日野日出志の「女の箱」論 (連載11)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載11)

清水 正

 次の13頁1コマ目、画面いっぱいに丸顔の学制服を着た男が描かれている。窓の敷居に肘をついて頬杖しながら、男はしたり顔で「やっぱり別れるのか?」と訊く。学制服の金ボタンを首までしっかりと止めている。ギターをつま弾いている青年と違って堅実そうな男である。2コマ目、青年はギターを抱えながら「ああ……もう前から決めていたことなんだ」と言う。3コマ目、カメラは詰め襟の男を画面上部に青年を下部左に描いている。男は頬杖、立て膝の姿勢で「そうやって学費の心配もなくぶらぶらしてられるなんてうらやましい話だけどなあ」と言う。このセリフの吹き出し枠に隠れて、もはや鳥かごは見えない。青年は「まあ、そう言うな。いろいろとあってな……」と答える。詰め襟の男は学費の心配をしないですんでいる青年を羨ましく思っていたのだろうか。

 4コマ目、カメラは男の顔をアップ。男は頬杖の姿勢を崩さないままで「しかしまあ、女の金まで持ってドロンとは、お前も相当な悪になったもんだ」と言う。5コマ目、青年は男の言葉を受けて「アパートも探さなくちゃならないしな。彼女には理由を置き手紙で書くつもりだ」と言う。

 青年は女の金まで持ってドロンというのであるから、友達の男が言うように〈相当な悪〉である。青年は、それを否定しない。青年の顔の表情にやましさは見られない。逃げ去る理由を〈置き手紙〉で書くつもりだ、と言って事の深刻さから身をかわそうとしている。狡くて卑怯な男の臆病なやり方である。友達の男は、しかし青年の卑劣なやり方を責めない。

6コマ目、男は頬杖から腕組みの姿勢に変えて、ここでもしたり顔で「まあいい、とにかく車の手配は俺にまかせとけ」と言う。逃亡の手配を引き受けた以上、男が青年の共犯者となったことは明白である。7コマ目、青年は点眼を男に向けたずるそうな顔つきで「すまない……このままだと俺もだめになっちまうしな……」と言う。

このままだとだめになっちまうのではなく、青年はもうすでに十分に〈だめ〉であり、女の留守に女の金を盗んでトンズラしようと思うこと自体が人間の〈くず〉を証明している。こういう卑劣な青年の要請に応える男も同様に〈くず〉である。8コマ目、画面いっぱいにギターを「ボロロロン」とつま弾く青年の右手が描かれている。まさにこの青年と男の〈ボロ〉さ加減を容赦なく端的にギターの音に重ねて表現している。

 ギター青年と詰襟男の二人が共に〈ボロ〉であるから、いわば彼らの関係そのものがボロボロである。宮沢賢治の「注文の多い料理店」に登場する二人の紳士と同じく、彼ら二人の対話からは、相手の欺瞞や卑劣が告発され糾弾されることはない。彼らは現実の表層を狡く立ち回ることしか考えていない。目先の欲望をそのつど満足させながら生きながらえようとする志向性で生きているだけだから、実存的な問題、たとえば人間いかに生きるべきか、と言った問題にもだえ苦しむこともない。

彼らに欠けているのは同情心、相手の心を思いやる想像力である。こういったひとは、相手の心が何に疼き、何を苦しみ喜んでいるのかを察して、共に苦しみ喜ぶことができない。青年は女を抱いて肉の喜びを感じることはできるが、それは一方的な射精の喜びに過ぎず、相手と心身ともに脱魂しているわけではない。女もまた〈死〉をはらんだセックスを自己演技することでエクスタシーを感じてはいるが、青年との本来の一体感に溶け込んでいるわけではない。さて、漫画は次にどのような展開を見せるのであろうか。

 次の14頁(雑誌のノンブルは157)は奇数頁(左)で前頁(右)と見開きで見ることができる。が、前頁最後のコマ絵からは時間ないしは日数が経過している。男が帰ったその日の夜なのか、それとも何日か経過しているのかは不明である。

1コマ目、画面上部右、女は着物姿で鏡台に向かって正座し、身だしなみを整えている。鏡は描かれた限りで見ると二面鏡で、その鏡面は幅の広い斜めの黒線と白線で描かれている。理容店の前でよく見かける回転広告灯の模様と同じである。漫画作品において黒で描かれた線や面は、黒以外に濃い青や赤を表している。この画面は白黒で描かれているが、カラーで描けば、女が向かっている鏡面には鮮やかな血の色が塗られることになったであろう。その意味でこの鏡は、これから起こる恐るべき事件を鋭く告知していると言える。

画面左のぴったりと閉められた襖、女と青年の座っている六畳一間の畳、大きな黒いテーブル、それら何でもないようなものが、この〈赤い血〉が塗り込められた鏡を通して見ると、一挙に事件の現場へと変貌するのである。女が鏡を見ながらのぞき見ている光景は、まさにこの余りにも日常的な光景に血吹雪が飛び散る異様な光景なのである。

画面中央やや左に描かれた、机に向かって本を読む青年は、相変わらずのほほんとした間抜けな顔をしている。読者は青年のアホ面だけを見て次のコマ絵に目線を移してしまうと、この1コマ目の構図が潜めている、恐ろしい計算されつくしたものを見落とすことになる。鏡に向かって、青年と読者に背を見せている女の正面の顔を、その内部世界を〈赤い血〉が滴り落ちる鏡面の奥からのぞいて見たらいい。そうすることによって、つげ義春的な日常的な絵柄の〈六畳一間〉が一挙に日野日出志独自の妖艶なおどろおどろした原色の光景に一変するのを体験することになるだろう。

 2コマ目、女が青年の方へ顔を向けた瞬間の顔を正面から捕らえている。女はきれいにセットした髪に左手を添えながら「あら………めずらしくお勉強ね」と声をかける。この女のセリフから、いかに青年が学生としての本分を果たしていなかったかが分かる。女の表情にかすかなかげりが見えるのは、青年が普段とは違って勉強していることにあるのではなく、普段と違っていることそのこと自体の〈変化〉に、青年の潜めた内心のドラマを直感したからにほかならない。

女は青年の微塵の変化も見落とさない。女のまなざしは、青年の能天気な頭ではとうてい考えもつかないようなことまで見通す力を持っている。女の細めた切れ長の目は、前コマで六畳一間の日常を血染めにした、そのドラマを演出した眼であったことを忘れてはならない。3コマ目に描かれる青年の顔は、女の内心のドラマを少しものぞき見ることのできない、アホ面の典型として描かれている。そのセリフも「う、うんまあね」といった、アホ面にふさわしい陳腐なセリフで、まったく救いようがない。

 4コマ目、女は開けた襖戸から右半身を覗かせ、「じゃあ行って来るわね」と言う。右手を襖の端に添え、顔の上部(頭)はコマ枠上線で切り落とし、顔の左部分を襖戸で隠している。この構図にゾッとする感覚を覚えない読者はもはや日野日出志漫画の読者足り得ないであろう。

女は青年に対しても読者に対しても、顔半分しか出してはいない。女は裸体を青年に晒しても、精神の領域に関してはその半分も表に出さない。女は今、敷居という、きわめて危険な境界に立って言葉を発している。「じゃあ、行って来るわね」のセリフは、いよいよこれからとっておきの恐ろしいドラマがはじまるわよ、という予告宣言なのである。

青年は友達の男に話していたような、自分勝手なドラマの脚本を作ることはできるが、女がインクのついていないペンで書き上げたシナリオを読みとることはまったくできない。気の毒なほど想像力のない、ただ肉体だけを鍛え上げて女の肉欲に奉仕してきたこの能天気な若者は、せめて自分の愚かさ、弱さを知っている者として描かれていれば、少しは読者の同情を買うであろうが、作者は冷酷なほどこの若者を一貫してアホの次元にとどめている。

5コマ目画面右に描かれた青年の顔はどこから見てもアホな顔である。純粋で無垢なアホ面というのもあるが、ここで描かれた青年の顔は、狡くて卑怯な、自分勝手な男のアホ面である。問題はなぜ、こんなアホな青年に女が惹かれたのかということである。

 6コマ目、画面右に窓際に立って仕事に出かける女を眼下に見下ろす青年の上半身が大きく描かれている。画面上部左、黒くベタ塗りされた闇の空間に「よし! 決行だ!!」の文字が浮き上がる。青年の顔の上部には何十本もの細い縦線が描かれ、彼のやましさが浮き彫りされているが、この「よし! 決行だ!!」は女の抱えた深い深い闇の領域から発せられた言葉であったことも確かである。

二階の窓から女を見下ろす青年は、闇の道を歩いていく女の内心の言葉を聞くことができない。作者は二人のどうしても埋めることのできない断層を、上の青年と下の女、右の青年と左の女の構図で見事に描いている。女が締めている帯の二つの菊模様の図柄は、夜空に打ち上げられた花火のようにも見える。闇の夜空に一瞬美しく咲いて消えていく、そんな花火を腰に負って女は夜の商売へと出かけていく。日野日出志が描くコマ絵は、文字で記された何十倍もの情報を発信している。この絵の情報をはてしなく読み解いていく快楽を満喫するのが私の批評行為である。