意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載5)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載5)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

「文芸GG放談」のため熱海駅に着く。山崎行太郎清水正(右)
罪と罰』は何回読んでも発見がある。ドストエフスキーの全作品の中で、わたしが最も多く批評したのが『罪と罰』で、いつ読み返しても面白い。何回も批評しているので、繰り返しも多いが、その繰り返しにも飽きない。もし、わたしのドストエフスキー論の熱心な読者がいて、発表しているものを全部読んでいたとすれば、ああ、これは前にも読んだよ、と思うに違いない。それもこれも承知の上でのわたしの批評で、繰り返しをおそれていると先にすすめないのである。達人剣士が一刀両断で相手を切り倒す、そういった批評ではドストエフスキーの作品は批評できない。小林秀雄流の批評スタイルではドストエフスキーの作品の深奥に迫れないのである。行きつ戻りつ、傍から見れば同じ場所を何回も往復しているだけに見えても、そういったやり方、批評の槍先をネジ式に回転し続けなければ奥へと進めないのである。一刀両断的批評ではもはや太刀打ちできない強固な岩盤が、ドストエフスキーのテキストということである。
 ドストエフスキーの作品は大きな時間・空間的な広がりをもった舞台であり、その奥行きも深いので、ネジ式回転を実行し続けていると、思いもかけぬような発見がある。マルメラードフは後妻のカチェリーナに関しては饒舌に語るが、最初の妻、ソーニャの母親に関しては完璧に沈黙を守っている。描かれたことはもちろん重要だが、それ以上に重要なのが描かれていないことである。エピローグで、ロジオンの傍らに突然出現したソーニャを実体感のある〈幻〉(ヴィデーニィエ=видение)、それをキリストがソーニャの姿を借りて現れたヴィデーニィエと見れば、ソーニャの母はキリストの母マリヤということになる。こういった想像力を駆使した批評を快く思わない研究者もあるだろうが、わたしは作品の〈読み〉は限りなく開かれたものであったほうがいいと思っている。批評は作品に描かれた人物や思想や世界とどこまでも対話的に関わっていくことで〈再構築〉される。それがわたしにおける〈読み〉であり〈批評〉である。小さな遊園地の子供用のブランコに乗って牧歌的な遊びに満足する〈読み〉も内包するが、その時点にとどまることなく、ディズニー・シーのジェットコースターにも乗るし、想像力で宇宙の果てまで遊泳するのもわたしの〈批評〉なのである。
 大学のゼミでソーニャの処女を奪った男、ソーニャの最初の男探しをしたこともある。ロシアの最新思想にかぶれて、穏健な革命運動家としてソーニャに接していたレベジャートニコフ、彼はソーニャにリュイスの「生理学」を貸したこともあり、ソーニャをそれなりに愛していたことはたしかであろう。淫蕩漢のスヴィドリガイロフ、彼が娼婦ソーニャと性的関係を持ったとしても不思議ではないが、彼が八年ぶりにペテルブルクへやって来た時、すでにソーニャは黄色い鑑札を受けた娼婦であり、時期的に合わない。そこで最も有力な〈最初の男〉として浮上してきたのが、マルメラードフの再就職の機会を与えてくれた閣下イヴァンということになった。この閣下のことをマルメラードフは〈善良な人〉(ボージイ・チェラヴィェーク=божий человек)と言っている。江川卓は〈生神さま〉とまで訳している。マルメラードフの告白の表層だけを読んでいれば、イヴァン閣下はペテルブルク中で誰も知らない者はいないほどの善良なお方、神のようなお方だということになる。だが、イヴァン閣下がソーニャの最初の男だとすれば、マルメラードフが発した言葉の裏に隠されていた声にならない声は、表層のものとはまったく違ったものになる。イヴァン閣下は、ペテルブルクの貧しい家庭の若い処女を不断に狙っている漁色家ということになる。イヴァン閣下はいい獲物を手にするために、女衒のダーリヤ・フランツォヴナと連絡をとっている。ペテルブルクの裏社会では、ダーリヤのような女衒が街の高位高官と密な連絡をとっていつでも新鮮な獲物を提供していたのである。ダーリヤの闇ネットワークのうちには、マルメラードフ一家が住みついていたアパートの家主アマリヤ・リップヴェフゼルも含まれている。いわばアマリヤはぼろアパートの家主ではあるが、同時に女衒ダーリヤの手先ともなって、高位高官好みの上物を物色して情報提供していたのである。眼をつけられたのがソーニャであった。アマリヤは具体的な話をカチェリーナに持ち込んだ。もちろん、この話に関してはマルメラードフも知っているし、当のソーニャも知っている。つまり『罪と罰』の表層テキストでは何一つ書かれていないことが、その描かれざる舞台裏では着々と進行していたのである。女衒のダーリヤは『罪と罰』の中ではその名前しか登場していないが、この裏舞台でのシナリオが見えてくると、ダーリヤとイヴァン閣下、ダーリヤとアマリヤの内密な会話場面が鮮やかに浮上して来る。元貴婦人カチェリーナに「この穀つぶし、ただで食って飲んで、ぬくぬくしてやがる」と罵倒された時、ソーニャは「じゃ、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、ほんとに私そんなことしなくちゃいけませんの?」と言葉を返している。つまりソーニャはカチェリーナから要請された〈そんなこと〉の内実をよく知っていたということである。その内実も知らずに『罪と罰』を百年にもわたって読んできたという〈読み〉の歴史を考えるとゾッとする。
 『罪と罰』はロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの〈踏み越え〉に関しては逐一報告するが、ソーニャの〈踏み越え〉に関してはいっさい照明を与えない。「なにを大事にしてるんだい! たいした宝物でもないくせに!」元貴婦人カチェリーナの罵声を黙って受けて、ソーニャはプラトークをかぶり、マントを羽織ると五時過ぎに部屋を出る。帰って来たのは八時過ぎである。ロシア語の時計の読み方で言えば〈第六時〉から〈第九時〉までの三時間の間に、ソーニャにおける〈踏み越え〉のドラマ、処女をイヴァン閣下に銀貨三十ルーブリで売り渡した屈辱のドラマが展開されたということになる。ソーニャの最初の男が特定されなければ、ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉の場面は闇に覆われたままで終わってしまう。マルメラードフが〈善良な人〉と言った高位高官のイヴァン閣下の抱え込んでいる闇もまた永遠に浮上して来ることはなかったであろう。〈生神さま〉のようなイヴァン閣下が〈警察に何度も厄介になっているような性質の悪い〉女衒のダーリヤと裏で〈取り引き〉していたことも見えてこなかったであろう。ドストエフスキーの作品は、深くのぞき込まないと見えない深淵を何層にも渡って秘め隠している、恐るべきテキストなのである。