清水正  情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載11)

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情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載11)

──または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様──

 清水正

 

 

 28号(平成7年10月)は「日本大学芸術学部文芸学科卒業制作」を組んだ

その理由は後回しにして、まずは編集後記の引用から始めたい。

 《■今から二十年以上も前の話である。わたしがティーチングアシスタントとして文芸学科の研究室に残った年のある日、当時助手であったK氏が熱っぽく「江古田文学」の話を始めた。わたしは当時「江古田文学」の存在すら知らなかったし、当時「江古田文学」は刊行されてもいなかった。つまり第一次「江古田文学」が休刊されてからすでに十七、八年もたっており、当時学部を卒業したばかりのわたしはその存在を知らなかったわけである。K氏は「江古田文学」の復刊を強く主張していた。「江古田文学」なくして文芸学科の存在意義はない、くらいの熱い主張だった。わたしはそんなものかな、ぐらいに軽く受け止めていた。

■それから三年もたたないうちにK氏は大学をやめていった。K氏は大学を去る何日か前に、わたしに二、三十通の手紙の束を手渡し「よろしく」と言った。その時のK氏の顔は忘れられない。その手紙とは「江古田文学」宛の投稿であった。注意してほしい。その時、「江古田文学」は未だ復刊されていなかったのだ。わたしはその投稿の手紙をしっかりと受け取った。》

 《■第二次「江古田文学」が復刊されない前からの寄稿者の寄稿はその後も間断なく続いた。わたしは十余年にわたって彼の原稿(詩)を読み続けた。本号で初めて彼の詩篇をとりあげることにした。彼の名は白井勇亀(ゆふ)氏、彼の寄稿をわたしに託したK氏とは此経啓助氏である。「江古田文学」が大波小波にもまれながらもどうにか航海を続けてこられたのも両氏に負うところが大きかった。記して感謝の意を表したいと思う。(一九九五年九月二十五日)》

 何かひとつのことをやり続けるということの中には、人知では計り知れない神秘的なことが介在しているように思う。「江古田文学」ひとつとってみても、それを強く感じる。第一次「江古田文学」がどういう経緯で誕生したかは詳らかにしないが、小沢信男の文章などによれば、編集経理ともに学生(和田明)が握っていたらしいから、学科側が積極的に関わっていたようには思えない。

 小沢信男は「江古田今昔物語」(本誌15号)の中で次のようにも書いていた。

「当時の江古田は、駅も島型のプラットホームが一つあるきりの小駅で、周辺の家並をぬけると畑がひろがっていた。芸術学部は本館が木造二階建てで、夏にはでこぼこの土の校庭に草が茂った。殆ど田舎の小学校なみだった。

ただし、正門を入って左には、映画科のためのスタジオがある。右手の講堂は演劇科の本拠である。音楽科の教室からはピアノがひびき。写真科の暗室には赤ランプがともり。秘術科の教室の窓が閉まって煙突から煙がでているのはヌードモデルが来ている証拠で、つまり他の学科はそれぞれ面白そうなのに、文芸科だけが居場所もない。夏草にふてくされて寝そべっているよりなかったが、そのかわりに『江古田文学』があったのである」と。

 〈文芸科だけが居場所もない〉――他の学科がなんらかの施設を必要とするのに対し、文学はいわばペン一本あれば事足りる。が、とは言っても同じ授業料(具体的にはわからないが)を払って〈居場所〉がないのはどう考えても悔しい。創作意欲、発表意欲にあふれた学生なら自分たちの雑誌、それも単なる学内誌にとどまらず、市販して広く世に問おうと欲するのは当然である。和田明のような学生が中心となって大学側にも働きかけて第一次「江古田文学」は創刊になったのだろう。小沢たちが卒業した後は助手の赤塚行雄が編集を担当したということであるから、以後39・40号で休刊するまで編集・経理主体は全面的に学科側が担ったことになる。

 ちなみに31号(昭和34年7月)の編集後記に「◎今月号より実習として四年生が編集に当ることとなった。江古田文学は文芸学科全学生のための実習雑誌であることを改めて明記して置く。従って作品の投稿は勿論、卒業するまでに文芸学科学生は、一度はこの編集にタッチする機会があるわけである。これを機会に江古田文学に対する関心が更に一層高まればと思っている」とある。

 最後に編集人らしき〈鹿児島浩人〉と署名があるが、この人が学生なのかどうかはわからない。しかし彼がここで「江古田文学」を〈文芸学科全学生のための実習誌〉と敢えて記していることは、「江古田文学」の編集・運営にあたっての学生側と学科側との間に何らかの齟齬が生じていたことも推察できる。31号から八、九号を出しただけで第一次「江古田文学」が休眠せざるを得なかった大きな理由の一つに編集・運営権をめぐるのっぴきならない葛藤が両者の間にくすぶっていた可能性もある。

 38号から半年ぶりに刊行された39・40合併号の「江古田文学」(昭和36年11月)の執筆陣は主任教授の神保光太郎をはじめとして三浦朱門、進藤純孝、瀬沼茂樹赤塚行雄など大学側の教師たちによって占められ、また次号からは進藤純孝が編集を担当することが予告された。こういった大学側の教師主導の布陣に、それまで「江古田文学」に深く関わってきた学生たち、つまり「江古田文学」を〈文芸学科全学生のための実習誌〉として再確認していた学生たちの不満が爆発して、二十年の休眠を強いられたのかもしれない。

 ざっと第一次「江古田文学」の歴史をたどってみても、文芸学科に入ってきた創作意欲にあふれた学生たちの「江古田文学」に対する思い入れは生々しく伝わってくる。次期編集長を予告された進藤純孝は、実にそれから二十年も経った昭和56年11月に発行人として「江古田文学」の復刊を果たすことになる。

助手として大学に残った此経啓助は不在の「江古田文学」に投稿し続けた〈白井勇亀〉の詩作品の束を保存し、それをわたしに託してインドへと旅立っていった。

〈白井勇亀〉が何者なのかさっぱり分からなかったが、彼はその後も「江古田文学」に投稿し続けてきた。わたしは編集長最後の号で〈白井勇亀〉の作品一篇を掲載することに決めていた。不在の「江古田文学」に投稿し続けたこの人の〈執念〉に畏怖の念さえ覚えていたからである。

 先日(平成31年のある日)、三浦朱門赤塚行雄著『さらば日本大学』(昭和44年8月)を読んでいると、「旗を見上げて泣いた中退者(赤塚)」の中に次のような文章があった。

 占拠された校舎の中には、実際に在校生だけでなく中退者や卒業生が何人かまざっていた。就職事務再開の申し入れのために入って行った時に、私が教室をのぞくと、白井君がソファーに坐っており、私の方をみて、ちょっとてれた様にニヤッと笑った。   白井君は、京都の詩人、白井喜之助の息子で、写真学科を二、三年前に卒業していた。在校中、ドイツ語を教えたことがあるのだが、いつも後の方にすわっていて、あまり熱心ではなかったが、学部祭などになると前衛的な企画を立てるので、ちょっと面白い奴だなと思っていた。  

 私は授業の後で、この男と一度だけしゃべったことがあるのだが、父親の話をすると、どういうわけだかてれて、黙ってしまう。もしかしたら、父親の血筋を引いて詩も書いているかも知れないと思ったのだが、「えゝ、まあ……」といって下をむいてしまった。

  おそらく、白井君がつくったものだったと思うのだが、何年か前の学部祭のパンフレットはケッサクだった。黒地の上に銀色で、日大芸術学部祭と浮きでており、表紙いっぱいに、大きな卵型の柔軟な物体が、一種独特なエネルギーをはらんで写し出されている。

 「どうですか、これ、赤塚先生。」

 「おう、ちょっといいね。」

  学生課職員の中川君は、エヘヘと笑い、

 「先生よくみてくださいよ。」

  という。一種独特なエネルギーをふくんだ、大きな卵型の物体というのは、実はよくみると、男根、亀頭なのだ。

  学生課では、早速、刷り上がったパンフレットを全部、回収してしまったらしいのだが、――これが彼らのいう出版の自由への弾圧になるのだろう――ちょっとおしいような気がしたものであった。(129~130)

 

 読んでいて、ごく自然に詩人・白井喜之助の息子で、写真学科卒の〈白井君〉が、謎の詩の投稿者〈白井勇亀〉と結びついた。わたしが彼の寄稿の束を預かってから、実に四十四年の歳月が経っている。

 わたしは本誌28号の編集後記で復刊「江古田文学」8号から27号までの特集を振り返り「ドストエフスキー宮沢賢治といったすでに評価の定まった文学者ばかりではなく、山本陽子、清水義介といった日芸出身者、大川宣純といった無名の詩人の掘り起こしに力をいれてきたことがはっきりする。わたしは編集をしながら、時折『江古田文学』は彷徨える文学の魂の憑坐(よりまし)になっているのではないかと思ったこともある」と書いた。

 謎の寄稿者〈白井勇亀〉の封筒の裏にはいつも〇〇病院と記されていた。精神の危機の中で書かれた詩の数々は不在の「江古田文学」に送られ続け、そして遂に本誌でその一篇が日の目を見たことになった。以降、投稿はぴったりと止んだ。

   次になぜ「日本大学芸術学部文芸学科卒業制作」を特集にしたかを説明しよう。復刊創刊号の表2に「近来卒業論文、卒業制作のなかにはかなり出来のいい作品がみられるようになった。これを卒業のための評価対象として終わらせてしまうのはまことに残念で、それらの作品に発表の場を与えて、広く文芸界にその評価を問う機会をもたらすことは、当然学科に課せられた責務の一つであろう。しかも卒業生のなかには、詩文の創作を営みながらもマスコミに乗れず、折角の才能を埋もらせている人も少しとしない。こうした人達に時流に左右されぬ発表の舞台を確保し、彼らの芸文を育成してゆくこともまた学科の忘れてはならない責務であろう」(「江古田文学」編集部)と書かれている。

 当初、第二次「江古田文学」は文芸学科の学生および卒業生の作品発表の舞台として復刊された。これが「江古田文学」の核である。この出発点を改めて文芸学科の学生にしっかりと認識してもらいたいということで卒業制作を特集したのである。なお、大学・学部・学科の表記にあたって、わたしは一字も省略しなかった。

 本28号をもってわたしは編集担当を降り、29号からは助手の上田薫にバトンタッチした。今年で100号を迎えるにあたって、上田は今は文芸学科主任となり江古田文学会会長の任にある。わたしは一執筆者として「江古田文学」に参加し続けようと思っている。わたしにとって江古田は〈江古田ケ原戦場〉であり、煩悶し求道し創造する〈日芸魂の聖地〉でる。「江古田文学」は〈わが闘争の舞台〉であり、〈わが魂の故郷〉である。(文中、敬称は略させていただいた)。  二〇一九年二月十三日。

清水正  情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載10)

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情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載10)

──または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様──

 清水正

 

 

 27号(平成7年2月)は特集「つげ義春山本陽子」。

つげ義春清水正企画、山本陽子は中村文昭企画である。他に小特集として「椎名麟三」を組んだ。

 「特集1 つげ義春」は「学生が読むつげ義春」のレポート26篇と近藤承神子「つげ義春全集「七つの大罪」」、赤見宙三「映画『ゲンセンカン主人』について」、小柳安夫「受け渡されたサングラス――謎とき『海辺の叙景』」、清水正つげ義春・『やもり』を読む」を掲載。

 「特集2 山本陽子」は坂井信夫・講演「文芸同人誌とその時代――1960~90年代――」、萩野豊「詩が生れるところ」、窪田尚「ひそみ、そのひそみ」、クリハラナミ「「あかり あかり」と、」、坂井信夫&中村文昭・対談「山本陽子と『あぽりあ』――詩人山本陽子のポエジーの場所をめぐって」を掲載。

 小特集「椎名麟三」は横尾和博「地下室での酒宴――椎名麟三ドストエーフスキイ」、下原敏彦「椎名麟三と蝦名熊夫――椎名麟三の謎をめぐって」、中山みづ江「椎名麟三と『悪霊』」を掲載。

 特集以外の評論は堤玲子「尾崎放哉、薄暮の句碑」、松本顕英「荒野のヴィジョネイル――ビートの周辺宇宙にみる芸術的衝動のヒミツ」、池田博「ダニエル・ダリュウを知ってますね」、柳澤睦郎「円窓五百噺と古文教室」、上田薫「落語の落ち」、中村文昭「無感動の書(Ⅱ)銀河鉄道の夜とともに」などを掲載。

 次に編集後記を引用する。

 《■つげ義春氏の漫画をはじめて読んだのは青林堂刊の「つげ義春作品集」(一九六九年四月)によってである。この本はつげ氏のサイン入りで、愛好家にとっては垂涎ものであるかもしれない。この本をわたしは貸本屋時代からのつげ漫画の大ファンである近藤承神子さんからいただいた。今から二十五、六年も前の話である。

■近藤さんとの出会いは〈ドストエフスキー〉を介してであったが、わたしと〈つげ義春〉との出会いは紛うかたなく近藤さんを介してであった。当時わたしはまだ二十歳を過ぎたばかりの学生で、約十歳年長の近藤さんは兄貴分よろしく、いろいろな愛読書を紹介してくれた。作家では坂口安吾、評論家では秋山駿、そして漫画家では滝田ゆう、それに大友克洋もデビュー当時から注目していていち早く紹介してくれたことを鮮明に記憶している。

■近藤さんの紹介の仕方は、四の五と言葉で説明するのではなく、現品支給方式である。批評や感想で読ませるのではなく、とにかく作品を手渡して、本人はただニコニコ笑っている。しかも、その手渡し方に少しの押しつけがましさもないので、気がついたら、その本がまるで自分が購入したかのように書棚におさまっている。

■いわばわたしは、近藤さんの現品支給という〈戦略〉によってつげ義春の〈ファン〉になった一人である。わたしは〈ファン〉というのは、〈研究者〉や〈評論家〉とはちがうから、その対象を批評するなどという、ある意味ではおこがましい行為をしないですむ、それはそれでなかなか快適な読者のあり方のひとつだなと思っていた。「古本と少女」「ほんやら洞のべんさん」「紅い花」「海辺の叙景」……これらつげ氏の傑作をこの二十五、六年の間に、何度繰り返し読んだか知れないが、それでも、これらの作品を批評しようなどという気持ちは微塵も起きなかった。

■「江古田文学」二十二号でつげ義春特集を組んだときも、わたしは現代の二十歳前後の学生たちが、つげ漫画をどのように受け止めるか、その点に最大の関心と興味があり、わたし自身はいわば〈無・批評〉の快適な立場を保持していた。

■ところが、つげ特集号の刊行直後に、近藤さんから、わたしのつげ論がないことが残念であったという旨の葉書をいただいた。これはわたしには全く意想外のことであった。が、わたしはこの葉書を一契機にして、つげ漫画に対して一ファンの席から一批評家の席へと移行したのかもしれない。

■正直なところを言えば、「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」に対してはかねがね批評意識をくすぐられていたのも事実であるが、それでも実際に批評のペンをとる気にはなれないでいたのである。が、ある朝とつぜん、無性につげ論が書きたくなった。わたしは去年の前半六カ月を費やして一気に1200枚にのぼるつげ論を書き下ろすことになった。

■わたしは対象とした作品に対しては批評家を全うしたが、前に記した「古本と少女」以下の作品に対しては依然として沈黙を守った。つげ義春氏の全作品に対して批評家を全うするなどというヤボな真似はしたくないという思いと、〈無・批評〉で作品に接することの喜びを残しておきたかったのである。

■〈学生が読むつげ義春〉に関して。つげ特集第一弾の時は、わたしはいっさいつげ漫画に関する講義をせず、学生には参考資料として「ねじ式」と「ゲンセンカン主人」のコピーを渡しただけであったが、今回は「チーコ」「やもり」などに関して詳細な解析を試みた上でつげ論を提出してもらうことにした。》

《■本号は、当初「つげ義春椎名麟三」特集を予定していたが、中村文昭氏の企画による〈山本陽子特集〉が大きくふくらんできたので急遽予定を変更して「つげ義春山本陽子」特集とした。山本陽子に関しては、八号、十四号に続く第三弾の特集になる。■本誌はこれからも、時代の表層的思潮に関係なく、根本的に問題とすべき作品に執拗にこだわっていくつもりである。

■最後にひとこと。地震が起きるたびに、なしくずし的に報道番組にさしかえられる。テレビ番組の制作者たちは、自分の“作品”をどのように思っているのでしょうか。緊急事態発生の折りには、いつでもさしかえてください、というのはオソルベキ寛容さである……。そのうち「〇〇文学」を購入して中身を見たら、すべて〇〇報道記事にさしかえられていた、などという事態にならないともかぎらない。(一九九五年一月二十五日)》

清水正  情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載9)

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──または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様──

 清水正

 

 

26号(平成6年10月)は清水正企画で特集1『海辺の光景』、特集2「宮沢賢治」を組んだ

安岡章太郎特集ではなく、彼の一作品「海辺の光景」特集としたのは、この作品を近現代日本文学史上稀なる傑作と評価したからである。構成は学生のレポートと依頼原稿からなる。吉崎透、宇尾房子、元橋一郎、吉澤昌、村上玄一、横尾和博、下原敏彦、赤見宙三、米津之彦の『海辺の光景』論を掲載した。

特集2「宮沢賢治」は中村文昭「無感動の書(Ⅰ)銀河鉄道の夜とともに」、清水正宮沢賢治・童話のエロス――『どんぐりと山猫』をめぐって」、赤田秀子「「函館港春夜光景」考――ワッサーマン幻想――」、平澤信一「「オツベルと象」あるいは二重身のモダニティ」、森下圭子「海を渡った賢治の子ども――賢治とラムステットの出会い」などを掲載。

 評論は柳澤睦郎「笑いのパターン」、上田薫「アランと『エチカ』」、堤玲子「萩原朔太郎“月に吠える”」を掲載。

 編集後記は落語に関して触れている。次に引用する。

 《■「さんざ浮世の苦労をなめつくし、すいも甘いも知りぬいた人間が聞くべきものなんです。それが落語というものなんですよ。」「噺てえものは、親の財産なんぞをたんまりもらって、ボーッとなんとなく育ってきたような人が聞いても、ほんとうの落語の面白好味というが、それがわかるもんじゃないんですよ。その意味からいえば、ほんのある一部の人が聞いて喜ぶべきものなんですね。世の中のウラのウラをえぐっていく芸なんですから……。」ここに引用したのは『なめくじ艦隊』(ちくま文庫)に出てくる古今亭志ん生師の言葉である。これを読んで、わたしはすっかり志ん生師のファンになってしまった。

志ん生師の噺を聴いてファンになった人は多いであろうが、わたしはこの「志ん生半生記」にまいってしまった。さっそく本屋へ出かけて行って「お直し」のテープを買い、ウォークマンのカセットで聴くことにした。面白いの何のって、歩きながら笑いがこみあげてきて、おもわず吹き出してしまう。おかしな男が歩いているように想われるのもまずいので、ラーメン屋に入り、そこでゆっくり聴くことにした。ところが、そこでも笑いがこみあげてきて、何度も口を押さえてごまかさなければならなかった。

■今までテレビの演芸番組などで落語を聴いたことはあるが、寄席には一度も足を運んだことがない。そんな男が四十も半ばになって、志ん生師の本に出会い、師の落語を熱心に聴くようになった。》

 《■ところで、落語といえば、柳澤睦郎氏が第1部「落語とわたし」、第2部「創作落語」、第3部「表紙の破れた古いノート」の三部構成による『落語つれづれ草』(鳥影社)を七月に上梓された。第1部に収録された十篇のエッセイのうち八篇が本誌に連載されたものである。

■わたしは、氏のエッセイを生原稿と校正でも読んでいるが、今回一本にまとめられるにあたっては、またあらためてその全部を読む機会に恵まれた。氏のエッセイは肩に力が入っておらず、何回読んでも胃もたれすることがなく、読後さわやかな気分にひたれるのだが、本誌20号に発表された「好生鎮魂曲」だけは、それとは一味も二味もちがった重い印象を持った。氏の文章が重いわけではない。書かれた内容が重いのである。

■このエッセイは「若くして亡くなった三遊亭好生という落語家がおりました。名人円生の弟子で、語り口もよく似ていたので記憶に残っている方もおられると思います」ではじまり「ここに、彼の短い一生に、その一隅に通り合わせた一人として、思い出を書いて、好生の鎮魂曲といたします。行年45歳、合掌。」でおわる。師匠と弟子の人間関係、「好生聞こう会」の勉強会、真打ち昇進にからむ芸の評価問題、円生一門の落語協会脱退騒動、師匠と袂を分かち落語協会に残った好生、酩酊状態で著者に絶交を告げる好生、マンションから飛び降り自殺した好生……ここには一人の落語家の自死に至る壮絶な相克葛藤のドラマが淡々と語られている。

■柳澤氏のエッセイは何度読み返しても飽きることがなく、そのつど新鮮で衝撃的である。生の地獄を一度かいま見た者でなければ、生の重さを軽いタッチで描き出すことはできない。柳澤氏のいつもやさしく微笑しているその眼の奥には、おそろしいほど研すまされた批評の刃が隠されている。若くして逝った好生の、芸と格闘し、人間の関係に苦悶したその半生が、柳澤氏のペンによって鮮烈に浮彫りにされたことを、わたしは深く静かにかみしめたいと思っている。》

 《■志ん生師は先の著書で、円朝師匠が弟子たちに言って聞かせていた「恩を仇で返すということがあるけれども、この商売では逆に、仇を恩で返さなくちゃならない。仇をうけた人間に恩で返すんだ」という話を紹介し、その1頁後で「だから、この世界で生きぬくためには、一にも二にも辛抱ですナ。そして自分の腕をみがくこと、これ以外はないんです。上の者だって、みんなそうしてやって来たんだから、自分もそうしなればならないという堅い信念でもって、辛いことにも堪えしのんでゆく、それが一つの勉強になるわけですよ」と語っている。一つのことを極めた人の話は、ずしんと胸にひびいてくる。

志ん生師は落語の名人、柳澤氏は落語鑑賞の達人である。ヤボを承知の上で、粋人お二人の著書をあらためてお薦めしたいと思う。(一九九四年九月十三日)》  

第二回・日藝文士會

 

近況報告

4月16日は「同心房」で第二回・日藝文士會。ワイワイガヤガヤで楽しく激しく。

この會でさまざまな企画が実現化に向かうことになる。2021年はドストエフスキー生誕200年、わが日本大学芸術学部創設100周年を迎える。わたしは松原寛とドストエフスキーの著作刊行を考えている。

 

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「同心房」で第二回・日藝文士會

 

 

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帰りの電車の中で

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 清水正

 

 

 25号(平成6年3月)は清水正・村上玄一・万波鮎の企画で特集「寺山修司」を組んだ。

 特集はわたしの教室からのレポート「学生が読む寺山修司」と依頼原稿から成る。主な寺山修司論を紹介する。安倍寧「寺山修司の疼きとつぶやき」、森山崇「あなたも寺山修司になれる」、長峯英子「寺山修司・最後のパリ公演」、小川太郎「寺山修司、虚構の影」、浅沼璞「嘘みたいな本当の話――短詩型〈寺山節〉考――」、須藤甚一郎寺山修司と路地」、横尾和博「「過ぎさったことは全部、虚構」か――寺山修司とその時代――」、下原敏彦「書を拾い 家へ戻ろう」、吉澤昌「寺山修司の肉声」、赤見宙三「寺山修司をめぐって」、古賀ミサ子「ロマンティックな武骨者――寺山修司賛歌なんだぞこれは一応――」、清水正赤ずきんちゃんは狼だった――寺山修司著『ぼくが狼だった頃』に寄せて――』、前田慎一郎「寺山、おまえに何がわかる」。

 創作は村上玄一「子供のいないお父さんが書いた夜の童話」。

 評論は堤玲子「太宰治(生まれてすみません)」、上田薫「アランの感情論」。

 詩は窪田尚「クリプトン、揺れ」、猪瀬明惠「咲散」、中村文昭「オルフェの告白」など。

 編集後記には寺山修司を特集した意図も経緯も何も記されていない。が、わたしにとっては忘れられない、感慨深い出会いが書かれている。その箇所だけを引用する。  《■一月二六日。池袋駅改札口を出て西武線へ向かう途中とつぜん後ろから肩をたたかれる。ふり返ると、そこに懐かしい顔があった。一九七五年に創刊し、四年後、七号をもって終刊にした同人誌「ドストエフスキー狂想曲」の元同人N君である。彼とは六年前に会ったきりで、その後、まったく音信不通であった。尤も、二、三年前にテレビでインタビューを受けていたのをぐうぜん眼にしたことがある。彼は大手学習塾の教務部長をつとめているのである。この日はN君と会うために池袋へ出かけて来たような気持になったので、近くの喫茶店に入り、一時間ばかり話をした。

■当時の同人たちはわたしを除いてすべて文芸学科の在学生であったが、卒業すると同時に〈書く〉方も卒業してしまったのか、それ以来、彼らが書き続けているという気配はない。学生時代に出会ったはずの〈文学〉は、今、彼らのうちでどのようにとらえられているのであろうか。当時学生だった同人たちも今年で四三才を筆頭に下も三八才となる。

■「鰹節と文学はかかなきゃ話にならない」「芸術家や文学者には死ぬまで引退はない」「書くという行為は、どこまでいっても孤独な作業である。だが決して孤立することではない」「書くとは、書き続けることだ。持続に堪える者こそ、よく生きたということである」「出会いとは生死を賭けた格闘である」「ひとの荷を持つ前に自分の荷をこそしっかりと持ち続けなければいけない」……覚えているだろうか。有言実行あるのみ。(一九九四年二月十二日)》。

 

 ドストエフスキー狂想曲」同人だった浜田章、小島良隆、灘玄界、南保雅紀、新岡昭彦――彼ら同人は二十代後半のわたしの渦巻くディオニュソス的狂想の世界に各の青春を駆け抜けた。生きていれば全員還暦を過ぎている。恐るべし、時の流れ。 

荒岡さんを我孫子の名戸ヶ谷病院に見舞う。&「日野日出志全仕事」の件

4月15日は午後三時過ぎ、一か月前にとつぜん脳溢血で倒れ治療中の荒岡さんを我孫子の名戸ヶ谷病院に見舞う。意識はしっかりしているようなので一安心した。元気になったらまた一緒に仕事をしたいものだ。彼はまだマンガ評論家としてすべきことは多い。病室は五階にあり、手賀沼が眼下にひろがる。眺めは絶景である。人生には休息期間も必要だ。あせらずゆっくりと治療に専念してもらいたい。

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荒岡保志さんと

 

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名戸ヶ谷病院五階から見る手賀沼

 

 

 

近況報告

4月13日は日野日出志全仕事」の件でオカルト研究家の寺井さんと玄光社の岡堀さんが我孫子まで来られた。イトーヨーカドー内のレストランで四時から取材を受ける。一時間半ほど「蔵六の奇病」について語る。八月には玄光社から刊行される予定だという。

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寺井広樹さん(左)と岡堀浩太さん

清水正  情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載7)

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載7)

──または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様──

 清水正

 23号(平成5年1月)は特集「宮沢賢治

18号、21号に続く宮沢賢治特集第三弾。中村文昭の教室(「文芸研究」「文芸特殊研究Ⅰ」「日本文芸史Ⅱ」)とわたしの教室(「雑誌研究」「文芸特殊講義Ⅲ」)から受講生のレポートを中心に編集した。また宮沢賢治研究会の宮澤哲夫、赤田秀子の協力を得た。主な評論を紹介しておく。宮澤哲夫「まつくらくらの二里の洞」、田口昭典「宮沢賢治作品に見る心霊現象について」、赤田秀子「そのネーミングの魅力」、清水正「続・宮沢賢治を解く――『オツベルと象』の謎――」、中村文昭「カラマーゾフの沈黙(連載3)」、浅沼璞「芭蕉土方巽――『間腐れ』考――」、木下豊房「「天国の彼方」への旅」など。創作は堤玲子「電車」。

 

 24号(平成5年8月)は特集「三島由紀夫&舞踏」

 編集後記から引用する。

 《■二〇年前、わたしが大学を卒業してすぐに文芸学科に残った頃のふた昔前の話である。学科事務室に神尾佳代子さんという美術学科を卒業された方が勤めておられた。ある日のこと、前日のテレビで放映されたモジリアニをモデルにした『モンパルナスの灯』が話題にのぼった。神尾さんのご主人は毛布を頭からすっぽりかぶって、わずかばかりの隙間からだまって観ていたとのことであった。その時わたしは神尾さんのご主人に興味を抱いた。機会があれば一度ぜひお目にかかりたいと思った。しばらくしてわたしはその機会を得た。

■神尾宅におじゃましてわたしは初めてご主人と会うことになった。彼は描きかけの静物画のキャンバスを背に座っていた。彼は初対面のわたしに向かっていきなり「あなたは何をしている方ですか」と静かではあったが鋭く問うてきた。わたしは彼以外にこのように問われたことはそれまで一度もなかった。そこでわたしもいきなり、彼の描きかけの絵を批評した。

■彼は“存在そのもの”を描こうとしていた。“ある”ということ、“ある”という決して眼には見えないものをはっきりとキャンバス上に描きだそうと苦闘している姿がそこにあった。そこには一片のてらいも気取りもなかった。

■何時間が過ぎたただろうか。彼はおもむろに立ち上がると「自分の絵をすべてみてくれ」といって、隣の部屋に入っていった。最終電車まで二〇分あるかないかの短時間のうちに、彼はそのとき所有していたすべての絵をわたしの眼前に運んだ。その運びかたは狂気じみていたが、運ぶ方も見る方も大正気であった。彼が静物画にたどり着くまでの痛々しいほどの精神の軌跡がそこには刻まれていた。

■わたしと彼との付き合いはこうして始まった。とはいっても、この二〇年間のうちに会って話をしたのは三回きりである。二度目は彼が四年間滞在していたローマから一時帰国して、銀座の現代画廊で個展を開いた一九八七年、そして三回目が今年の五月十七日である。池袋の芳林堂書店前で待ち合わせたのだが何しろ六年ぶりのこと顔が分かるか少し心配などしたのだが、それはとんでもない杞憂であった。芳林堂書店の中から二〇分近くも遅れてあらわれた“輝いている”ひとが彼であった。自分の仕事をきちんとしつづけているひとがこんなにも輝いているのかと、わたしは改めて思った。

■六年前の個展で、彼の絵は“存在”がやさしく動きだした、“ある”という“有”がかすかに戯れの場へとうごめきはじめていた。彼の絵は根源の場を微動だにしないが、不断に変容し続けている。彼はいつもキャンバスに向かって闘い続けている画家である。

■今度彼に見せてもらった絵には、“革命”が起きていた。彼の絵は“存在”から“時間”へと飛躍していた。これは、六年前の“存在”が動き出して“時間”にたどり着いたのではない。おそらく彼のうちで何か途方もないことが起こったのだ。“時間”をキャンバス上に描き出すということは、描く対象に包まれかえされること、対象とともに生きることである。彼は今、ローマで“時”とひそやかな関係をとりむすんでいる。それは壮絶な孤独との闘いでもあるが、同時に彼はその至福の時をだれよりも享受していることもたしかである。

■彼の名は神尾和由。氏の快諾を得て本号より「江古田文学」の表紙を飾れることになった。光栄である。文学もまた、それにかかわるひとりひとりが壮絶なる内なる闘いを続けるほかはない。

■「不射の射」は「射の射」をきわめた者の境位。「不射」は「不射の射」をきわめた者のさらなる境位。画家は描き続け、作家は書き続ける現場を一歩も退くことは許されない。安易に悟って楽に座る事を自らきびしく戒めなければならない。(一九九三年・七・二六)》

 

 主な三島由紀夫に関する評論を紹介する。  佐野耕太郎「三島由紀夫と現在」、立野みゆき「いま、三島と太宰の「死」に学ぶこと」、下原敏彦「十五歳の扉――三島由紀夫尾崎豊の距離――」、平澤信一「「花ざかりの森」から――三島由紀夫試論――」、元橋一郎「三島仮面の肩章」など。

 舞踏特集に関しては中村文昭が「一教室からの報告F 現代学生が観た舞踏へのコトバ」として多くの学生のレポートを取り上げている。項目は「武内靖彦の舞踏」「大森政秀舞踏儀を見て」「大野一雄慶人舞踏公演」「和栗由紀夫の「日月譚」」「上杉貢代の舞踏」「遠藤寿彦の舞踏」「勝又敬子の舞踏」。

 評論は清水正「賢治童話『やまなし』をめぐって――死と復活の秘儀――」、堤玲子「中原中也(汚れちまった哀しみに)」、上田薫「アランの思想――思索・絵画・詩について――」など。  創作は村上玄一「生き方の練習」、市川奈子「目には目を」。