「雑誌研究」の夏期課題の提出レポート 2

近況報告

「雑誌研究」の夏期課題の提出レポートを何篇か紹介します。

宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」の主人公の名前が「かねた一郎」とひらがな・漢字表記になっている理由について書きなさい。わたしの考えは指定テキスト「宮沢賢治・童話のエロス」の中で触れていますが、それを踏まえながら独自の考えをまとめてください。

  大原梢太(デザイン学科3年)

  まず僕はこの「どんぐりと山猫」を読んで、一郎の少年像を大きく誤解していたことが分かりました。最初に読んでいる時、僕は一郎という少年はとても邪気の無い純粋な性格だと思い込んでいて、挙げ句の果てに引っ込み思案で自信が無い子であるといった妄想さえも膨らませていました。ですが先生の著書の「宮沢賢治 童話のエロス 謎とき『どんぐりと山猫』」を読んで、一郎に抱いていたそれまでの印象が一変しました。物語の中で何となく有耶無耶にしていた違和感を覚えていた箇所、例えば場所の記載が無いにも関わらず迷ったり不安になることなく道を突き進んでいく一郎の姿は、確かに物凄い自信家という性格を窺うことができます。自分の読みの浅さを痛感するのと同時に、宮沢賢治の童話の奥深さも知ることができました。ただの童話であるという色眼鏡のようなものを一度完全に外して、今一度この物語を読み込んでみようと思いました。そしてそのような前提の上で、もう一回この「かねた一郎」という名前を見てみると、様々な印象や捉え方が浮かんできました。それを今から述べていきます。

  まず「一郎」だけが漢字で表記されている理由としては、宮沢賢治がこの物語を深く読み取る際のヒントを読者に投げかけているからだと僕は考えました。一郎という名前は、この漢字の表記も含めて日本ではとても一般的な名前であり、物語の登場人物の名前としては悪く言うとありきたりすぎて、普通に読み進めていく上ではそこまで深い意味が込められているとは到底思わないでしょう。実際僕も名前の由来や隠された意味なども考えることなく、「一郎」という名前をそのまま受け入れていました。ですが今回は、なぜこの名前なのか一度立ち止まってよく考えてみました。 「一郎」という文字から連想されることと言えば、やはり「長男」という存在でしょう。これは一番最初に生まれた子であり、将来的には家業を継がせたり、出世を望まれるような立ち位置となります。また、両親からの愛を一番最初に注がれる子供という捉え方もできます。そしてもしも後に次男や次女が生まれた場合には、「兄」という存在にも変わります。弟や妹よりも力を持っていて、長男としての自信もそこに加わることによって家庭内で威張ったりすることもできるかもしれません。このように「いちろう」という名前が「一」と「郎」による漢字表記であるのは、一郎が自信たっぷりの子供であることを裏付けをするためではないかと僕は考えました。そしてこの「一郎」という単語を分解してみると「一」と「郎」になります。これも「最初の数」と「男の子であること」を意味する漢字で成り立っていて 、「いちろう」という名前の漢字表記が、「市郎」や「一朗」では絶対に駄目で「一郎」である必要性を感じさせています。また、「一番の男になる」ともこの漢字表記から読み取ることができ、一人の男性として成熟していってほしいというような願望もこの名前には込められています。なぜこの「一郎」だけがきちんとした漢字表記なのかは、ひらがなの「いちろう」表記にしてしまうと明確な「一番の男」という力強いイメージを読者に投げかけることが難しくなってしまうからではないかと思いました。一郎は後に、どんぐり達の誰が一番偉いのか、力を持っているのかという裁判においても非常に自信満々な態度を取っています。それもまたこの「一郎」という漢字の雰囲気から読み取ることができます。彼は自分が長男であり、一番の男であるということを冠した名前を持っていることを自覚しているのです。それは下手をすれば奢りとも取れるような姿勢です。

  また、僕はこの「かねた」がひらがな表記であることについての、先生が著書で記されていた「様々な役割を兼ねたものだから」という批評にはとても共感しました。それを踏まえた上で僕個人としては、この「かねた」の部分には「子供と大人」の境界を兼ねているという意味も含まれているように感じました。この「子供と大人」の内容については、性的な成熟といった意味もあるのですが、僕の中では子供と大人の狭間にある「思春期のような葛藤」のイメージを連想しました。それは著書で触れられていたようにどんぐり達の裁判の前、山猫と奇怪な男との内面的な勝負に逃げてしまったところに現れています。ここでは、今後年齢を重ねていく中で自立しないといけない、 「一郎」という名前だから一人の男として成長しないといけないけれど、まだ子供として大人に甘えていたいような一郎の想いを感じました。そしてそれは威勢だけが一丁前になっていて、まだ中身が伴っていない思春期の青年の姿を思い起こさせます 。長男として家庭内では一番だけど社会に出るとちっぽけだったり、一人目に生まれた息子であると同時に一番の男になることを望まれているといった二つの存在を一郎は兼ねているのではないでしょうか。子供と大人の境目にあるその複雑な心境、大人と子供の二つの存在を兼ねているということもこの「かねた」という表記に込められているのではないかと僕は考えました。「一郎」という名前は長男を連想させ、将来は立派な大人になることを望まれる存在へなっていきます。ですが一郎は山猫と奇怪な男との闘いを避けて、父性を獲得して一人前の成熟した男になることから逃げています。長男としての自信があるけれど自立することができない、大人になりきれない子供という印象をこの名前から読み取りました。

 

 

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