なか中村文昭氏との対談「ネジ式対談ドストエフスキー

中村文昭氏との対談「ネジ式対談ドストエフスキー」の校正と「『清水正ドストエフスキー論年譜』の作成を終えて

中村文昭氏(左)と小生
去年の12月30日から作成し始めた『清水正ドストエフスキー論年譜』は今年の1月5日にポメラの操作ミスで消失、気を取り直して6日の零時すぎから再開、本日ようやく終えた。この間、卒論の講評、「藝文攷」に連載の「ロープシンの『蒼ざめた馬』をめぐって」の校正、中村文昭氏との対談「ネジ式対談ドストエフスキー」の校正もしなければならず、まさに起きている間中とにかく校正、校正の毎日であった。

「年譜」と「対談」は今年三月末に刊行予定の江古田文学ドストエフスキー特集号の仕事であるから、とにかく急いで完成しなければならなかった。

中村氏との対談は去年の12月25日に四時間をかけたが、校正はその十倍くらいの時間を要した。話言葉というのは、録画映像で見聞きするぶんには理解できても、活字にすると意味不明の箇所が意外と多い。ドストエフスキーの人物たちの名前はほとんど正確にテープおこしされていないので、すべて入力し直さなければならない。

今回は、起こされた原稿を一度読んで、赤を入れ、さらにその校正原稿をもとにして入力したので、まさに二重三重の手間がかかる。これなら最初から自分でテープおこししたほうが早いのではないかと思ったほどである。

最初は中村氏も話言葉を尊重しようという意向であったが、なかなかそうはいかないところが対談や座談の難しいところである。

〈ネジ式対談〉ということで話は多方面へと飛んだが、なかなか面白い対談になったと思う。

中村氏と最初に会ったのは一九七三年、今から四十年も前の昔である。記憶に間違いがなければ、わたしの「回想のラスコーリニコフ」が掲載された「「アポリア」15号が完成して同人の何人かが新宿の酒場に集まった時ではないかと思う。その時は中村氏ひとりが熱く語っていた印象が強い。編集を担当していた坂井信夫氏は実に寡黙で、ただひたすら中村氏の言葉に耳を傾けていた。

中村氏とは酒の席では何度か話をしたことはあるが、なにしろ酒を飲んでの話なので、要するに最後には、文字通りグチャグチャになる。何を話したのかなど記憶に残るはずもない。

今回はお互いにまったくアルコールを入れなかったので、冷静に対談できたのではないかと思っている。酒を飲んで文学の話などしようものなら、まだ何が起きるかわからない……。

ドストエフスキーに限らず、宮沢賢治の文学、暗黒舞踏、スビノザ、サド、ベルグソン林芙美子、信仰、虚無、愛など、とにかく話は縦横無尽に広がっていく。今回の四時間は、テーマの大きさ、深さを考えればとうてい語り尽くしたとは言えない。

が、この対談によって、わたしが抱え込んでいるテーマ(死と復活)はかなり浮き彫りにされたと思う。

近頃、本気で文学を中心に据えて他人とまともに語り合うことはなかったので、この対談はその意味でも面白かった。面白かったという点では、一九八六年の暮れに小沼文彦、江川卓両氏と江古田の居酒屋「和田屋」の二階を借り切って鼎談した時以来である。

なにしろ、小沼、江川氏はいわばドストエフスキー研究にその生涯を費やしたひとたちであるから、話をしていて面白くないはずはない。この二人は「ドストエーフスキイの会」の総会などで顔を会わせる機会はあっても、ドストエフスキーをテーマに本格的に話をする機会はなかった。

こ日は、両氏とも日芸の特別講義を終えてリラックスしていたこともあり、アルコールもだいぶはいってとにかく面白い話に終始した。詳細は「ドストエフスキー曼荼羅」別冊、または「清水正ブログ」を検索してご覧ください。

いずれにしても、いつまでも校正や編集に従事しているわけにはいかない。執筆の中断を余儀なくされているのは林芙美子の『浮雲』論、ロープシンの『蒼ざめた馬』論、ソポクレスの『オイディプス王』論と三編もある