李恩珠 『宮崎駿を読む』から『ウラ読みドストエフスキー』まで

 

ドストエフスキー曼陀羅」特別号に掲載されたものから紹介します。

今回は李恩珠さん。韓国からの留学生で、わたしの講座「雑誌研究」を聴講生として受講。ドストエフスキー文学に深い関心を寄せていた。一年後、文芸学科に入学。三年、四年時にわたしのゼミ生となった。韓国に帰国後、精力的に日本文学を紹介。

わたしの著書『宮崎駿を読む』(鳥影社)『ウラ読みドストエフスキー』(清流出版)を韓国語訳している

 

宮崎駿を読む』から『ウラ読みドストエフスキー』まで
李恩珠

 

日本に留学しに来た秋はずっと雨でした。日本大学芸術学 部に通っていた先輩から「一九九二年度の開講科目概要」を もらった時をよく覚えています。科目概要をよく読んだ私は まず魅力的な科目にまるをつけていきました。文芸批評論、 雑誌研究、文芸特殊講義などなど。
 
文芸批評論の科目概要にはこういうふうに書かれておりま す。「ドストエフスキーの全作品を対象に、伝記的批評、病 跡学的批評、作品の叙述構造を解明する批評を展開する。対 象を様々な角度から照明をあてることによって、批評の可能 性を探るとともに、批評家の主体性についても考えていきた い。」
 
雑誌研究ではもっと魅力的なことが書いてありました。 「雑誌研究者としての眼を養うために文学・哲学・宗教・現代の様々な事象をそのつどとりあげ、皆で討論しながら授業 を進めて行く。本をたくさん読み、またレポートも多く提出 してもらうので、受講者はそのつもりでのぞむように。」
 
雑誌研究はかっこいいと私は思いました。赤いペンで〝本 をたくさん読み、またレポートも多く提出してもらうので、 受講者はそのつもりでのぞむように〟まで線を引いておきま した。それが清水先生との長い縁になるとはその時はまだわ かっていませんでした。
 
東京の秋は綺麗でした。活字中毒である私は母国語で本が 読みたくて仕方がありませんでしたが、その秋には本を一冊 も読むことができませんでした。まず日本語を身につけなく ては、それまでは読むまい、と心を決めたからです。

日本に来て六ヶ月後、私は日本大学芸術学部の聴講生とな り一年間を過ごし、四年後には無事に韓国へ帰ることができ ました。
 
帰国後、出版社の編集部で本を作りながら私は自分にある ことを課しました。翻訳家になろう。しかも人脈中心になる 出版業界で自分の能力だけで仕事を見つけよう。この決心が 自らの生活をどんなに厳しくするかなど、その時の私には知 りようもありませんでした。
 
私の机には今『宮崎駿を読む』と『ウラ読みドストエフス キー』の韓国語版がおいてあります。それぞれの刊行日を確 認すると二〇〇四年に『宮崎駿を読む』が、二〇〇一年に 『ウラ読みドストエフスキー』が韓国の読者に届いたという ことがわかります。二冊とも出版社に勤めながら、そして子 供たちに日本語を教えながら訳したものでした。
 『宮崎駿を読む』を出した出版社は清水先生の『ほんとう は知りたくなかったグリム童話』の韓国語版を出版し、評判 になったところでした(残念ながらその本はほかの訳者さん が訳されました)。
 
そして『ウラ読みドストエフスキー』はドストエフスキー 全集を出している海外書籍専門の出版社であるヨルリン・ チェッドゥル(オープン・ブックスという意味)から出版さ れました。『ウラ読みドストエフスキー』の出版が決まった
日は本当にうれしかったです。自分の力で翻訳家になり、自 分が感動した本を韓国の読者に紹介できる。私は自分との約 束を守ったのです。『ウラ読みドストエフスキー』は約三年 間をかけて訳した、私にとってとても意味のある本です(翻 訳に戸惑い前に進まなくなるといつも応援してくれた、窪田 尚さんと山下聖美さんにも感謝します)。翻訳家にとって、 出版社から頼まれた仕事ではなく自分が訳したい本を訳すと いうのは孤独なことです。いつ出版されるのかもわからない まま、ただ毎日翻訳に向き合うしかありません。振り返る と、その時の自分は宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』の世 界に住んでいたのかもしれない、と思います。貧しい生活で したが、仕事から帰ってくると毎日、私は机に向かって清水 先生が書いた文章をハングルに変えていきました。そして、 そのうちにセロひきのゴーシュになったように感じていたの でした。
 
日芸で私は多くのことを学びましたが、一番大切なことは 毎日のように文章を書く習慣だと思います。ある年は清水先 生の講義ばかり受講していたために、前期、後期テストの時 には合わせて二万字近くを書かなければなりませんでした。 今思えば笑いが出ますけれども、その時はもう死ぬかと思い ました。
 
最後に『宮崎駿を読む』の韓国語版に書いた私の文章を紹介しておきたいと思います。
 
十年前、前期の最後の授業である「雑誌研究」では独特 な課題が出された。『となりのトトロ』を見て批評をして みよう、というものだ。学生たちは自分だけの鋭い見解で 作品の解剖に取りかかった。授業の終りを教えるチャイム が鳴り騒々しく荷物を取りまとめる学生たちに清水先生は こうおっしゃった。〝批評をする前にまずその作品に感動 しなくてはいけない〟と。その最後の言葉があまりにも印 象深くて胸に残った。
 
今回翻訳した『宮崎駿を読む』は十年前に聞いた清水先 生の講義を受講しているかのような感覚を抱かせてくれ た。翻訳作業に入る前、宮崎の作品をもう一度観てみた。 あたかも自分が批評家になった気持で作品の象徴と意味を 解釈してみた。限りない好奇心と多様な視点で作品を見る ことも大切だが、批判のための批評、否定のための批評を しないように客観視することは思ったより難しかった。
 
私は先生に出会い、ドストエフスキーの世界に導かれまし た。東京の貧しい留学生であった私はソウルからの仕送りを 待ちながら、古いアパートから学校へ、学校からアルバイト 先へと通いながら挫折ばかりしていました。そんな当時は、 『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフと自分自身を同一視するしかできませんでした。『ウラ読みドストエフス キー』を翻訳することで、私はやっとドストエフスキー小説 の人物から逃れることができたのです。その点においても、 翻訳してよかったと思います。私はこの夏、短編小説を二つ 書き、エッセイも一七五枚を書き上げました。〝文章を毎日 のように書くこと〟清水先生から学んだことです。これから も清水先生から学んだことを大切にして生きていこうと思い ます。

 
二〇一八年八月二十四日
イ・ウンジュ 韓国在住日本文学翻訳家

 

 

船木 拓馬  「ドストエフスキー曼陀羅」展示会の感想

ドストエフスキー曼陀羅」展示会の感想を紹介します。

 

「ネジ式螺旋」の只なかで

  船木 拓馬

 

                               

 展示に入ると、突当たりの壁に沿ってドストエフスキーの著作が並べられている。ふりかえって反対側の壁には、それに対抗するかのようにずらっと清水正の著作が陣をつくって待構えている。


 私の住むアパートの押入れは現在刊行されている先生の『ドストエフスキー論全集』全10巻に占領されている。いまは第6巻『悪霊の世界』と格闘していて、残すところあと第7巻の『「オイディプス王」と「罪と罰」』、今年の秋刊行された第9巻『ドストエフスキー体験記述』を読めば、とりあえずは一周したことになる。


 この全集だけでも、いったいどれだけ書いたのだ、おそるべしと云いたくなる(そのうえどれもすさまじい内容だ。)単行本も目録などで見るかぎり、相当なものだろうと想定していたのだが、じっさいに今回のような展示でゲンブツを並べられてみると、私の予想などまるで歯が立たない、それが圧倒的の著作の数であることが分かった(これでもすべてではないらしい。)


 手にとってみる、装丁も美しい、量だけではない、一冊一冊にずっしりとした質感がある(もちろん物理的の重さではない。)先生は大学構内をのぞいて、電車の中、喫茶店、居酒屋とポメラを持ち運びどこでも書くのだという。書いたらすぐ本にする。読む、書く、刊行する、そのくりかえしだ。その50年がいま眼のまえに並んでいる。


 この著作群が清水正批評のパノラマ風景画だとすれば、つぎに私は、それに対するかのような一個の静物画と対峙することになる。私の眼にファン・ゴッホの「古靴」のように映ったそれは、清水正の読んだ『罪と罰』(米川正夫訳)の原本である。


 ちょうどドストエフスキー清水正それぞれの著作群によって挟まれた展示の位置にふさわしく、この原本はまさに両者の戦いの舞台である。見開きページは、ドストエフスキーの活字と、清水正の書込みに埋めつくされている。まるでドストエフスキー清水正の共演する一個の劇を見せられているかのようだ。ドストエフスキー不動の活字テクストにたいし、清水正は、傍線、欄外への書込み、大量の付箋・インデックスとさまざまな揺さぶりをかける。インデックスは、物語の日付・色・動物などの見出しが書かれ、ページの辺をなくさんばかりに貼られている。


 ここでは50年にわたる清水正ドストエフスキー批評の爪痕が、時間軸の取払われた同一平面上に息づいて見える。たとえば二十代の傍線、三十代の書込み、四十代のインデックスと云ったように、四次元批評が二次元に圧縮されている。先生の「ネジ式螺旋」批評を、上から垂直軸をなくして見てみると、まるでとぐろをまくウロボロスのように見える。清水正の「テクストの解体と再構築」によって死と復活の秘儀をくりかえすこの本は、まるでいまにも動きだしそうなくらいだ。先生は、十九世紀末に書かれた小説に、いまだに息を吹き込み続けている。


 なによりこの原本から伝わってくるのは、異様な魅力を放つ登場人物たちに相たいしながらも、批評家清水正の視線の先にはつねに小説を書いているドストエフスキーの姿があるということだ。先生が授業で云っていた言葉を思いだす「私の批評は、斧を振り上げた青年の腕をとって老女を殺させない、何かに取り憑かれたかのようにペンを走らせる作家の手にそっと触れ、その先を書かせない。」


 展示されている先生の著作なり、テクスト原本をみれば分かる、清水正はけっしてドストエフスキーに呑まれない。この人ほどドストエフスキーにのめり込んでいる人は見当たらないが、この人ほど冷静に作品や作家を見ている人も私はかつて見たことがない。先生はこうも云っていた「私の批評は、ドストエフスキーを訪ねるのではない、自分のところに招きいれるのだ。そうでなければ、呑み込まれてしまう。」


 なるほど、清水正の批評はときに、まるでドストエフスキーを現代に連れてきてまるで自分の家のソファで話をしているような語り口である。そこが居酒屋であったりもする。


 いま私は先生の「文芸批評論」という授業を受けている。受講している文芸学科の生徒で最後のひとりになってしまった。なんでみんな受けにこないのだろう。そう云う私も、先生の講義に出られる貴重な時間をムダにしないようにしなければならない。毎週、質問を考えようとするのだが、圧倒的な著作をまえに何を質問することがある、すべて書かれているではないか、と思ってしまう。それはドストエフスキーの著作をまえに沈黙するしかないのと似ている。


 しかし、それではいけないのだ。今回の展示を見ても分かるように、清水正ドストエフスキーをまえに沈黙することを知らない。それはおそらくすべてを語り尽くしたあとに訪れるのでろう(もし本当に語り尽くすことができるというのであれば。)
 私も、ボロボロになった本がひとりでにしゅるしゅると動きはじめるようになるまで、先生とドストエフスキーの著作に挑み続けなければならない。巨人たちの足元を這いずり回る犬のごとしである。
 

清水先生へ  宮藤あどね

本日23日は芸術資料館で午後三時より

第一部「清水正ドストエフスキー論執筆50周年 

清水正先生大勤労感謝祭」第一部「今振り返る、清水正先生の仕事」

四時二十分より

第二部「清水正先生による特別講演

「『罪と罰』再読」が行われた。

詳しいことは後日報告したい。

今回はわたしのゼミの学生で

現在、タレント、グラビアアイドル、女優、写真家 として活躍している宮藤あどねさんの文章を紹介したい。

本来、この文章は「ドストエフスキー曼陀羅」特別号に掲載

されるはずであったが、どういうわけかもれてしまったらしい。

 

清水先生へ

あの頃の私は尖って尖って誰に対してもチクチクして自分をも蝕むくらい尖ってとにかく痛い子でした。

ニチゲイと言う個性派集団の集まりに入学しても浮いていたそんな私にも居場所を与えて下さったのが清水先生でした。

清水先生は、どこにも行く宛のない異端児を目を掛け水をやり、叱咤激励し、たまに中華料理を振る舞い、紹興酒を飲みながら語りかけ、教養を叩き込んでくれました。大きな心で愛で包み込んでくれました。先生は故郷であり、私の人生の師でした。

今になって、教えてくれた言葉の意味。重さや意図をしみじみと思うのです。私は馬鹿野郎ですね。清水先生は、大学の宝だと思う。いや日本の宝です。引退と言う言葉を聞いて受け入れたくなかったし、自分の愚かさを知りました。先生、お願いだから教壇にそして壇に戻って来てください。そう言いたい。でも私が出来る事は貴方の意志を受け継ぎ、世の中に受け入れて貰う事。そしてこんな素敵な人が居たと語り継ぐ事。そしたら先生は壇上にいなくても生き続けます。

出来損ないの娘は、粗削りながら自分の才能に挑戦し、世の中に勝負しようと必死に向かいに行っています。どうかあの日水を与えて良かったと思って欲しいです。それだけです。
あどね

 

村岡玲菜 清水正とドストエフスキーの海に溺れて

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
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村岡玲菜
清水正ドストエフスキーの海に溺れて

 

 11月16日金曜日、日芸の芸術資料館にて、私は呆然とすることになる。それはドストエフスキー、あるいは当時のロシア、あるいは清水正先生の著作と対峙したからに他ならない。
 ドストエフスキーという人間を私は知らない。「罪と罰」という作品は読んだが、読んだらそれで著者のことがお見通しかというとそんなわけはない。一方、私は清水先生と会うことができる。話すこともできるし、授業を受けることが簡単にできる。だから勘違いしていたのだ。知っているつもりになっていた。先生の年表パネルの前に立ち尽くす。少し下に目を向ければ先生の著作がずらずらと並ぶ。その一冊一冊すべてに目を通すなんて、時間がいくらあっても足りない。圧倒的な知がそこにはあった。 

 私は先生の研究室に何度かお邪魔したことがあるのだが、その迫力とはまた違う。本棚に収まってしまったり、あるいはただ積まれているだけだと、中身に目を通すことはない。でも、それでも初めて入ったときは、研究室でさえ、本の迫力に押されたものだ。床が沈みそうなほど積まれた本たち。人一人がやっと通れるように、本たちが道を開けてくれている。寝ころげる広さのソファの周りにも本、本、本。

 江古田校舎に来て初めて先生を訪ねたときのことを思い出す。先生は治らない神経痛のため、ソファに寝た状態で私を迎えてくれた。大量の本に囲まれながら寝ている先生は、私が一年生のときにゼミで指導してくれた、パワフルで少し怖い姿とうまく重ならなくて、私は思わず切なくなって泣いてしまったのだった。あたかも、先生が病気で弱くなってしまったかのように感じていた。しかし授業を受けてみると全然弱くなんてなっておらず、むしろ療養中に溜め込んだものを一つ残らず、一人でも多くの人間に伝えていこうという思いがより強く感じられるようになった。私はいつしか、先生がまだ本当に若く、タフだった頃の本を読みたいと思うようになっていった。
 そしてそれらが先生の年表とともに眼前に広がった日、私は、ドストエフスキーとは先生の人生そのものなのだということを知る。本を開くとそこには熱く語られた先生のドストエフスキー論が展開されており、大量の文字が二段組、あるいは三段組で何十、何百と続いている。ものすごい量の知識と時間がつまっていることを感じながら、本を閉じ、また別の本を開く。まるで時代を移動して本に触れたような感覚になる。

 本の装丁、文字のフォント、表紙のザラザラした感触。先生はこういう本を作り、その時代のドストエフスキー研究家たちの手に渡り、そしてまた新たな議論が生まれていったのだろうと、少し当時の片鱗がのぞけたような気になった。嬉しくなり、また別の本を開く。時間を忘れて夢中になる。ふと周りを見ると、一人の女子学生がふらふらと所在なさげに歩いていた。その姿を見て、あの女子学生も私と同じように、ドストエフスキー清水正が作り出した海に潜っているのかと思ったら、仲間が一人、見つかった気がした。
 わかっている人はドストエフスキーと先生、どちらのパネルから見ても間違いじゃないことがわかっているのだが、わからない人は、順番に見たら追えるのか、そもそもどれが順番なのか、わからないのだ。答えなんてそこにはなくて、ドストエフスキーはのちに清水先生とつながることになるし、清水先生はドストエフスキーに通じている。先生がドストエフスキーを批評し続ける限り、ドストエフスキーは生き続ける。私は運命を感じたことがないのでわかったようなことを言うことしかできないが、先生はまさに運命によってドストエフスキーの批評をしているのだと思う。

 芸術資料館を巡って私が一番熱心に見入ったものは先生の読んだドストエフスキーの文庫本だ。線がたくさん引かれているし、かっこがつけられていたり、書き込みがあったり、まさしく「読まれた後」という感じのするそれらは、資料館のど真ん中、プラケースの中に大切そうに置かれている。誰が見てもボロボロだと言うに違いない。しかしその本たちは、すごく愛されていることがわかる。

 本をきれいに読むことにこだわる人間は多いし、実際、本をきれいに保ったまま読むことは誰でもできる。でも、私も本に線を引いたり、書き込んだりするようになってから気づいたのだが、本をボロボロになるまで読み込むことは、本をきれいに保ったまま読むことの何倍も難しいことだ。それこそ、朝、起きて本を読み、日中は肌身離さず読み続け、夜は読んだまま寝るという生活をしなければ、本というものはあんなにボロボロになったりしない。
 私は今、日芸に来て四年目になる。卒業の年だ。いま思えば、一年目の春、清水ゼミのゼミ生として先生に会わなければ小説「罪と罰」を読むことはなかったかもしれないし、この広い世界を少しでも現実的に、生々しく、くっきりと捉えようとはしなかっただろう。日芸に来て、清水先生と会えたことは一生の財産だ。先生には心の底から感謝してもしきれない。

 

 

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山崎行太郎 毒蛇山荘の一夜(連載2)

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ドストエフスキー曼陀羅」特別号に掲載の文章を紹介します。
毒蛇山荘の一夜(連載2)
山崎行太郎( 文芸評論家、日本大学芸術学部文芸学科講師)

 ところで、話を元に戻すと、清水教授は、ドストエフス キー研究家として、日本だけではなく、世界的にも、特筆す べき人物である。清水教授は、日大芸術学部の出身だが、東 大卒や東京外大卒のドストエフスキー研究家等を、たとえば江川卓亀山郁夫等を遥かに凌いでいる。江川卓亀山郁夫ドストエフスキー論は、私に言わせれば、解説や紹介のレ ベルを超えていない。逆に、清水教授には『ドストエフス キー論全集』一から十巻があるように、質においても量にお いても他の追随を許さない。

清水正ドストエフスキー研究 やドストエフスキー論には、「存在論」と「存在論的思考力」 がある。清水正ドストエフスキー論には、清水正の人生と 青春と生活の全てがそそぎこまれている。大袈裟に言うなら ば、血と汗と涙の記録。清水正ドストエフスキー論は、清 水正の「私小説」の様相を呈している。少なくとも、私に は、そう見える。だから、私が尊敬し、畏怖するドストエフ スキー研究家は、小林秀雄を除けば、清水教授だけである。 私は、凡庸な三流教授が、業績作りのために、あるいはマス コミの求めに応じた「やっつけ仕事」でしかないドストエフ スキー研究などに興味がない。問題は、ドストエフスキー研 究に命を懸けているのかどうかなのだ。

実は、私も、高校時 代からドストエフスキーを読みはじめた。そして、深く決定 的な影響を受けた。私の文学的=哲学的思考の原点には、大 江健三郎や小林秀雄とともにドストエフスキーがある。私 は、頻繁に「存在論」や「存在論的思考」という言葉を使う が、それは、小林秀雄ドストエフスキーから学んだもので ある。だから、私は、高校時代から、大学ではロシア語とロ シア文学を専攻しドストエフスキー研究者になろうと想っていた。受験のために上京すると、私は、早稲田大学理工学部 の学生だった兄の影響もあり、早大露文科も受験した。早稲 田大学以外に、「露文科」は存在しなかったからだ。私は、 語学専門の東京外大のロシア語学科は嫌いだった。だが、い ずれにしろ、直前に断念した。ドストエフスキーを読み続け ることに恐怖のようなものを感じはじめたからだ。

ドストエ フスキーの文学には「狂気のようなもの」、あるいは「魔的 なもの」があった。研究対象として客観的に読むのは大丈夫 かもしれないが、主体的に、本気でドストエフスキーを読み 続けるとなると、自分も狂いそうな予感がした。しかしなが ら、文学研究の対象としてドストエフスキーを客観的に読む ことには抵抗を感じた。もちろん、ドストエフスキー研究を 断念したとはいえ、ドストエフスキーから完全に逃げた訳で はない。私は、ドストエフスキー研究の道を断念し、より健 全な分野へ逃げようと思ったが、ドストエフスキーは常に 私の思考の原点にあり続けた。「ドストエフスキーとともに ある」という私の不遜な自信は、揺るいだことがない。

私 は、自分がダメになりそうな時には、小林秀雄やドストエフ スキーを読む。ドストエフスキーを読みはじめた高校時代の 読書体験に立ち戻る。その意味で、私は、挫折や失敗を繰り 返しても、私の思考や思想に自信を失ったことはない。私 は、ドストエフスキー読書体験から得たドストエフスキー的 思考力に自信を持ち続けている。

私は、結果的には、慶應義塾大学の哲学科に進学し、その後、哲学研究者の道も閉ざさ れ、紆余曲折を経て、初心に立ち返り、「文芸評論家」とい うものになったが、今では、それが正解だったと思う。今で も、小林秀雄ドストエフスキーを読み続けており、それら は私の思考の原点になっている。

しかるに、清水教授は、高 校時代から、ひたすらドストエフスキーを読み続け、ドスト エフスキー論を書き続けたという。おそらく、狂気に近い挑 戦的行為だっただろう。ちょうど世間的には、いわゆる「日 大紛争」、「日大全共闘」の頃だったが、清水教授は脇目も振 らず、二十代の頃からドストエフスキー論を書き続け、現 在に至るまで、膨大なドストエフスキー論を書き残してい る。気の遠くなるような量である。私は、清水教授を羨まし いと思ったことはないが、ドストエフスキー研究を黙々と実 行し、実現、達成しているのを見ると、ただもう脱帽せざる をえない。

清水正は、私がまだ、大学院あたりで、将来のあ てもなく、途方に暮れ、右往左往していた頃、最初のドスト エフスキー論『ドストエフスキー体験』を、自費出版してい る。江古田にあったゴム工場でアルバイトを続け、そこで稼 いだ金を資金に自費出版したのだそうである。池袋の書店の 棚に、その本が並んでいるのを、私も見たことがある。私 は、敢えて無視しようとした。しかし、無視出来なかった。 私は、自分より若い日大芸術学部の学生が、小冊子とはい え、ドストエフスキーをタイトルに含む重厚な本を出版していることに驚愕すると同時に、それを素直に評価することが 出来なかったのだ。

それから、何十年も後に、つまり、清水 正が、東大閥の無能教授たちが跋扈していた日大芸術学部内 の派閥抗争を勝ち抜き、文芸学科の学科長として権勢を振る うようになった頃、私は、清水正から電話を貰い、講師を依 頼された。当時、私は、埼玉大学の講師もやっていたが、喜 んで、それを受け入れた。私は、毎週金曜日に、日大芸術学 部に出講するようになり、同時に、「金曜会」で、清水教授 のドストエフスキー研究とドストエフスキー論を拝聴するよ うになった。

私は、私の「ドストエフスキー的思考力」に自 信を持っていた。素人なりに、小林秀雄や秋山駿等のドスト エフスキー論を手引きに読み続けてきたという自信があっ た。しかし、清水教授とドストエフスキー論を闘わせるうち に、私の「自信」は、あっという間に打ち砕かれた。清水教 授のドストエフスキー研究の凄さは、ドストエフスキー作品 の隅々にまで精通し、あらゆる登場人物の実生活や人間関係 まで事細かに知り尽くしている事だった。ドストエフスキー が書いていないことにまで、清水教授は精通していた。私 は、打ちのめされた「道場破り」がそうするように、逆に喜 んで、清水教授に「弟子入り」することにした。もっとドス トエフスキーを勉強したかったからである。私は、清水教授 の「最後の弟子」である。

山崎行太郎 毒蛇山荘の一夜(連載1)

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清水正・ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
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ドストエフスキー曼陀羅」特別号に掲載の文章を紹介します。

毒蛇山荘の一夜(連載1)

山崎行太郎( 文芸評論家、日本大学芸術学部文芸学科講師)

清水正日大芸術学部教授が、今年で定年を迎えるらし い。私は、そういうことにあまり関心はないが、大学関係者 にとっては、定年=退官という儀式は重要な節目になるもの なのだろう。というわけで、十一月二十三日(金)に、『清 水正先生   ドストエフスキー論執筆五〇周年   大勤労感謝 祭』とかいう、ロシアのペテルブルクと日大芸術学部江古田 キャンパスにまたがる、「大イベント」が企画されているら しい。 

ところで、清水正教授と彼の弟子=山下聖美教授、漫 画家の日野日出志氏等と私は、私が日大芸術学部に出講す るようになって以来、ほぼ毎週、金曜に、江古田の某所で、 「金曜会」という呑み会兼勉強会を続けてきた。今も続いて いる。夏休みや春休みには、研究取材旅行と称して、ロシア のペテルブルクやモスクワをはじめ、ベトナムホーチミン(旧サイゴン)やダラット、メコン川。中国の大連、旅 順。インドネシア。台湾。そして国内では、屋久島、桜島、 熊本、伊豆大島伊香保志賀高原直江津、青森……とい うように、ドストエフスキー林芙美子らの足跡を訪ねる旅 を続けてきた。 

私にとっても、人生の後半期に差し掛かって の貴重な時間だった。そこでは政治問題や社会問題なども話 題になるが、もっぱら文学や哲学の話題が中心だった。ボケ 防止にも役だったが、我々は常に真剣で、高校生のように燃 えていた。だから、私の頭は、今も高校生の頃とほとんど変 わらない。

私は、高校時代、読書の楽しみを知った。それま で本を読む習慣はまったくなかった。学校の国語教科書を読 むことが唯一の読書だった。つまり、それまで、本を自分の 金で買って読むという読書の歓びや感動というものを知らなかったのである。高校時代、卒業まじかになって、急に読書 に目覚めた。受験勉強のプレッシャーからの逃避行動の一つ だったのかもしれない。

具体的に言うと、大江健三郎、小林 秀雄、ドストエフスキーニーチェなどを、大江健三郎の読 書遍歴記録を参考に読みはじめた。分かったか分からなかっ たか、そんなことはどうでもよかった。面白いと思ったもの だけを読む、というのが、当時の読書法だった。特にドスト エフスキーには夢中になった。『地下生活者の手記』や『白 痴』には驚いた。 

不思議なことに、当時の読書法や読書傾 向は今もまったく変わっていない。清水教授も、高校時代、 『地下生活者の手記』を読んで、強い衝撃を受け、ドストエ フスキーにハマりこむようになったらしい。清水教授は、そ のまま一直線にドストエフスキー研究とドストエフスキー論 の執筆に突き進んでいき、現在に至る。無論、私と清水教授 とでは、そのハマり具合がまったく違う。

私は、ドストエフ スキー研究という点に関しては、まったくのど素人で、「ア マチュア」に過ぎない。私は、眠りかけていた「ドストエフ スキー的思考力」を、清水正との出会いによって思い出し た。清水教授のドストエフスキー論に刺激されて、私は高校 時代の読書体験を思い出した。

数年前(?)、鹿児島県薩摩半島の寒村にある毒蛇山荘と いう名の我が生家=廃屋で、清水教授とドストエフスキーを巡って、対談したことがある。今年(二〇一八年)も猛暑 だったが、今年よりも猛暑が続く夏であった。普通なら、秋 風が吹きはじめる九月というのに、その年は、まだ猛暑が 続いていた。その猛暑の一夜、夜更けまで、清水教授と私 は、ドストエフスキードストエフスキーの『罪と罰』を 巡って、真剣に対談したのである。

言うまでもなく清水教授 はドストエフスキー研究の第一人者である。ドストエフス キーを語りはじめると、体温が数度上がると公言しているド ストエフスキー=キチガイである。私のような「ど素人」が 対談できる相手ではない。だが猛暑の一夜、清水教授は、私 を相手に、飽くことなくドストエフスキーについて語り続け た。

その対談は、「江古田文学」六十六号(江古田文学会   二〇〇七年)と清水教授が主宰する「ドストエフスキー曼陀 羅」(日本大学芸術学部文芸学科「雑誌研究」編集室   二〇 〇八年)に「対談   現在進行形のドストエフスキー」として 二回に分けて掲載されたが、そのまま埋もれさせ、捨て去る には忍びなかったので、昨年出版した拙著『ネット右翼亡国 論』の巻末に、「共産同赤軍派」議長だった塩見孝也氏との 対談とともに収録した。その清水教授との対談の一夜は、私 にとっても、また我が「毒蛇山荘」にとっても記念すべきも のになった。

私は、両親が、精魂込めて、生涯の唯一の「傑 作」((笑))として建て、遺してくれた我が家=「毒蛇山荘」 を、そのまま朽ち果てさせるのが嫌だったので、その頃、勝
手に「毒蛇山荘」と名付け、「別荘」替わりにすることにし たのである。だから私は、せめて、私が生きている限り、こ の実家=「毒蛇山荘」を、廃屋になろうとも、そのまま残し ておきたかった。この廃屋の一室で、清水教授と私の対談が 行われたのだ、という記憶だけでも残しておきたかった。だ から、清水教授や山下聖美教授を、山奥の廃屋に招待したの である。

その直前には、まだ早稲田大学大学院生だった日本 保守主義研究会の岩田温氏や京都大学大学院の早瀬氏、東京 大学大学院の某氏。そして彼等の仲間の学生達が、一週間近 く、「毒蛇山荘」で合宿した。これもまた、我が「毒蛇山荘」 にとっては記念すべき出来事となった。岩田氏や早瀬氏、東 大大学院の某氏は、その後、大学教員になり、保守系政治学 者として有名になっている。

また岩田氏は今年、結婚した が、この夏の「毒蛇山荘合宿」が、青春時代の一ページとし て、記憶に残っているらしく、結婚式でもこの話が出た。私 は嬉しく感無量であった。亡くなるまで迷惑をかけ続けた父 や母に、「恩返し」が出来たのではないかと思ったものだ。 青森に太宰治の「斜陽館」があるように、鹿児島には、我が 「毒蛇山荘」がある、というわけだ。(笑)