李恩珠 『宮崎駿を読む』から『ウラ読みドストエフスキー』まで

 

ドストエフスキー曼陀羅」特別号に掲載されたものから紹介します。

今回は李恩珠さん。韓国からの留学生で、わたしの講座「雑誌研究」を聴講生として受講。ドストエフスキー文学に深い関心を寄せていた。一年後、文芸学科に入学。三年、四年時にわたしのゼミ生となった。韓国に帰国後、精力的に日本文学を紹介。

わたしの著書『宮崎駿を読む』(鳥影社)『ウラ読みドストエフスキー』(清流出版)を韓国語訳している

 

宮崎駿を読む』から『ウラ読みドストエフスキー』まで
李恩珠

 

日本に留学しに来た秋はずっと雨でした。日本大学芸術学 部に通っていた先輩から「一九九二年度の開講科目概要」を もらった時をよく覚えています。科目概要をよく読んだ私は まず魅力的な科目にまるをつけていきました。文芸批評論、 雑誌研究、文芸特殊講義などなど。
 
文芸批評論の科目概要にはこういうふうに書かれておりま す。「ドストエフスキーの全作品を対象に、伝記的批評、病 跡学的批評、作品の叙述構造を解明する批評を展開する。対 象を様々な角度から照明をあてることによって、批評の可能 性を探るとともに、批評家の主体性についても考えていきた い。」
 
雑誌研究ではもっと魅力的なことが書いてありました。 「雑誌研究者としての眼を養うために文学・哲学・宗教・現代の様々な事象をそのつどとりあげ、皆で討論しながら授業 を進めて行く。本をたくさん読み、またレポートも多く提出 してもらうので、受講者はそのつもりでのぞむように。」
 
雑誌研究はかっこいいと私は思いました。赤いペンで〝本 をたくさん読み、またレポートも多く提出してもらうので、 受講者はそのつもりでのぞむように〟まで線を引いておきま した。それが清水先生との長い縁になるとはその時はまだわ かっていませんでした。
 
東京の秋は綺麗でした。活字中毒である私は母国語で本が 読みたくて仕方がありませんでしたが、その秋には本を一冊 も読むことができませんでした。まず日本語を身につけなく ては、それまでは読むまい、と心を決めたからです。

日本に来て六ヶ月後、私は日本大学芸術学部の聴講生とな り一年間を過ごし、四年後には無事に韓国へ帰ることができ ました。
 
帰国後、出版社の編集部で本を作りながら私は自分にある ことを課しました。翻訳家になろう。しかも人脈中心になる 出版業界で自分の能力だけで仕事を見つけよう。この決心が 自らの生活をどんなに厳しくするかなど、その時の私には知 りようもありませんでした。
 
私の机には今『宮崎駿を読む』と『ウラ読みドストエフス キー』の韓国語版がおいてあります。それぞれの刊行日を確 認すると二〇〇四年に『宮崎駿を読む』が、二〇〇一年に 『ウラ読みドストエフスキー』が韓国の読者に届いたという ことがわかります。二冊とも出版社に勤めながら、そして子 供たちに日本語を教えながら訳したものでした。
 『宮崎駿を読む』を出した出版社は清水先生の『ほんとう は知りたくなかったグリム童話』の韓国語版を出版し、評判 になったところでした(残念ながらその本はほかの訳者さん が訳されました)。
 
そして『ウラ読みドストエフスキー』はドストエフスキー 全集を出している海外書籍専門の出版社であるヨルリン・ チェッドゥル(オープン・ブックスという意味)から出版さ れました。『ウラ読みドストエフスキー』の出版が決まった
日は本当にうれしかったです。自分の力で翻訳家になり、自 分が感動した本を韓国の読者に紹介できる。私は自分との約 束を守ったのです。『ウラ読みドストエフスキー』は約三年 間をかけて訳した、私にとってとても意味のある本です(翻 訳に戸惑い前に進まなくなるといつも応援してくれた、窪田 尚さんと山下聖美さんにも感謝します)。翻訳家にとって、 出版社から頼まれた仕事ではなく自分が訳したい本を訳すと いうのは孤独なことです。いつ出版されるのかもわからない まま、ただ毎日翻訳に向き合うしかありません。振り返る と、その時の自分は宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』の世 界に住んでいたのかもしれない、と思います。貧しい生活で したが、仕事から帰ってくると毎日、私は机に向かって清水 先生が書いた文章をハングルに変えていきました。そして、 そのうちにセロひきのゴーシュになったように感じていたの でした。
 
日芸で私は多くのことを学びましたが、一番大切なことは 毎日のように文章を書く習慣だと思います。ある年は清水先 生の講義ばかり受講していたために、前期、後期テストの時 には合わせて二万字近くを書かなければなりませんでした。 今思えば笑いが出ますけれども、その時はもう死ぬかと思い ました。
 
最後に『宮崎駿を読む』の韓国語版に書いた私の文章を紹介しておきたいと思います。
 
十年前、前期の最後の授業である「雑誌研究」では独特 な課題が出された。『となりのトトロ』を見て批評をして みよう、というものだ。学生たちは自分だけの鋭い見解で 作品の解剖に取りかかった。授業の終りを教えるチャイム が鳴り騒々しく荷物を取りまとめる学生たちに清水先生は こうおっしゃった。〝批評をする前にまずその作品に感動 しなくてはいけない〟と。その最後の言葉があまりにも印 象深くて胸に残った。
 
今回翻訳した『宮崎駿を読む』は十年前に聞いた清水先 生の講義を受講しているかのような感覚を抱かせてくれ た。翻訳作業に入る前、宮崎の作品をもう一度観てみた。 あたかも自分が批評家になった気持で作品の象徴と意味を 解釈してみた。限りない好奇心と多様な視点で作品を見る ことも大切だが、批判のための批評、否定のための批評を しないように客観視することは思ったより難しかった。
 
私は先生に出会い、ドストエフスキーの世界に導かれまし た。東京の貧しい留学生であった私はソウルからの仕送りを 待ちながら、古いアパートから学校へ、学校からアルバイト 先へと通いながら挫折ばかりしていました。そんな当時は、 『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフと自分自身を同一視するしかできませんでした。『ウラ読みドストエフス キー』を翻訳することで、私はやっとドストエフスキー小説 の人物から逃れることができたのです。その点においても、 翻訳してよかったと思います。私はこの夏、短編小説を二つ 書き、エッセイも一七五枚を書き上げました。〝文章を毎日 のように書くこと〟清水先生から学んだことです。これから も清水先生から学んだことを大切にして生きていこうと思い ます。

 
二〇一八年八月二十四日
イ・ウンジュ 韓国在住日本文学翻訳家