自由を求める。自分の力を頼むサタンは、心持ち次第で地獄をも天国に劣らぬ世界へと変容させることができると思っている。サタンは神を恐れぬ英雄であり、一度や二度の敗北によっては、神の意志(怒りと寛容)を受け入れることはない。まさにミルトンのサタンは神を殺害した後の現代人にふさわしい英雄とも見える。このサタンはドストエフスキーの人神論者よりも冷徹な、謂わばニーチェの反キリスト者の虚無と絶望を経た超人の如き神への反逆者、ないしは神を見下す傲慢者の貌を備えている。サタンをミルトンの前提(神の全知全能性)から解放すれば、彼は無傷のままに現代に蘇るであろう。

 サタン軍には誇り高き者が揃っている。笏を持った王モーロックもその一人である。ミルトンは次のように書いている。

 彼こそは、天において戦った天使のうち最も強く、最も獰猛な者であったが、今では絶望の余りさらに獰猛になっていた。そして、力において永遠者と同等と認められていると確信し、もし永遠者より劣るなら、むしろ生存しないことを願っていた。生存の意欲が失われると共に、恐怖心も全く失われていた。(上・57)

 モーロックは〈悔改め〉を断固として拒み、永遠者(神)に対する〈公然たる戦い〉を主張する。サタンもモーロックも、自分を神と同等の力を備えた者として認識している。神との戦いに敗北したことを必然ではなく偶然として捕らえている。彼らは自分を王として、本来は永遠者として崇められ奉られる存在と見なしている。従って神との戦いに敗北したことの衝撃は大きかったが、しかし彼らの不撓不屈の精神は今再び神と一戦を交えることを決意させる。サタンにしろモーロックにしろ、彼らは自分たちが神よりも劣るなどということを認めることは絶対にできない。それを認めるよりは死を選ぶというのが彼らのプライドなのである。

 それにしても神の国にあっては大天使であった彼らは、いったい何が不満で反逆行為を起こしたのであろうか。天使もまた人間と同じように神の被造物でしかないのなら、創造者に反逆を起こしても初めから勝ち目がないのは当然ではなかろうか。『失楽園』の神が『創世記』の全知全能の神と同様の性格を賦与されているなら、この神はすべてをお見通しの上でサタンたちの反逆に立ち向かっていたと言えよう。この神は反逆者サタンたちに、彼らが神と同等の力を備えていると確信させるほどの余裕を持って戦いに望んでいる。傍目には接戦に見える激戦(読者にとってはスペクタクル映画を観るようなハラハラドキドキの戦闘シーンが続く)を演出し、存分に楽しんでいるのが『失楽園』の神である。もしミルトンが神の絶対性という前提を払いのけていれば、まさに神とサタンたちの戦いは文字通りの激戦となったであろう。

 わたしたちが読んでいる『失楽園』の神は、プロレス興業における、絶対的立場を保持するプロデューサーの如き存在で、レスラーたちは彼の書いたシナリオ通りに事を運ばなければならない。サタン軍の闘将たちも、見えざる神のシナリオ通りに考え、行動しているに過ぎないのだが、彼らはこの神のシナリオを意識するようには設定されていなかった。その意味でサタンたちは、神の意志によって創造された被造物であるにも関わらず、自分たちには誰にも侵すことの出来ない自由意志が備わっていると確信している傲慢な現代人にも通ずる人間臭さがある。おそらく『失楽園』の読者を魅了するのは人間くさい欲望、反逆精神に満ち溢れた自由人サタンの精神世界とその大胆不敵な行動力であって、永遠の座に君臨する神ではない。

 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(666)は、本文において最初の〈踏み越え〉(殺人)をなすことはできたが、その後〈踏み越え〉の重荷に耐えきれずに苦しむ。この〈苦しみ〉は二人の女の頭を叩き割ったことに対する〈罪〉意識の襲撃ではなく、自分が〈非凡人〉ではなく〈凡人〉の範疇に属する人間であることを認めざるを得なかったことに起因する。つまりロジオンは彼の名前が示すような〈薔薇〉(美・力・聖)、〈英雄〉、〈太陽〉でもなければ〈非凡人〉(ナポレオン=666)でもなく、単なる凡人としての〈殺人者〉でしかなかった。この無罪意識に苦しむ〈殺人者〉(убийца)で〈神の冒瀆者〉(богохульник)ロジオンが、〈淫売婦〉(блудница)で〈狂信者〉(юродивая)ソーニャの信じる〈神〉(бог)の愛に包まれることで『罪と罰』は幕を下ろすことになる。

 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは〈神〉に反逆し、徹底して戦う〈蛇〉(змей)でも〈竜〉(дракон)でも〈獣〉(зверь)でもなく、〈悪魔〉(черт)に誘惑されて殺人を犯してしまった臆病な思弁家であり凡人であり、最終的にはマルメラードフやソーニャの信じる〈神〉に帰依することになった。ロジオンという、作者によって額に悪魔の数字を刻印されていた青年は、殺人後、分裂した意識と葛藤にもがき苦しむが、結局は〈神〉の愛と赦しに包摂されて物語の舞台から去っていく。が、このことで『罪と罰』における〈神〉の問題がすべて解決したわけではない。

 引用テキストは『聖書』(新改訳聖書刊行会)、『カラマーゾフの兄弟』(江川卓訳 集英社 愛蔵版世界文学全集19)、『罪と罰』(米川正夫訳 世界文学全集18 河出書房新社江川卓訳 岩波文庫。一部私訳)、『失楽園』(平井正穂訳 岩波文庫)に拠った。

清水正  村上玄一を読む(連載5)

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村上玄一を読む(連載5)

清水正

 

 描かれた限りで見れば、〈ぼく〉は孤立している。家族、職場、飲み仲間から孤立して いるばかりではない、肉体的な関係を取り結んでいる女からも孤立している。この男に唯 一優しい言葉をかけてくれるのは鏡のなかの〈貴女〉である。この〈貴女〉ばかりは〈ぼ く〉の弱点を責めたてたりはしない。

  ぼくは鏡のなかのぼくを直視する。そして、思いっきり叫んでみた。  「ねえ、あなた……、好きよ!」  これで『鏡のなかの貴女』は幕を下ろす。鏡の前の〈ぼく〉は鏡の中の〈貴女〉に向か って〈好きよ〉と叫ぶ。鏡のなかの〈貴女〉から〈ぼく〉が〈好きよ〉と叫ばれているこ とと同じである。〈ぼく〉と〈貴女〉はお互いに〈好きよ〉と叫び合ってお互いの存在を 肯定するのである。

 最後の言葉などはつげ義春の『海辺の叙景』で女が口にする「あなたすてきよ いい感じよ 」のセリフを彷彿とさせる。が、『鏡のなかの貴女』と『海辺の叙景』とではその内容が まったく違う。前者には〈ぼく〉と〈貴女〉の安易な自己肯定が見られるが、後者には恐 るべき死への吸引力が働いている。〈ぼく〉は〈貴女〉によって命を奪われる危険性が皆 無であるが、後者においては主人公の青年が海(および女)へと命を没していくその不可 避性が見事に描かれている。

 

  どんな人の思い出のなかにも、だれかれなしにはうちあけられず、ほんとうの親友に しかうちあけられないようなことがあるものである。また、親友にもうちあけることがで きず、自分自身にだけ、それもこっそりとしかあかせないようなこともある。さらに、最 後に、もう一つ、自分にさえうちあけるのを恐れるようなこともあり、しかも、そういう ことは、どんなにきちんとした人の心にも、かなりの量、積りたまっているものなのだ。 いや、むしろ、きちんとした人であればあるほど、そうしたことがますます多いとさえ言 える。少なくともぼく自身についていえば、やっと先ごろ、自分の以前のアバンチュール のいくつかを思いだしてみようと決心はしたものの、いまにいたるまで、いつも、ある種 の不安さえおぼえて、それを避けるようにばかりしていたものである。しかし、たんに思 いだすだけでなく、書きとめようとさえ決心したいまとなっては、せめて自分自身に対し てぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひ ともそれを試してみたいと思う。

 

 これは地下男の言葉である。〈ぼく〉もまたこの地下男と同じように思って『鏡のなか の貴女』を書いたと言えよう。地下男は手記を書いたとき四十歳、彼は第二部で二十四歳 の時のアバンチュールを正直に書きとめようとする。それはまさに地下男が完全に裸にな りきれるかどうかの実験でもあった。

 〈ぼく〉は三十歳を過ぎたばかりの定職を持たない 男である。〈ぼく〉のやりたいことはどうやら小説を書くことらしい。法律事務所の所長 に「君は、もう、いい歳だろうけど、何をやりたいんだね」と聞かれて「小説を書きたい んですが……」と答えているし、飲み屋で今様の文学青年に「あなたも小説を書かれるん ですか?」と聞かれたときには「死ぬ覚悟もなくて、小説が書けるとでも思ってるのかい ? え!」と啖呵をきっている。 

 さて、それでは〈ぼく〉は自分でも秘密にしておきたいような恥ずかしいことをすべて 正直に書いたであろうか。三流大学に補欠入学したこと、幼い頃の草野球で自分のせいで 逆転負けしたこと、本当に好きな女と一度も関係を持ったことがないこと、三十過ぎても 定職のない貧乏人であること……はたしてこれらのことは〈ぼく〉にとって恥ずかしいこ とであったのだろうか。否、〈ぼく〉は自分の不運を嘆いても、その不運をはずべきこと と見なしているわけではない。むしろ逆である。〈ぼく〉は自分自身をきちんと把握して いるし、人生を真剣に生きようと心がけている。定職はない、金はない、しかし自分は自 分を誤魔化していないという自負が〈ぼく〉にはある。

 従って『鏡のなかの貴女』の〈ぼ く〉は自分の恥部をさらけ出すことで自分の醜悪な部分を厳しく凝視するというよりは、 そのことで自分以外のインチキ野郎たちのそのインチキぶりを露呈させたいという、屈折 した願望を秘めている。自分を誤魔化さず真剣に生きようとする者は、そうそう簡単に定 職などにつけるはずもないし、従ってまともな結婚もできるはずがない。自分はその上、 趣味もないし、これといった特技もない。しかし、ただ一つ、俺は命を賭けて小説を書こ うとしている。そんな俺は実は誰よりもすばらしいのだ。要するにこういった自分の生き 方に〈ぼく〉は惚れているのだ。

 不運、惨め、情けない……〈ぼく〉は確かにこういった 言葉を吐いている。が、この言葉は彼に向けられた、あるいは向けられるであろう他者の 言葉のコピーである。〈ぼく〉は他者たちが自分に対して下すであろう負の評価を先取り し、それを予め自らのうちに取り込むことによって、実はそれをすでに乗り越えている。 だからこそ〈ぼく〉は決して自分の〈情けなさ〉に敗北することはない。〈ぼく〉は不断 に他者の自己に向けられた〈負の思い〉を取り込むことで、他者に対して優位性を保持し ようとする。

 〈ぼく〉が願っているのは〈ぼく〉が自分を誤魔化さず真剣に生きているそ の生き方を全面的に肯定し、賛美してくれることである。しかし、どういうわけか〈ぼく 〉の前にそういった理解者は現れない。〈ぼく〉が酔いに任せて本音を語れば語るほど、 他者は彼を厄介者扱いし、まともに相手にしてくれない。〈ぼく〉はその不運の原因を真 剣に探ろうとする。しかし、すでに見ての通り、〈ぼく〉は鏡の中の〈貴女〉を自分の深 部に鋭い容赦のない眼差しを送る者としてではなく、鏡の前の〈ぼく〉を全面的に肯定す る唯一の理解者に仕立てあげてしまった。

 おそらく、〈ぼく〉はこれからも現実の世界の 中でただ一人の理解者もなく孤立し続けたまま情けない人生を送るであろう。

 〈ぼく〉は「なぎさ」のママに「学生の時には、いろんな事件があってねえ、安田講堂 の攻防でしょう、それから、よど号乗っ取り、三島由紀夫の自決、朝間山荘事件ね。だけ ど、ぼくは驚かなかったねえ、いつでも醒めてましたよ」と語る。この、いつでも醒めて いたことをさりげなく誇る〈ぼく〉は、結局鏡の中の〈貴女〉をも冷静に見るほかはない 。つまり〈ぼく〉は鏡の前で女言葉を発している自分自身のその演技意識からついに解放 されることはない。

 〈ぼく〉が不幸だとすれば、それは彼が醒め続けているということにある。醒めた意識 で物事を観察すれば、どうも絶対などというものはないように見える。〈ぼく〉は家族、 友達、スナックのママ、肉体関係で結ばれた女に対して何ら信用していない。彼らは束の 間、〈ぼく〉に係わっては消えていく存在に過ぎず、彼らのうちの誰ひとりとして彼に決 定的な影響を与える存在とはならない。

 〈ぼく〉には信ずるに足る存在、つまり神のよう な存在ははじめから問題にならない。先に指摘したように、〈ぼく〉の眼差しははるか遠 くを見つめる眼差しではない。〈ぼく〉の眼差しが捕らえるのはアルバイト先の所長や事 務員、スナックのママ、飲み仲間、そして肉体だけで繋がっているような女である。

 従っ てこういった男に残された〈生き方〉は、今までのように自分を誤魔化さずに真剣に生き ること、つまり金や職のためにおべんちゃらを使ったり頭を下げたりしないこと、その結 果〈定職なし、金もなし〉の生活を性懲りもなく続けること、もう一つはそういった生き 方を返上して積極的にインチキ野郎に成り下がることである。なにしろ〈ぼく〉は〈絶対 〉などを信じない醒めた男であるのだから、彼が今のところ嫌悪感さえ抱いている〈イン チキ野郎〉の生き方を選択したところで何も恥じることはないのである。

 〈ぼく〉が前者 の生き方にこだわっているのは、要するに彼が生半かなプライドを捨てきれずにいるから である。〈ぼく〉は未だ、どういうわけか誇り高き、情けない生き方そのものに一種の捨 てがたいダンディズムを感じているらしい。〈ぼく〉はこの一般受けしない貧乏たらしい ダンディズムが何よりもお好みに合っているらしいのだ。これは〈ぼく〉の屈折した虚栄 である。何も信ずるに足りない現実の世界にあって、不断に拗ねたポーズをとり続けてい たい。この欲求は、〈ぼく〉にあっては金とか定職を得たいという欲求よりもはるかに強 く作用している。何しろ、このポーズをとり続ける限り、〈ぼく〉はこの現実の世界に呑 み込まれずにすむというわけだ。

 〈ぼく〉は我を忘れて存分に現実を満喫することはでき ないが、しかし自らをいつも現実を冷静に観察する側に置いておくことができる。どうや ら〈ぼく〉は世界を創出した神に反逆まではしないが、現に存在する世界の冷徹な立会人 (報告者)にはなりたいらしい。これを〈ぼく〉の言葉で換言すれば命を賭けて小説を書 くということになる。そして〈ぼく〉はこういった、なかなかひとに理解してもらえない 自分を誰よりもステキだと感じ、鏡の前で「あなた好きよ!」と叫ばずにはいられない。

 要するに〈ぼく〉はナルシストのダンディであることを、金や定職に譲り渡すことはでき ないと固く決意した男なのである。こういった男は、自分のナルチシズムとダンディズム を守るためにも〈小説〉を書き続けるほかはないだろう。今のところ〈ぼく〉に欠けてい るのは〈小説家〉という肩書だけであり、これさえ手に入れて、社会的に認知されれば、 〈定職なし、金もなし〉といった世間の蔑みからは逃れられるだろう。

 それにしても小説を命懸けで書くという〈ぼく〉は、いったいその〈小説〉で何を実現 したいのであろうか。『鏡のなかの貴女』を見る限り、そこに描き出されているのは「定 職なし、独り暮らし、趣味なし、特技なし、金もなし」そして好きでもない年上の女とた まにセックスをするだけのなんとも情けない三十男の原寸大の姿だけである。 

清水正  村上玄一を読む(連載4)

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村上玄一を読む(連載4)

清水正

 

 〈ぼく〉はかなり正気の男である。〈ぼく〉は鏡のなかの〈貴女〉がもうひとりの〈ぼ く〉であることをきちんと認識した上で、〈彼女〉に語りかけられている。主導権を握っ ているのはあくまでも鏡の前に立っている〈ぼく〉であって、決して鏡のなかの〈貴女〉 ではない。おそらく〈ぼく〉は狂気に落ちることはないだろう。ある日、とつぜん女装し てアルバイト先に出掛けて所長をびっくりさせることもないだろう。〈ぼく〉の自意識は 狂気を装うことはできても、狂気そのものに襲撃されることはない。

 この作品をはじめて読んだときからわたしはドストエフスキーの『分身』や『地下生活 社の手記』を想い浮かべていた。『分身』の主人公ゴリャートキンは自分が認めたくない 醜悪なもう一人の自分を拒み続けることで発狂してしまう。しかし、『鏡のなかの貴女』 の〈ぼく〉は自分の醜悪な側面にたじろぐことはない。〈ぼく〉は誰に頼まれているわけ でもないのに自分の醜悪な部分をさらけ出している。なぜゴリャートキンは必死で隠そう とし、〈ぼく〉は積極的に大胆にさらけ出すのか。ゴリャートキンはその〈醜悪〉を本当 に醜悪と感じ、〈ぼく〉はその〈醜悪〉を実は醜悪と感じていなかったということがまず 挙げられる。

 〈ぼく〉は田舎のオヤジに勘当されても、愛してもいない女と肉体だけの関 係を取り結んでいても、ボーナスを貰えるような定職についていなくても、別にそんなこ とは彼にとって恥でもなければ醜悪でもない。〈ぼく〉は単に〈不運〉で〈貧相〉で〈怪 し気〉なだけである。〈ぼく〉が「なぎさ」のママに言った「定職なし、独り暮らし、趣 味なし、特技なし、金もなし」「本当に好きな女とは一度も関係してない」というような ことは、そのことを他人から指摘されても別に彼をズタズタに引き裂くようなことにはな らないだろう。

〈ぼく〉はそんな自分を〈不運〉と思い、〈情ない〉とは思っても、そん な自分を醜悪な存在と見なしているわけではない。むしろ、〈ぼく〉が醜悪な存在と見な しているのは定職を持ち、結婚をし、金を持っていても、自分を誤魔化して生きている人 間、彼の言葉で言えば「自分自身のことが、ちゃんと把握できていない人間」である。

〈 ぼく〉は情けない男だが、その情けなさをきちんと把握していることで他の誰よりもまっ とうな人間だと思っている。「なぎさ」で若干二十五歳の遠藤に「職を探されているんで すか? それなら、僣越ながら俺がいくつか当ってみましょうか」と言われた時、〈ぼく 〉は「大きなお世話だよ、お前みたいなインチキ野郎に頼るほど、ぼくは落ちぶれてはい ないぞ」と思う。要するに〈ぼく〉は過度にプライドの高い〈定職なし〉であり〈金もな し〉なのである。

〈ぼく〉は、製本屋のオヤジの妾を抱くことは平気だが、ひとに頭を下 げて職を世話してもらうことには屈辱を感じる男なのである。〈ぼく〉は遠藤を〈インチ キ野郎〉とは思っても、決して自分自身のことをそう思ってはいない。〈ぼく〉は自分の 不運を嘆き、他人に傷つけられることに憤懣を感じているが、自分を醜悪な存在と見なし ているわけではない。否、〈ぼく〉は自分こそが誰よりもまっとうであり、まっとうであ るからこそ定職にもつけず、金も手に入らないのだと思っている。

〈ぼく〉が自分の情け ない場面を臆面もなくさらけ出せるのは、彼の内にこの確信が確固として存在するからで ある。〈ぼく〉はプライドの高い自信家であり、彼は誰よりも何よりも〈自分〉を頼りに している男である。〈ぼく〉がこの世で最も愛しているのは自分の情けなさを晒してもビ クともしない〈自分〉である。〈ぼく〉はみんなから蔑まされ馬鹿にされても決定的には 落ち込まない。なぜなら〈ぼく〉は誰よりも何よりも〈自分〉が好きであり、〈自分〉を 頼りにしているから。

〈ぼく〉は鏡の中の〈貴女〉から声をかけられるほどに弱くはなく 、狂気に落ちることもない。〈ぼく〉は〈鏡のなかの貴女〉に呼びかける〈もう一人のぼ く〉を演じる、その意識の次元から離れることはないだろう。

   この作品における〈鏡のなかの貴女〉は〈ぼく〉の味方であり、最大限の理解者である 。この〈貴女〉は〈ぼく〉を告発し、糾弾し、罰する恐るべき〈他者〉ではない。〈ぼく 〉には自分のどこを探してもひとから罰せられるような〈罪科〉はない。なにしろ〈ぼく 〉は自分を不運なだけのまっとうな存在と見なしているから、自分を賛美し、励ましてく れる者の出現をこそ望んでいる。たまたま現実の世界にはそういった他者が皆無なので、 自分自身の内部に〈もう一人の自分〉、すなわち自分を全面的に肯定してくれる〈貴女〉 を作りだしたまでのことである。この〈貴女〉だけが〈ぼく〉を限りなく包み愛してくれ る存在である。

 〈ぼく〉は〈ぼく〉が大好きなのだ。まったく、この〈ぼく〉ときたらド ストエフスキーの地下男に倣って「鏡のなかの貴女さえいれば、世界なんぞ滅びてしまっ てもかまやしない」などと口にするかもしれない。

 ドストエフスキーの地下男はまず最初に「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人 間だ。およそ人好きのしない男だ」と自己紹介する。わたしは十七歳の時に『地下生活者 の手記』を読んでドストエフスキーにとり憑かれた。以来、この作品を何度も繰り返し読 んできた。

 『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉はほんの少し地下男の性格を備えている。とい うのは、まず〈ぼく〉は地下男ほど病んでいないし、意地も悪くないし、人好きのしない 男でもない。〈ぼく〉には地下男の深遠な哲学もないし、自らの内部世界を披露する表現 力もないし、自らの絶望を徹底的に分析するその能力にも欠けている。地下男はアンチヒ ーロー足り得ているが、〈ぼく〉は単に情けない不運な主人公にとどまっている。

 〈ぼく 〉は地下男のような自意識過剰者ではない。もし〈ぼく〉が地下男の血を受け継ぐ者であ るなら、鏡の前の〈ぼく〉と鏡の中の〈貴女〉との間ではてしのない、自らの存在を賭け た闘いを繰り広げたであろう。そのことを通して〈現実〉を生きる〈ぼく〉が徹底して検 証されることになったであろう。

 〈ぼく〉は二十世紀の地下男というには余りにも中途半 端な次元にとどまっている。〈ぼく〉は鏡を叩き割ることもできないし、鏡のなかの〈貴 女〉と濃密な関係性を取り結ぶこともできない。つまり〈ぼく〉は現実にしっかりと足を 据えた生活者になることもできないし、狂気の世界へと突入することもできない。

 ドストエフスキーの人物の一つの大きな特徴として空想癖があるが、〈ぼく〉は決して 夢想にふけることはない。〈ぼく〉はかなり理性的な存在で、その理性が壊れてしまうほ どには〈貴女〉と係わろうとはしない。おしなべて〈ぼく〉は親にも、兄弟にも、友達に も、女に対しても、或る一定の距離を保持し続ける。  

 〈ぼく〉の眼差しは肉眼の眼差しであって、望遠鏡や顕微鏡的な眼差しは持ち合わせて いない。〈ぼく〉の眼差しは遠くの世界を見る眼差しでもないし、ミクロの世界を覗き込 む眼差しでもない。そればかりか、〈ぼく〉は自らの肉眼の眼差ししか信用していないの で、それ以外の眼差しがとらえた世界を頑に拒む傾向がある。〈ぼく〉は鏡を覗き込んで も、その表面に現れる〈貴女〉にしか注目しない。〈貴女〉が出現した広大深遠な鏡の世 界へと眼差しを送ることはない。しかも、表面に現れた〈貴女〉にさえ一定の距離を保と うとする。

 〈ぼく〉の肉眼の眼差しが捕らえるのは、例えばスナック「なぎさ」のママで あったり、飲み仲間の石川や小塚であったりするわけだが、その眼差しは彼ら(すなわち 他者)の内部深くへと注がれることはない。〈ぼく〉の眼差しはスナックとか自分の家の 内部をとらえる眼差しであって、そういった狭い限定された空間を突き破ってはるか彼方 に注がれる眼差しではない。要するに〈ぼく〉の眼差しは閉塞された日常の世界にのみ注 がれているので、この手記を読む者に何らの解放感も与えることはない。〈ぼく〉の情け なさや惨めさが伝染してきて、どうにもやりきれない感覚に襲われる。

清水正  村上玄一を読む(連載3)

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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村上玄一を読む(連載3)

清水正

 

 この小説のいたるところに、主人公〈ぼく〉の嘆き、愚痴、非難がまき散らされている 。スナックから帰って寝床にもぐっても、なかなか寝つかれないのは「世の中が、ぼくの 周辺の人間が、ぼくに冷酷だからだ。自分が情ないからだ」。〈ぼく〉は幼いころ草野球 に夢中だったが「晴々とした舞台は、一度も用意されたことがなかった。振り逃げで、た またま出塁できると、張り切りすぎて牽制球で刺され、当りぞこないの球が珍しく外野に 飛んだと喜べばライトゴロ、アウト」。「精神的ゆとりはないし、経済力もない」「学業 のほうで、どういうわけでか、人よりも劣っていたのだから、せめて遊びの世界で幸運に 恵まれてもよさそうなものだけれど、いつも、みじめな思いばかり」「傷つくことだけに 慣れてしまった」「ぼくは生まれつき不運の相をおびた顔つきなのかもしれない」「世の 中は一度だって、ぼくの思い通りに動いたことはなかった」「ぼくのように貧相で怪し気 で、その存在に価値のないような人間」「ぼくは無用、あるいは代用」「ぼくの目は細く 、鼻はすわっているし、唇は厚い。背は高くないくせに猫背で足も短い」。〈ぼく〉は電 車のガラスに映った自分に向かって言葉を発する「口が大きすぎる、とくに上唇、猥褻な 感じだねえ」「醜い、お前の顔は醜い!」「好色さが露骨にあらわれている、ボロボロに なった人間の救われない顔だ」。「毎週土曜日の午後一時、経理担当兼タイプ打ちのオバ サンから二万七千円を貰うために、ぼくは、いかなる屈辱にも甘んじている」「何かを見 る、何かを聴く、何かを考える、それらすべてが自分のみじめさにつながり、つくづく愚 劣な人間だと思ってしまう」「楽しくなろうと努めればそれだけ、ぼくは深く傷ついてゆ く。どうすれば、このピントのボケたような状態を脱することができるのだろう」……

   そ の他〈ぼく〉は四人組の不良少年達に殴られて金を巻き上げられたり、大学を卒業した年 に十一万円もの金(預金通帳)を盗まれた話などを披露する。要するに〈ぼく〉はこれで もかこれでもかといった畳みかける調子で自分の情けない状態を晒け出していく。まるで 自分の傷口を引っかき回すことに自虐的な快感を覚えているかのようだ。

〈ぼく〉の自虐 的な打ち明け話は、スナック「なぎさ」では〈有難くない客〉であること、大学を卒業し て田舎の九州に帰るとオヤジから「そんなくだらん人間になって」と罵られ勘当されたこ と、オフクロはその半年後に車に轢かれて死に、兄は葬式を終えたという簡略な手紙しか くれなかったことなど……執拗に続く。

 こんなうだつのあがらない情けない三十男の〈ぼく〉ではあるが、一年前に知り合った 昭子という女がいる。昭子は〈ぼく〉より数歳年上で五十を越えた製本屋の社長の妾で、 荻窪のマンションに住んでいる。

〈ぼく〉はたまたま新宿西口の「ぼるが」で昭子と知り合い、ときたま泊まっては肉体関 係を持っている。別に愛しているわけではない。単なるセックスフレンドである。しかし ここ二、三か月はその気にもならず、もう別れ時だと思っている。そんな女のところに〈 ぼく〉はただ風呂に入れてもらうためにわざわざ電話までして出掛けていく。昭子に関し て〈ぼく〉は「気が利くようでいて、実際には無神経、屁をしても、人ごとのように平然 とし、恥じらうことがない」「彼女の生活には、いささかの緊張感もみられない」「昭子 は、すでに自分の生活の夢を捨て去ってしまったのかもしれない」と書いている。

 〈ぼく〉は三年前に付き合っていた静江という女を想いだす。〈ぼく〉は静江に対して は「自分の夢ばかり追いかけている女」「己れの能力が奈辺にあるのか、少しも考えない 女」「誰よりもズボラな女」「絶対に自分自身を顧みることはせず、暇さえあれば、ぼく に不平不満を並べたてていた」と書いている。要するに〈ぼく〉はろくな女と係わってい ない。

 〈ぼく〉は一時間半もかけて風呂に入り、出てくると三面鏡の前に坐る。そこで〈ぼく 〉は〈目の前のぼく〉に女言葉で呼びかける。電車のなかで一回、「なぎさ」のトイレで 一回、これで三回目である。これはいったいどうしたことだ。〈ぼく〉は「鏡のなかの自 分を覗くという行為は、ぼくには耐えられないことだった。ぼく自身の救いようのない後 ろめたさを再確認させられる感じがイヤだった。それなのに、なぜ、そんな自分に、あえ て語りかけてしまうのだろう。それも、女言葉をつかって……。/ぼく自身の、もっとも 醜い部分を直視したいのか、それにしても、なんともいいようのない不可思議な陶酔感を 覚えるのは、どういうことなのだ。これは徹底して究明してみる必要があるのではないか 」と書いている。

 〈ぼく〉は昭子のマンションを飛び出ると「何か発見できそうな喜びの実感」が湧いて 心が弾む。自分のアパートに戻った〈ぼく〉は学生時代、女子便所から盗み出した大鏡の 前に立って、恐る恐る鏡のなかの顔を覗き込む。「いったい、お前は何をしてるんだ? どうして、そこにいるんだ? お前は、なぜ、そんなに己れのことを見つめるんだ。真面 目くさった顔して、お前は、本当は誰だ? わからない、何も判らないから、いま、ここ に立ちつくしている以外にないのだ。まったく、どうしたらいいのだろう」〈ぼく〉の独 り言は続く。やがて言葉は男言葉から自然に女言葉へと移行する。〈ぼく〉は鏡のなかの もうひとりの〈ぼく〉に語りかけながら、ふと素に戻って考える「やはり、女の言葉でな くては、あの何ものかに憑かれたような感覚がでてこない。少しずつ、身体が温まってく るようだ。しかし、こんなことを長時間つづけていても、その果てには、みじめな自分を 自覚した、ぼく自身の哀れな姿があるだけではないだろうか。だが、夕方から三回も鏡に 語りかけ、かつて味わったことのない昂揚のなかで、正体不明の、もうひとりのぼくと対 峙したという、この謎は解明しなければならない。ぼくが、鏡のなかに求めているものは 何なのかを」と。

   続いて〈ぼく〉は「それとも、ぼくは狂っているのか? しかし、人は 、こんなにも冷徹な状態で狂うものとは思えない。狂人にも、醒めた自分を見つめる時が あるのだろうか……」と考える。と、「どうだっていいじゃないの、そんなこと。あなた の悩んでいる顔って、吹きだしたくなるわ」云々と鏡のなかの〈ぼく〉が語りはじめる。

    もし鏡のなかの〈ぼく〉が女言葉で果てしなく語り続ければ、確かに狂気は〈ぼく〉の内 部を犯し始めたと言えよう。が、〈ぼく〉は鏡のなかのもうひとりの〈ぼく〉に支配され きってしまうことはない。〈ぼく〉は再び素に戻って次のように考える「もう、このくら いでいいだろう、ぼくの醜悪と猥雑の原点。ぼくの理性は、際限もなく低下しつづけはし ない。だけど、どうして、こんなにも女性にこだわらなくてはならないのだろう。そんな にも、ぼくは女を意識して生きてきただろうか。ぼくとは、あまりにもかけ離れて異質な 存在だからなのか。ぼくには判ることのない世界を生きているからだろうか……。/しか し、それはもういい。ぼくは、これまでに考えようともしなかった本当のぼく自身の意識 を、鏡の中に模索するのだ。女性言葉は、そのための導火線。そうなのだ、ただ、それだ けのことだ。/ぼくの生き方に、百八十度、いや、九十度でもかまわない、変化をあたえ てくれるような、そんな言葉を、鏡のなかの自分に発したい。いままで、ぼくの知ってい た自分は、偽りの姿だったのではないのか。いま、ぼくは、自分の真正の心、誰にも見せ ることのなかった正体、自分にも気づかなかった本当のぼく自身を掴まなくてはならない 。/いや、それほど深刻なことでなくともよい。ただただ日常を意味なく遣り過ごす生活 、もう、うんざりしているのだ。こんなぼくを発奮させるような言葉、一言でいい、その 声を発してみたい」と。

清水正  村上玄一を読む (連載2)

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村上玄一を読む(連載2)

清水正

 

 わたしが大学に残って二、三年経ってからの頃であったろうか、文芸学科資料室のカウ ンターに進藤純孝研究室から寄贈ということで何冊かの同人雑誌が置いてあった。なにげ なく見ていると、そこに「マグマ」という雑誌があった。〈マグマ〉という誌名に心騒ぐ ものがあったので、表紙をめくって目次を見ると、そこに村上玄一の名前があった。正直 言ってわたしは嬉しかった。卒業しても相変わらず小説を書いている奴がいると思って嬉 しかったのである。

 わたしが助手の頃、「江古田文学」が復刊されることになった。会長は進藤純孝、編集 長は平岩昭三である。江古田の小さな居酒屋で最初の編集会議が開かれた。確か平岩編集 長と学生編集者を含め六、七名だけのささやかな会合であった。わたしが編集を担当した のは八号からであった。池袋の行きつけの居酒屋「玉淀」に有志に集まってもらい協力を 仰いだ。

 わたしは村上玄一に小説を書いてもらうつもりであった。彼が「海燕」に発表した「鏡 のなかの貴女」は松戸の駅のベンチに座って読みおわった。すぐに村上宅に電話したが、 奥さんが出て、村上は胃潰瘍を患って田舎の宮崎に帰っているということであった。一年 後、改めて電話をし、「玉淀」で待ち合わせた。学生時代、ただの一回も顔を合わせたこ とのない村上玄一とその時はじめて会った。何とも奇妙な感じであった。  

 早速わたしは、「江古田文学」の協力を仰いだ。こういった雑誌は卒業生が支える他は ない。原稿料は一銭も出ないが、ぜひ代表作となるものを書いてもらいたい、と頼んだ。 初めて会ったとは言え、同級生であるから最初から遠慮はない。依頼だか脅迫だか分から ないような頼み方をして、その日は別れたが、それから今日までの付き合いとなった。

 2001年の七月、村上玄一は二冊の小説集を刊行した。一冊は『生き方の練 習』で「鏡のなかの貴女」「謎謎」「穴まどい」「行き方の練習」「うしろ姿」の五編を 収めてある。二冊目は『死に方の実習』で同名の小説一編を収めてある。今、この二冊の 小説を刊行する意義はどこにあるのか。小説の一編一編がどのような自己主張をはたして いるのか。これからじっくりと検証してみたいと思う。

 同じ時代を生きてきて、わたしはもっぱら批評を展開してきたが、村上玄一は主に小説 を書いてきた。わたしは村上玄一を小説家と見たい気持ちが強いが、村上本人は小説以外の ものにも手を出している。村上玄一の全体像を浮き彫りにするためには小説以外の作品に も言及した方がいいだろうが、今回は小説(主に「鏡のなかの貴女」と「謎謎」)に限っ て批評を展開する。

 わたしが村上玄一の小説を評価する唯一の点は、そこに現代日本人のふつうのサラリー マンの卑小さ、卑劣さが原寸大の大きさで表現されていることにある。 わたしが「鏡のなかの貴女」を最初に読んだときの感想は、なんてつまらない、くだらない男を主人公にし た小説だろう、であった。この感想はずっと続いていて、村上は人間の卑劣さを描かせれ ば日本一の作家であるかもしれないと思っていた。

 この主人公と村上玄一が重なって見え るときがあり、そういうときは本当に腹の底から嫌になる。これは生理的な嫌悪感である 。なぜこれほど強烈な嫌悪感を抱くのか、それはおそらくわたし自身の中に潜んでいる最 も見たくない触れられたくない、嫌悪すべきものを村上玄一の描く主人公や村上玄一自身 に見るからであろう。

 

 『生き方の練習』に収録されている作品に関しては発表順に読むことにした。まずは「 鏡のなかの貴女」からいこう。

 主人公は〈ぼく〉で、年齢は三十歳を過ぎたばかり、住居 は杉並区天沼二丁目のアパート、仕事は弁護士事務所のアルバイトで、結婚はしていない 。さて、この〈ぼく〉は自分のことをどのように把握しているのか。

 〈ぼく〉は友達三人が帰った後のスナックでママに向かって次のように言う「まったく 、あいつらは、ぼくのことなんて少しも判っちゃいないんだよ。冗談なのか、真面目なん だか、自分自身のことが、ちゃんと把握できてない人間ってイヤだねえ。さっき、ぼくと 一緒に呑んでいたヤツらは、みんな誤魔化しで生きてるんだからね。いいとこもあるんだ けど、救いようのないのもいたね、ひとりだけ。本質が間違ってるんだよ。ぼくなんか、 頭はよくないし要領も悪いから、みじめな生活をしてるけどさ、ヤツらよりは真剣ですよ 。そう心がけようとしていますね、何事に対しても。」

 〈ぼく〉は友達の誰からも理解されていない、それは彼らが自分の人生を誤魔化してい い加減に生きているからだ。それに対し〈ぼく〉ほど真剣に生きている者はいない。〈ぼ く〉が経済的に恵まれないみじめな生活を余儀なくされているのは、頭も要領も悪いから だが、最大の原因は何事に関しても真剣に立ち向かっていくからだ……。まあ〈ぼく〉は 自分および友達のことをこのように思って、ママを相手に憂さを晴らしている。

 午前四時、ママはカウンターにもたれて半分眠っている。ストーブの火は消されている 。〈ぼく〉はすでに厄介者でしかない。〈ぼく〉はそれを分かっていながら帰る気にはな れず、ぐだぐだぐだぐだ愚痴をこぼし続ける「あああ、ぼくも、ついに三十を過ぎてしま ったんだからね。こんなことじゃいけないんだけど、ママさん、バカな男だと思ってるん でしょう? 三十かあ、恐ろしいねえ、自分でも信じられないよ。一人前の大人のはずな んだけど、まだ大人になったという実感がないねえ。定職なし、独り暮らし、趣味なし、 特技なし、金もなし、いままでに関係を持った女は三人だけで、それもブスばかり、いや 、こんな言葉、使いたくないんだけれど、酔っているときぐらいは、人並みに吐いてもみ たくなるよ。ま、本当に好きな女とは一度も関係してないってこと。そんなもんだろうか ねえ、他の人も……ママさん、もう帰るよ、ママさん、ママさん……」

 〈ぼく〉は友達がいた時に、友達に向かって言いたい事を言えない。〈ぼく〉の言葉は ママとの対話になってはいない。言わば〈ぼく〉の言葉はママさんを壁にして独り言を呟 いているようなものである。〈ぼく〉は「定職なし、独り暮らし、趣味なし、特技なし、 金もなし」のみじめな生活を本当に心の底からみじめに思っているのか。〈ぼく〉はみじ めな自分に一種特別な愛着を感じているようにも見える。言い方を変えるなら〈ぼく〉は 自分のみじめさに敗北していない。なにしろ〈ぼく〉は自分を、何事に関しても真剣に立 ち向かっていく自分を信用しているのだ。偉そうに振る舞っている〈友達〉は要するに要 領よく立ち居振る舞っている卑劣な輩にすぎないが、自分は真剣なのだ。〈ぼく〉は他人 もまた真剣に生きているとは思わない。大げさな言い方をすれば、自分を誤魔化さずに真 剣に生きているのは世界中で〈ぼく〉一人きりなのだ。

村上玄一を読む (連載1) 清水正

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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かつて執筆した村上玄一論を何回かに分けて連載する。大学時代の思い出に関しては「情念で綴る「江古田文学」クロニクル」で書いたことと重複する部分もある。

 

村上玄一を読む (連載1)

清水正

 

 村上玄一とわたしは昭和四十三年四月に日本大学芸術学部文芸学科に入学した。わたし は文学クラブに入った。大学に入学してしばらくすると世に言う学生運動が盛んとなり、 日芸も芸闘委の連中が活発に運動していた。文学クラブの先輩たちの大半がこの芸闘委に 所属していた。最初の新入生歓迎会が江古田の飲み屋で行われたとき、先輩連中が政治の 話ばかりしていたので、酔ったわたしが「いいかげん、文学の話をしようじゃないか」と 言った覚えがある。

 わたしはすでに政治的活動には何の期待も抱いていなかった。一年、浪人している間、 わたしはもっぱらドストエフスキーを読んでいたので、地下生活者の言葉「バカばかりが 活動家になれるのだ」が身に染みていた。

 当時の日芸の学生はサイケデリック衣装を身につけている者が多かった。右足緑、左足 赤のズボンを穿いているような者もいた。部室で後輩をつかまえては三十円の立ち食いそ ばをたかっていた一年先輩の男は、自分を中原中也の生まれ変わりと信じていた自称天才 詩人であった。この男とはしばらく江古田のダンボール工場で一緒に働いたが、当時四十 三キロの痩身であったわたしのあばら骨をつくづく見ながら「おまえを見ていると俺は生きる自信がわいてくる」などと言っていた。

 当時、三浦朱門がゼミの担当であった。一回しか授業をしなかったのでその講義内容は すべて覚えている。闘争が烈しくなっていよいよ授業ができなくなった。ある日、江古田 の飲み屋で三浦朱門、進藤純孝それに学生有志が集まって、要するに「今後どうするか」 をめぐって話し合いがもたれた。当時三浦朱門は教授で進藤純孝は非常勤講師であった。 三浦朱門は酒ではなくもっぱらジュースを飲んでいた。席上、わたしがドストエフスキー の話ばかりしていたので、三浦朱門は「そんなにドストエフスキーに関心があるなら資料 室にドストエフスキー全集を揃えましょう」と言った。わたしはその言葉を本気にしてい たが、三浦朱門はそれから一年も経たぬうちに赤塚行雄助教授と『さらば日本大学』とい う本を出して去っていった。

 紛争後一年も経つと、学生運動に参加していた連中の姿は江古田から消えた。文学クラ ブで一緒だった同級生の一人は、「鬼瓦」という短編小説一つを機関紙に発表しただけで 大学を去っていった。彼は確か三浪して文芸に入ってきた男だったが、紛争後、大学側の 学生証提示の要求を拒んで結局、除籍処分になった。

 わたしは大学に入ってからも相変わらずドストエフスキーを読み続け、書き続けていた 。一年の終わりに『ドストエフスキー体験』という本を自費出版した。当時は詩を精力的 に書いていた山形敬介といつも一緒だった。が、酒はほとんど飲まなかった。もっぱら喫 茶店でだべっていた。

 当時、文芸学科にジャーナリズム研究会という学内サークルがあった。このメンバーの 者が、当時執行部で学監をしていた進藤純孝に頼んで教室を借りることにしたのである。 教室借用は研究室の責任者(学科主任)が学生に申請書を出させてきちんと管理しなけれ ばならないのだが、当時の文芸学科研究室の管理は全くルーズであった。いつの間にか、 文芸棟三階の二教室がジャーナリズム研究会と現代詩研究会の部室となり、四階の学生室 が学内サークルの部室と化してしまった。

 後に(わたしが文芸学科の研究室に残ったばかりの頃)現代詩研究会の連中は三階、四 階の廊下の壁に色ペンキで何やら好き勝手なことを書きまくっていた。管財課の職員が白 ペンキで塗り潰す。また現代詩研の連中が書く。そんなことを何回か繰り返しているので 、文芸棟の壁は薄く剥がしていくと面白いものが出てくるだろう。この現代詩研究会の連 中は黒ヘルとか呼ばれていたが、ある日、黒ヘルの大将が、とつぜん学内に闖入してきた 革マルの連中に鉄パイプで襲撃され病院送りになった。以来、もっぱら文芸棟の壁を発表 舞台にしていた現代詩研究会は自然消滅することになった。

 さて、村上玄一は当時何をしていたかというと、どうやらジャーナリズム研究会(通称 ジャー研)に所属していたらしい。と言うのも、何しろ、同じ年に文芸学科に入学し、同 じ年に卒業した、いわば同期の桜であるにもかかわらず、わたしは在学中、彼とただの一 回も顔を合わせたことがなかったのである。彼が、野坂昭如について雑誌「えこた」に記 事を載せていたことは知っていたが、彼本人とはどういうわけか会うことがなかった。

 ジャー研に所属していた村上玄一以外の同級生はそのほとんど全員を知っているが、み なそれぞれに曲者顔をしていた。彼らに限らず、どういうわけかわたしの年代(昭和二十 四年生まれ)にはクセのある者が多いような気がする。