「宮沢賢治・不条理の火と聖性『貝の火』をめぐって」を読んで



清水正著『宮沢賢治・不条理の火と聖性「貝の火」をめぐって』を読んで


伊藤景



 賢治童話は、なんて恐ろしい物語だろうか。私は、恐ろしさに気付くこともなく読み進めてしまった。宮沢賢治の罠に気付くことさえできなかった。清水先生の『宮沢賢治・不条理の火と聖性『貝の火』をめぐって』を読むまで、私は「貝の火」という物語は調子に乗りすぎてはいけないと教えるための道徳的な童話なのだろうとさえ思っていた。そんな、生易しい童話ではなかったのだ。
 なぜ、ホモイが選ばれてしまったのか。なぜ、ホモイ一家でなければならなかったのか。私は、重要であるはずの登場人物の設定に対して疑問を持つことさえなかった。賢治童話ならば、ホモイ一家が人間で、その他の登場者たちが動物のままで描かれていても不思議ではない。動物ばかりが登場する作品も多いが、主人公たちが人間である作品も数多く存在する。清水先生の書かれているように、動物として設定されたのは人間よりも五感が優れている動物であったからなのだろう。ホモイは、感覚が敏感な存在である。そんな彼が不気味な事件の場へと選ばれた。彼の鋭敏な感覚をもってしても逃げることは許されなかったのだ。それにより、ホモイは事件へと巻き込まれた。
 私は読み終えた後、ホモイが主人公であったと疑ったことがなかった。しかし、この物語の真の主人公はホモイではなかった。この物語の審判で断罪されたのはホモイの父親であったと、私はこの本を読まなければ気付くことさえできなかったのではないだろうか。ホモイの傲慢な振る舞いは、父親を投影した姿であり、彼を模倣した姿であった。宮沢賢治に騙され続けていた私も、狐が盗んだ角パンを父親に怒られながらもホモイが三日間もらい続けることには疑問をもった。なによりも、角パンを踏みつけるほどに、盗むという悪行を憎んでいたはずの父親が夕飯の際に家族三人で狐の角パンを仲良く食べていた姿は不思議であった。しかし、父親もホモイの思想に影響されたのだろうとホモイを主軸に考え、その違和感を気付かなかったことにしてしまった。私はこのときの違和感を忘れてはいけなかったのだ。知らん顔をしてしまったことを恥じた。私はこの本を読み終わり、再び「貝の火」を読んだ際にはなぜ気付こうとしなかったのかと、恥ずかしさを感じた。そして、賢治童話の偉大さを同時に感じた。私はこの天才が考えていた世界を覗いてみたいと思った。私のとって貝の火の炎は宇宙を想像させるものであった。宮沢賢治の世界が閉じ込められている存在に思える。時には、激しく人の目を奪うように燃える。怒りによって、激しく燃える貝の火に、自分の思いも重ねていたのではないだろうか。
 私が「貝の火」を読み返した際に最も恐ろしかったことは、鳥たちの存在だ。最初に登場するホモイを試みの場に引きずり込んだ存在である痩せたひばりの子供。しかし、一番はじめに登場した際には、この子供は鳥の姿をしてはいなかった。《うす黒いもじゃもじゃした鳥のやうな形のもの》が川上から流れてきたのだ。私は、先生の指摘を読むまでこの不気味さ、異常さに気付いていなかった。「鳥のやうな形のもの」であって、宮沢賢治は鳥であると断定はしていなかったのだ。鳥であり、ひばりであると断定したのは主人公の視点であるホモイであり、その視点を疑うことなく受け入れた読者の勝手な想像だったのだ。私は、先生の本を読んでから「貝の火」を読み返して、はじめて自分が騙されてしまっていたことに気が付いたのだ。ひばりの子供が鳥ではなかった。ならば、この物語に登場する鳥や動物たちは本当にその姿のままで受け入れて読んでいいのだろうか。一つ疑いはじめると、全てが疑わしく見えてくる。これこそが、宮沢賢治の作品の深さなのだろうか。
私には、母親のひばりとされるものが敬う「王」という存在は、鳥の王なのだろうか。私には、死を司る王のように思えた。かつて、このひばりの親子は罪を犯し、その贖罪のためにも「王」に仕えているのだろう。この物語では、ひばりの父親が登場しない。存在さえしないのかもしれあい。しかし、両親が揃わなければ子供が生まれることもない。ひばりという鳥は、神への信仰をシンボル的な意味として有する。まさに、「王」という神のために、自分たち親子を許してもらうためにホモイを犠牲とするその精神は、神の信仰を試されている存在だったのだろうと考える。最後に登場した梟。彼こそが「王」の化身だったのではないだろうか。ホモイ一家を試し、ひばりの親子を試した王だからこそ、「たったの六日だったな」と笑ったのではないだろうか。神である王には、この結果が見えていたのだろう。梟は「キリスト」のシンボル的意味を持つ動物である。夜の世界を羽ばたき、その世界を支配する梟だからこそホモイのことをそしてホモイ一家のことを高みの見物かのように笑い飛ばすことができたのだろう。王には、この結果が見えていたのだろう。だからこそ、うぬぼれたホモイ一家に怒りの鉄槌を下したのではないだろうか。傲慢な父親、それを模倣する小賢しいホモイそして、ただ自分の家庭の平和しか顧みない母親という存在に改心させようとしたのではないか。この結果を覆すことができたら、王もホモイ一家のことを侮っていたと認めざるをえなかったが、ホモイの目は光を失った。それにより、ホモイは可能性を持った喜びを見に宿した子供の存在性を奪われてしまった。今までのように自由に飛び回ることもなく、父親の手に捕らえられてしまった不自由な存在へと変わってしまったのだ。一読しただけでは、あんなにも生意気なホモイを家族で更生させようとする温かな話であるかのように見えるが、本当はそんな話では一切なかったのだと思い知らされた。
宮沢賢治は、この物語はどのように考えて生み出したのか。この物語いや、すべての賢治童話の真髄は明かされたのだろうか。私は、清水先生の本を読んでやっと宮沢賢治の恐ろしさに気が付くことができた。きっと、私が今まで楽しい、美しい、面白いと読んでいた童話の中には、表層的だけでは読み解くことのできない騙しの文学が存在しているんだろう。そのことに気が付くことができた。
賢治童話の恐ろしさ。そして、真の楽しみ方を『宮沢賢治・不条理の火と聖性『貝の火』をめぐって』を読んだことによって、まだまだではあるがコツを得ることができたように思う。これからは、テキストの違和感を見逃さず、その違和感に揺さぶりをかけて表層を打ち砕くことによってしか見ることができない深層的世界を覗く技術を磨いていきたい。