意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載6)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載6)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

「文芸GG放談」前、食堂で寛ぐ。清水正山崎行太郎。熱海「ラ ビスタ」にて。2010-12-26
 読者がソーニャの〈踏み越え〉のドラマを知ることができるのは、マルメラードフの語る告白話においてである。実際のソーニャの〈踏み越え〉がどのようなものであったのか、それは読者の想像力に委ねられている。もし、ドキュメンタリー映像作家が、ソーニャの後をずっと追ってカメラを回し続けたならば、恐るべき現実、『罪と罰』の表層をのみなぞって来た読者の肝を抜いてしまったであろう。〈善良な人〉〈生神さま〉の淫蕩の実態が余すところなく暴き出されるであろう。が、文学の恐ろしさはその時点にとどまっていない。

十年以上も前になるが、ある時、ゼミでソーニャがイヴァン閣下に処女を銀貨三十ルーブリで売り渡したという話をしていた時、一人の女子学生が鼻先でフフンと笑って「ソーニャが処女だって・・・」と呟いた。その呟きには、「先生、女のことが何もわかっていないのネ」というニュアンスがこめられていた。わたしは、この呟きにハッとした。なにしろ、わたしは初めて『地下生活者の手記』を読んだ時にも、地下男と娼婦リーザの間に性関係があったとは思わず、頑強にそのことを主張した前科がある。わたしの女に対する思いは、当の女から見ても、ずいぶんと初と言おうか、甘いところがあるらしい。

「私、そんなことをしなければならないの」と言って、ソーニャがプラトークをかぶり、マントを着て閣下イヴァンの屋敷へ向かった時はすでに十八歳である。〈そんなこと〉がどんなことか十分に分かっているソーニャが〈処女〉であったという保証はない。作者はソーニャが処女であったと明確に記しているわけではない。例えば、マルメラードフは告白話の中でソーニャのことを「いったい貧乏ではあるが、純潔な娘がですよ、まともな仕事でどれくらいかせげるものでしょう? 純潔一方で、腕におぼえのない小娘じゃ、日に十五カペイカもかせげやしませんや」と言っている。マルメラードフはここで娘のソーニャを〈純潔な娘〉〈純潔一方〉と見なしているが、作者はそのことでソーニャの〈処女〉であったことを保証しているわけではない。

こういった見方はソーニャに対して余りにも不当な、底意地の悪い見方なのか。しかし、何度も言うようだが、『罪と罰』には描かれていない膨大な場面が秘められている。読者はソーニャの母親のことを全く報告されない、ソーニャがどのような育てられ方をしてきたのか、ソーニャが性についてどのような思いを抱いていたのかについても知らされない。要するに、読者はソーニャやドゥーニャの男性関係についてまともな報告を何一つ受けていないのである。

もし、ソーニャが処女でなかったとしたら、ソーニャの〈踏み越え〉はこれまた違った色合いに染めあげられることになる。〈処女〉でないソーニャに、銀貨三十ルーブリを報酬として与えたということになれば、閣下イヴァンはまさに〈善良な人〉ということになろうか。いずれにしても、わずかに書かれたことから、描かれざる場面をどのように想像するかで全く違った光景が浮かび上がって来ることになる。

ソーニャのパンツのことを思って唖然としたこともある。十九世紀ロシアの若い娘がどのような下着を身につけていたのか。改めてそんなことを考えたら、何も知らなかったことに唖然としたのである。神はあるのかないのか、神がなければすべては許されているのか、ロジオンの〈踏み越え〉はどんな意味を持っているのか・・・ああだ、こうだと考え続けて、何度も『罪と罰』を読み、批評し続けて来たのに、娼婦とならざるを得なかったソーニャがどんな下着をつけていたのかも知らずにいたのである。その時、どっと疲労感に襲われた。

娼婦ソーニャはどんな避妊手段をこうじていたのか、当時の娼婦たちは妊娠した場合どんな処置をしていたのか、そういった具体が分かって初めて人物が血肉を備えたものとして読みとれるのに、いわば基本中の基本も分からないままに『罪と罰』を読んで来たことに我ながら呆れてしまったのである。わたしたち読者に見せられたソーニャはいわば彼女の半身であって、他の半身は深い闇にまみれている。ソーニャが抱え込んでいる、読者に報告されていない闇の領域に一歩も踏み込むことなく、何か分かったような口をきいてもしようがない。