日野日出志の「女の箱」論(連載2)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載2)

清水 正


女のセリフにある沈黙の「…………」は何を意味しているのか。女は〈大切な箱〉の秘密を青年に打ち明けない。女が自分の口で「大切な大切な」と強調しているのであるから、女自身にはその〈大切〉がしっかりと認識されていたことになる。女の切れ長の目は机に置かれた箱の材料に向けられているというよりは、彼女自身の他者には閉ざされた内面深くに向けられている。

一方、青年のドングリ眼は女の内心に届く眼差しでもなければ、自らの内面に向けられた眼差しでもない。この青年の眼差しは、言わばうわついた、軽兆浮薄な者のそれである。青年と女はお互いに向き合って、お互いの存在を確認し合う関係性から離反している。青年は女の傍らに寄り添うよりも、外の世界が眺められる窓際の壁に背をあずけている。青年の顔は女の方に向けられているが、内心の目は外側(窓の外)に向かっている。この青年には女の内心をのぞき見る眼力はない。ドングリ眼の瞳は斜め下に描かれ、青年の女に対する不安と疑心暗鬼がさりげなく暗示されている。

女の目に迷いはなく微塵の疑心暗鬼もない。この女の目は、すでに迷いを脱して決断を下してしまった者の目である。青年は女の〈決断〉を読みとることができず、従って女の口にする〈大切な大切な箱〉の秘密を解読することもできない。二人の距離は描かれた物理的な距離をはるかに越えている。男と女の思いが一致して熱愛状態にある場合、そこにひとの関心を引きつけるドラマは生じようがない。当事者の二人が幸せな時間を過ごせばいいだけの話である。

 窓から見えるのは人家の屋根である。おそらく女と青年が住むこの一室はアパートの二階ということになる。窓はもちろんサッシではなく、古びた感じがする。昭和三、四十年代のアパートには普通に見られたものである。というより、サッシが普及するまでの日本の家屋においては、こういった窓作りが一般的であった。下から二段かまたは三段くらいが曇りガラスで、上段部分に透明ガラスを使っていたように記憶する。

日本の襖や障子は紙でできた仕切であるが、これらは部屋と部屋を区切るものであると同時に不断に〈開け〉も内包している。西洋家屋のドアは外界と内界を厳しく区切っているが、日本の襖や障子は外界を厳しく遮断しているというよりも、外界の気配をいつも感じさせる〈境界板〉であり、時に外界と内界の境界域を曖昧に拡大していく。障子や濡れ縁や庇は内界と外界を遮断するのではなく、内界と外界を無限に繋げていくものとしてある。障子は閉めても、外界の光を内界へと取り入れるし、外界の気配をも伝える。部屋の中に座って、開かれた障子の間から外界を眺めれば、廊下、庭、垣根、山々、天空と無限の光景がとらえられる。つまり、日本の家屋はたとえ四畳半一間の狭い空間においても、障子を開け、窓を開ければ無限に広がる外界の自然をその内に取り込めることができる。

 もし、女と男が閉ざされた四角い部屋に描かれていれば、この場面は実に恐ろしい閉塞感を読者に与えたはずである。女が作っている小さな箱は、未だ蓋を閉められずに、その空っぽの内部を晒している。が、女が今作っている蓋が完成すれば、この箱はただちに蓋を閉められることになる。女の堅い表情、女の作業を進める手つき、棺箱を連想させる机など、どれをとっても不気味であるにもかかわらず、開けられた窓から無限に広がる外界が見えることで、読者はこの女の恐るべき暗い決意にもかかわらず、開放的な感覚をおぼえてしまうことになる。画面下部の暗さは、画面上部の明るさに浸食され、〈女の箱〉がはらんでいる恐ろしいものを曖昧にぼかしてしまう。

 このコマ絵で重要な役割をはたしているのは窓の外に吊された鳥かごである。鳥かご中の鳥は未だ描かれず、「チチ…チチ」とその鳴き声だけが描かれている。この鳴き声だけでも、つげ義春のファンであれば名作「チーコ」をすぐに想起するであろう。日野日出志の描く女の顔は瓜実顔で、目は浮世絵の女のように切れ長で凛々しく妖艶であるが、この日野日出志独自の女を取り除いて、そこにつげ義春「チーコ」の女を置けば、まさにこのコマ絵はつげ義春風なものに一変する。