船木 拓馬  「ドストエフスキー曼陀羅」展示会の感想

ドストエフスキー曼陀羅」展示会の感想を紹介します。

 

「ネジ式螺旋」の只なかで

  船木 拓馬

 

                               

 展示に入ると、突当たりの壁に沿ってドストエフスキーの著作が並べられている。ふりかえって反対側の壁には、それに対抗するかのようにずらっと清水正の著作が陣をつくって待構えている。


 私の住むアパートの押入れは現在刊行されている先生の『ドストエフスキー論全集』全10巻に占領されている。いまは第6巻『悪霊の世界』と格闘していて、残すところあと第7巻の『「オイディプス王」と「罪と罰」』、今年の秋刊行された第9巻『ドストエフスキー体験記述』を読めば、とりあえずは一周したことになる。


 この全集だけでも、いったいどれだけ書いたのだ、おそるべしと云いたくなる(そのうえどれもすさまじい内容だ。)単行本も目録などで見るかぎり、相当なものだろうと想定していたのだが、じっさいに今回のような展示でゲンブツを並べられてみると、私の予想などまるで歯が立たない、それが圧倒的の著作の数であることが分かった(これでもすべてではないらしい。)


 手にとってみる、装丁も美しい、量だけではない、一冊一冊にずっしりとした質感がある(もちろん物理的の重さではない。)先生は大学構内をのぞいて、電車の中、喫茶店、居酒屋とポメラを持ち運びどこでも書くのだという。書いたらすぐ本にする。読む、書く、刊行する、そのくりかえしだ。その50年がいま眼のまえに並んでいる。


 この著作群が清水正批評のパノラマ風景画だとすれば、つぎに私は、それに対するかのような一個の静物画と対峙することになる。私の眼にファン・ゴッホの「古靴」のように映ったそれは、清水正の読んだ『罪と罰』(米川正夫訳)の原本である。


 ちょうどドストエフスキー清水正それぞれの著作群によって挟まれた展示の位置にふさわしく、この原本はまさに両者の戦いの舞台である。見開きページは、ドストエフスキーの活字と、清水正の書込みに埋めつくされている。まるでドストエフスキー清水正の共演する一個の劇を見せられているかのようだ。ドストエフスキー不動の活字テクストにたいし、清水正は、傍線、欄外への書込み、大量の付箋・インデックスとさまざまな揺さぶりをかける。インデックスは、物語の日付・色・動物などの見出しが書かれ、ページの辺をなくさんばかりに貼られている。


 ここでは50年にわたる清水正ドストエフスキー批評の爪痕が、時間軸の取払われた同一平面上に息づいて見える。たとえば二十代の傍線、三十代の書込み、四十代のインデックスと云ったように、四次元批評が二次元に圧縮されている。先生の「ネジ式螺旋」批評を、上から垂直軸をなくして見てみると、まるでとぐろをまくウロボロスのように見える。清水正の「テクストの解体と再構築」によって死と復活の秘儀をくりかえすこの本は、まるでいまにも動きだしそうなくらいだ。先生は、十九世紀末に書かれた小説に、いまだに息を吹き込み続けている。


 なによりこの原本から伝わってくるのは、異様な魅力を放つ登場人物たちに相たいしながらも、批評家清水正の視線の先にはつねに小説を書いているドストエフスキーの姿があるということだ。先生が授業で云っていた言葉を思いだす「私の批評は、斧を振り上げた青年の腕をとって老女を殺させない、何かに取り憑かれたかのようにペンを走らせる作家の手にそっと触れ、その先を書かせない。」


 展示されている先生の著作なり、テクスト原本をみれば分かる、清水正はけっしてドストエフスキーに呑まれない。この人ほどドストエフスキーにのめり込んでいる人は見当たらないが、この人ほど冷静に作品や作家を見ている人も私はかつて見たことがない。先生はこうも云っていた「私の批評は、ドストエフスキーを訪ねるのではない、自分のところに招きいれるのだ。そうでなければ、呑み込まれてしまう。」


 なるほど、清水正の批評はときに、まるでドストエフスキーを現代に連れてきてまるで自分の家のソファで話をしているような語り口である。そこが居酒屋であったりもする。


 いま私は先生の「文芸批評論」という授業を受けている。受講している文芸学科の生徒で最後のひとりになってしまった。なんでみんな受けにこないのだろう。そう云う私も、先生の講義に出られる貴重な時間をムダにしないようにしなければならない。毎週、質問を考えようとするのだが、圧倒的な著作をまえに何を質問することがある、すべて書かれているではないか、と思ってしまう。それはドストエフスキーの著作をまえに沈黙するしかないのと似ている。


 しかし、それではいけないのだ。今回の展示を見ても分かるように、清水正ドストエフスキーをまえに沈黙することを知らない。それはおそらくすべてを語り尽くしたあとに訪れるのでろう(もし本当に語り尽くすことができるというのであれば。)
 私も、ボロボロになった本がひとりでにしゅるしゅると動きはじめるようになるまで、先生とドストエフスキーの著作に挑み続けなければならない。巨人たちの足元を這いずり回る犬のごとしである。