日野日出志の「女の箱」論 (連載17)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載17)

清水 正

「女の箱」論余話(続)

罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは二人の女を斧で殺害した青年であった。しかし『罪と罰』を読んだ読者の大半はこの殺人犯を非難するどころか、この殺人者と同じような苦悩を背負ったつもりになってしまう。この小説の危険は読者を主人公と同一化させる力を持っていることだ。

〈彼〉〈ロジオン〉〈ロジオン・ロマーヌィチ〉〈ロージャ〉〈ラスコーリニコフ〉などと様々に表記されるこの主人公は全編を通じて一人称〈私〉として読者の背中から覆い被さってくる。多感な青少年期の読者は、この〈私〉に憑依される。自分がラスコーリニコフのような気分になって夜の街をさまよったりする。『罪と罰』のカメラはラスコーリニコフの目に張り付いていて、このカメラは外部世界と内部世界を照らし出す機能を備えている。読者はラスコーリニコフの内部を自分自身の内部としてのぞき込むのである。ドストエフスキーを読むことの眩暈とはまさにこのような事態を指して言うのである。

 が、たいていの読者は読後この眩暈を引きずったまま主人公の犯罪を踏襲することはない。『罪と罰』を読んで殺人者になった者があったとしても、それは極めて稀なことであって、たいていの場合は読後ふたたび平凡な日常へと回帰する。日常への回帰力はすさまじいものであって、読者は読後、ひ人殺しもしないし、同時に復活もしない。『罪と罰』を読み終わってキリスト教信者になったものがあったとしても、それはごく少数であろう。ましてや、読後、復活の曙光に輝いた者など、絶無に近いと言っていい。

 「女の箱」を読んで、自分を女と同一化する読者がいたとしても、実際に同棲相手を殺す者はいないだろう。いたとしてもごく稀としか言いようがない。にもかかわらず、「女の箱」を読む読者の大半は女の気持ちと同一化し、最後のシーンに同調するであろう。これは『罪と罰』と同じく、作者が主人公の女の視点に寄り添う形で物語りを描きすすめているからである。

 『罪と罰』の読者はラスコーリニコフの内部世界に精通しているが、殺された老婆アリョーナに関してはその内部世界に関して全く情報を得ることができない。あったとしても、その情報は外側から新聞記事のように語られるだけである。老婆アリョーナに立ち止まり、彼女が味わってきたであろう悲しさ辛さに思いを馳せることをしなければ、彼女はラスコーリニコフの主観で染めあげられた〈社会の有害なダニ〉という殻を打ち破って、人間としての生きた叫びを発することができない客体化された存在にとどまらざるを得ない。

 「女の箱」の場合で言えば、読者は女の牧歌的に描かれた幼少期を見て、もうそれだけで彼女の人生の一部に深く参入している。水商売している着飾った女の大切な、かけがえのない故郷を共有しながら、女の思いに自らの思いを重ねていくのである。一方、最後には殺されてしまう青年の思いに自らの思いを重ねる読者はいないであろう。青年は女と違って、過去が完璧に封印されてしまっている。読者は青年の家族や生い立ちなどに関して何の情報も与えられていない。女は東北雪国の牧歌的な自然の中で無邪気に遊びまわる幼少期を見開き二頁にわたって描かれているが、青年にはそれに匹敵する幼少期はまったく描かれていない。当然、読者は女の側に寄り添う。

 描かれた限りでの青年は、女の稼ぎをあてにしている打算的でこ狡いおとこで、要するに何の魅力もない。この肉体的快楽だけを求めている軽薄な若者に共感をおぼえる読者はいないだろう。たとえこの若者の内部世界をドストエフスキーのペンをもって描いたにしても、おそらく彼の卑劣さが浮き彫りになるだけのことで、読者の魂を揺さぶることは不可能だろう。この青年には、ラスコーリニコフにおける人生や社会に対する懐疑や反抗がない。世間の表層を要領よく滑っていこうという軽薄で打算的な思惑はあるが、生きてあることの意味を探求しようなどという思いはない。

 この青年の〈軽薄な思想〉をきちんと示そうとすれば、それは『罪と罰』に登場する敏腕な実務家ルージンのものと重なることになろう。ご存じのように、ルージンはラスコーリニコフの妹ドゥーニャと婚約までは順調にこなしたが、ラスコーリニコフの大反対にあって、結局婚約を破棄されてしまった。ドゥーニャがルージンとの結婚を承諾したのは兄の将来を思ってのことで、ルージンに対しては愛も尊敬もまったくなかった。ルージンは敏腕な弁護士として紹介されるが、描かれた限りでは婚約を破棄された腹いせに冤罪事件を仕掛けるほどの箸にも棒にもかからない卑劣漢である。

 女を利用するだけ利用して、あげくのはてに女の金を盗んでとんずらしようなどという「女の箱」の青年は、ルージンに負けず劣らず〈卑劣漢で、本来、こういう男は〈心中〉の相手に最もふさわしくない相手である。もし女が過ぎ去った〈過去〉などに異常な執着を見せず、来るべき将来を見据えて現実を生きるおんなであったならば、こんなクズのような青年と無理心中することもなかったであろう。

 クズに必要なのは矯正する鞭であり、追放であり、排除であり、関わる優しさがあるのなら太母的な母性を持って臨むほかはない。肉欲的快楽をも包む大いなる母性のみが、こういった能天気で自己中心的な青年を鍛え上げることができる。女はそれができずに青年を毒殺することで一挙に〈虚妄の愛〉へと駆け落ちていった。女本人は非本来的な〈虚妄の愛〉をあたかも至高の愛の成就と思いこんで死んでいった。

 この滑稽な悲喜劇をそのように見るのは、もちろん女の虚妄を虚妄として冷徹に見ている読者であって、女の主観的内部に同調してしまう読者は女の虚妄に同調してしまうだろう。耽美主義者は彼が現実の社会生活をふつうに送っていけるだけの分別を兼ね備えているなら、自分自身の内的小部屋で〈虚妄の愛〉を至高の愛、永遠の愛と合致させる妄想に耽って、その次元にとどまることも可能であろう。しかし、その〈虚妄〉を現実の世界で実現しようとするなら「女の箱」の女と同様に殺人者とならざるを得ない。

 女が望んだのは彼女をさほど愛してもいないろくでなしの青年を殺してまでも獲得したかった〈永遠の愛〉であった。女は〈虚妄〉のキャンバスに二人の〈死〉という油絵の具を分厚く塗り込めて〈永遠の愛〉を完成させた。優しい読者はその絵の具を削り落として〈虚妄〉をさらけ出すことはしないかもしれない。しかし、この場合の優しさとは、女と共犯関係を結んで〈虚妄〉を拒みきれない臆病で狡猾な読者のそれと言えよう。

 女が現出させた〈永遠の愛〉の〈虚妄〉を容赦なく晒し、その〈虚妄〉を生き切らずにはおれなかった女の根源的な悲しさを抱きかかえる者こそ真の太母的〈優しい読者〉である。「女の箱」の最終コマで描かれた大きな木箱こそは、私の言う太母的母性の一つの隠喩ともなっている。

 作者・日野日出志の女と青年に注がれたまなざしは限りなく優しい。〈虚妄の愛〉を生き切った女、女の〈虚妄の愛〉の犠牲になった青年に向けられた日野日出志の愛のまなざしはただごとではない。日野日出志は彼らを断罪しない。少なくとも作者という高みに立った視点で断罪しない。

 最終コマの絵を描いているのは日野日出志である。毒を盛られ、悶え苦しんだ果てに眼を剥きだして死んだ青年、後を追って自殺した女に死化粧をほどこし、色とりどりの小さな箱に包まれるようにして安置したのは日野日出志である。日野日出志のまなざしは虚妄の愛の真実を知っている者にしか注げない愛のまなざしである。木箱に安置された二人の遺骸に両手を合わせて冥福を祈っているのは、彼ら二人を創造した日野日出志である。