D文学研究会主催の第一回講演会




緊張の瞬間
D文学研究会主催の第一回講演会においてー

伊藤景

 2014年7月26日15時に、私は呼吸さえもためらうような緊張感をこの身で体験した。それは、D文学研究会主催の第一回講演会においてのことである。会場で待機していた参加者たちは、おしゃべりに花を咲かせていた。しかし、会場の扉を清水先生が開いた瞬間に、参加者たちはみな沈黙した。そんな中、清水先生が一歩ずつ踏みしめるように会場の中心へと向かう。一歩踏みしめるごとに、会場の緊張感は高まっていく。先生が中心へと立ち、正面を向いた瞬間。私は自然と息を飲んでいた。

 私は清水先生による文芸批評論と雑誌研究において、ビデオカメラを使った講義の撮影を担当している。いつも、教室の一番後ろの中心に三脚を立ててビデオカメラをセットする。そして、清水先生が教室に登場するのを録画開始ボタンに指を添えながら待機している。なぜなら、先生が教室に入る瞬間からが授業の開始であり、私の仕事も始まるからだ。そのために待機している間は、緊張するからか自然と背筋が伸びてしまう。
 今では、撮影することにも慣れてきた。しかし、撮影を担当した当初はひどく苦労した。清水先生の講義撮影には、ちょっとしたルールがあるからだ。それはアングルの指定である。
 定点観測のように講義を撮影するのならば、私が講義の間中に張り付かなくても撮影は可能である。しかし、清水先生の講義撮影は先生を中心に撮影を行なう。清水先生が話しているときは、先生だけを撮る。先生が学生と話しているときは、学生が映るように遠近を調整しながら画面に収まるように撮影する。黒板に書いた文字さえ見逃さないように、細かにズームボタンを動かす。先生が動いたら、私も追いかけるようにカメラを動かし続けるのだ。そのために清水先生の動きを観察し、どこに移動しようとしているのか推測する。先生が学生に演技をさせる際には、全体を撮影しつつも瞬間瞬間のメインキャストをアップにしたりと慌ただしく撮影をしている。おこがましいことではあるが、清水先生の目となれるように、ビデオカメラを回し続けている。先生を中心に撮影し、先生の目として役立てるようにと気を張り詰めながら講義を撮影し続ける。

 大学院の講義を受けつつ学部の授業も撮影している私は、今誰よりも清水先生の講義を受講している人間なのではないだろうか。だからこそ、今回の講演会はいつもの講義と空気が異なることがよく分かった。
 題目は「『ドラえもん』から『オイディプス王』へ――ドストエフスキー文学と関連づけて――」。講演会での撮影も私が担当させていただけ、講演会前にはどのように撮影するのか質問をしに清水先生の元へ向かった。その際に清水先生は「普段の講義と同じように撮影を」とおっしゃっていたので、なんだいつも通りでいいのかと安心していた。しかし、清水先生が会場に登場した瞬間。先生のまとう雰囲気は、まさに戦場に向かう戦士かのような凄みがあった。
 まずはじめに、講演では『ドラえもん』の第1巻第1話である「未来の国からはるばると」を用いて、人がどれだけ漫画を読み流しているかを指摘した。その際にはまるで斬り込むかのような鋭さが感じられた。また、『オイディプス王』の父殺し。そして、父殺しの果てにある母イオカステとの婚姻までに渡る解説は、まるでオイデプス王の舞台を目の前で見ているかのようなリアリティそして迫力があった。ドストエフスキーが癲癇だったのではないかと指摘した際には、参加者に衝撃が走った。まるで、清水先生はドストエフスキーに直接聞いたのではないかと思うほど作品の根底に眠る作者の人格を暴いていく。先生はどこまで深く作品に、そして作家の意識へと沈んでいるのだろうか。どこまで、作家の真実を見抜いているのだろうか。まだまだ、私なんかでは理解することが不可能な世界を清水先生は看破しているのだろう。
 講義や講演の会場は清水先生の支配する空間なのである。この講演において、私を含め、参加者はただただ圧倒されながらも、清水先生の紡ぎ出す言葉を聞き逃すまいと全ての感覚器官を研ぎすまさせる。それによって、会場はより洗練された緊張感に包まれていく。気付けば、私の手も強くビデオカメラを握っていた。
 講演は3時間にも及んだ。その間、休みをとることなく清水先生は立ちっぱなしで話を続けていた。信じられないエネルギーである。私は体力が持続しなかったので、後半では椅子に少し腰掛けたり立ち上がったりを繰り返しながら撮影を行なっていたのに、だ。普段の講義においても、清水先生はほとんど立って動き回っている。その姿をビデオカメラで撮影する度に尊敬の思いが生まれる。そして、私はまだまだ未熟者だと悔しい思いも生まれる。清水先生の勢いに圧倒されないような人間になりたい。もし、次の講演会が行なわれる際には、撮影者としてリベンジさせていただけたらと思う。