山崎行太郎 毒蛇山荘の一夜(連載1)

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これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正・ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
「清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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ドストエフスキー曼陀羅」特別号に掲載の文章を紹介します。

毒蛇山荘の一夜(連載1)

山崎行太郎( 文芸評論家、日本大学芸術学部文芸学科講師)

清水正日大芸術学部教授が、今年で定年を迎えるらし い。私は、そういうことにあまり関心はないが、大学関係者 にとっては、定年=退官という儀式は重要な節目になるもの なのだろう。というわけで、十一月二十三日(金)に、『清 水正先生   ドストエフスキー論執筆五〇周年   大勤労感謝 祭』とかいう、ロシアのペテルブルクと日大芸術学部江古田 キャンパスにまたがる、「大イベント」が企画されているら しい。 

ところで、清水正教授と彼の弟子=山下聖美教授、漫 画家の日野日出志氏等と私は、私が日大芸術学部に出講す るようになって以来、ほぼ毎週、金曜に、江古田の某所で、 「金曜会」という呑み会兼勉強会を続けてきた。今も続いて いる。夏休みや春休みには、研究取材旅行と称して、ロシア のペテルブルクやモスクワをはじめ、ベトナムホーチミン(旧サイゴン)やダラット、メコン川。中国の大連、旅 順。インドネシア。台湾。そして国内では、屋久島、桜島、 熊本、伊豆大島伊香保志賀高原直江津、青森……とい うように、ドストエフスキー林芙美子らの足跡を訪ねる旅 を続けてきた。 

私にとっても、人生の後半期に差し掛かって の貴重な時間だった。そこでは政治問題や社会問題なども話 題になるが、もっぱら文学や哲学の話題が中心だった。ボケ 防止にも役だったが、我々は常に真剣で、高校生のように燃 えていた。だから、私の頭は、今も高校生の頃とほとんど変 わらない。

私は、高校時代、読書の楽しみを知った。それま で本を読む習慣はまったくなかった。学校の国語教科書を読 むことが唯一の読書だった。つまり、それまで、本を自分の 金で買って読むという読書の歓びや感動というものを知らなかったのである。高校時代、卒業まじかになって、急に読書 に目覚めた。受験勉強のプレッシャーからの逃避行動の一つ だったのかもしれない。

具体的に言うと、大江健三郎、小林 秀雄、ドストエフスキーニーチェなどを、大江健三郎の読 書遍歴記録を参考に読みはじめた。分かったか分からなかっ たか、そんなことはどうでもよかった。面白いと思ったもの だけを読む、というのが、当時の読書法だった。特にドスト エフスキーには夢中になった。『地下生活者の手記』や『白 痴』には驚いた。 

不思議なことに、当時の読書法や読書傾 向は今もまったく変わっていない。清水教授も、高校時代、 『地下生活者の手記』を読んで、強い衝撃を受け、ドストエ フスキーにハマりこむようになったらしい。清水教授は、そ のまま一直線にドストエフスキー研究とドストエフスキー論 の執筆に突き進んでいき、現在に至る。無論、私と清水教授 とでは、そのハマり具合がまったく違う。

私は、ドストエフ スキー研究という点に関しては、まったくのど素人で、「ア マチュア」に過ぎない。私は、眠りかけていた「ドストエフ スキー的思考力」を、清水正との出会いによって思い出し た。清水教授のドストエフスキー論に刺激されて、私は高校 時代の読書体験を思い出した。

数年前(?)、鹿児島県薩摩半島の寒村にある毒蛇山荘と いう名の我が生家=廃屋で、清水教授とドストエフスキーを巡って、対談したことがある。今年(二〇一八年)も猛暑 だったが、今年よりも猛暑が続く夏であった。普通なら、秋 風が吹きはじめる九月というのに、その年は、まだ猛暑が 続いていた。その猛暑の一夜、夜更けまで、清水教授と私 は、ドストエフスキードストエフスキーの『罪と罰』を 巡って、真剣に対談したのである。

言うまでもなく清水教授 はドストエフスキー研究の第一人者である。ドストエフス キーを語りはじめると、体温が数度上がると公言しているド ストエフスキー=キチガイである。私のような「ど素人」が 対談できる相手ではない。だが猛暑の一夜、清水教授は、私 を相手に、飽くことなくドストエフスキーについて語り続け た。

その対談は、「江古田文学」六十六号(江古田文学会   二〇〇七年)と清水教授が主宰する「ドストエフスキー曼陀 羅」(日本大学芸術学部文芸学科「雑誌研究」編集室   二〇 〇八年)に「対談   現在進行形のドストエフスキー」として 二回に分けて掲載されたが、そのまま埋もれさせ、捨て去る には忍びなかったので、昨年出版した拙著『ネット右翼亡国 論』の巻末に、「共産同赤軍派」議長だった塩見孝也氏との 対談とともに収録した。その清水教授との対談の一夜は、私 にとっても、また我が「毒蛇山荘」にとっても記念すべきも のになった。

私は、両親が、精魂込めて、生涯の唯一の「傑 作」((笑))として建て、遺してくれた我が家=「毒蛇山荘」 を、そのまま朽ち果てさせるのが嫌だったので、その頃、勝
手に「毒蛇山荘」と名付け、「別荘」替わりにすることにし たのである。だから私は、せめて、私が生きている限り、こ の実家=「毒蛇山荘」を、廃屋になろうとも、そのまま残し ておきたかった。この廃屋の一室で、清水教授と私の対談が 行われたのだ、という記憶だけでも残しておきたかった。だ から、清水教授や山下聖美教授を、山奥の廃屋に招待したの である。

その直前には、まだ早稲田大学大学院生だった日本 保守主義研究会の岩田温氏や京都大学大学院の早瀬氏、東京 大学大学院の某氏。そして彼等の仲間の学生達が、一週間近 く、「毒蛇山荘」で合宿した。これもまた、我が「毒蛇山荘」 にとっては記念すべき出来事となった。岩田氏や早瀬氏、東 大大学院の某氏は、その後、大学教員になり、保守系政治学 者として有名になっている。

また岩田氏は今年、結婚した が、この夏の「毒蛇山荘合宿」が、青春時代の一ページとし て、記憶に残っているらしく、結婚式でもこの話が出た。私 は嬉しく感無量であった。亡くなるまで迷惑をかけ続けた父 や母に、「恩返し」が出来たのではないかと思ったものだ。 青森に太宰治の「斜陽館」があるように、鹿児島には、我が 「毒蛇山荘」がある、というわけだ。(笑)