猫蔵の「生贄論」連載7

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載7)


猫蔵


【原爆パイロット】
 米国人クロード・イーザリーのことは、三島由紀夫の小説『美しい星』で知りました。イーザリーは、広島に原爆を投下したエノラゲイ号を先導するストレートフラッシュ号の機長であり、後に「発狂」という末路を辿った人物と言われています。三島は作中、イーザリーと思しき米軍パイロットについて、「あの広島における原爆投下者が発狂した理由。それは、みずからが手にかけてしまった者たちの痛みが、露ほども共有されないことを知ったゆえ」「原爆投下の後も、キャンディを舐め続ける平穏な時間が、何者にも犯されることなく流れ続けた。」と書いています。
 イーザリーの実像を読み解く一助として、彼が、ドイツの反核派哲学者アンデルスと交わした往復書簡『ヒロシマ・わが罪と罰』が残されています。イーザリーの搭乗するストレートフラッシュ号は、原爆投下機エノラゲイ号に先立ち、広島上空の気象観測を行い、いわば「ゴーサイン」を出す役割を担った天候観測機でした。
 「原爆作戦に加担したゆえ、良心の呵責に耐え切れず、精神に異常をきたした」という原爆パイロット・イーザリーの像。これは、後に自殺未遂や郵便局、雑貨屋へ強盗に入り逮捕される(※1956年の事件は特に奇妙なもので、食料品店に銃で押し入り、80ドルを奪う。が、すぐに戻って来てその金の入った袋を軒先に置いて逃げ去る)など、複数の問題行動を繰り返すイーザリーの、自己弁護であったとの指摘もなされています。そしてまた、三島が『美しい星』の中で書いた"原爆投下者"としての認識も、事実とは大きく異なります。しかし、だからと言って、イーザリーが一切心の痛みを感じなかったと言い切るのも誤りでしょう。彼が「神の沈黙」の前に突き出され、棒立ちになってしまった瞬間は確かにあったはずです。そこに、可能な限り寄り添いたい。(後年、イーザリー自身がマスコミに対し、自分が「原爆投下機を"率いていた"」旨の誇大な発言をしたり、彼を"原爆投下者"とみなしていた当時の世論を積極的には否定しなかったこと等、彼自身に問題があったとしても、です。その後、イーザリーに纏わる幾つかの"嘘""矛盾"が書籍で指摘されるに及んで、マスコミはイーザリーを「ペテン師」と一斉に叩き、それまで彼を「苦悩するアメリカの良心」と加熱気味に報道していた世界の世論は、以後一切、掌を返した様に彼のことを扱わなくなります。それまで顧みなかった小さな"嘘"から、遂には反核運動そのものに水を差す形になったイーザリーは、まさに童話『狼少年』の主人公の様に、彼の証言一切に"嘘の烙印"を押されることとなりました。そして、イーザリーという人物は現在においてもなお、戦争に纏わる歴史的記憶の中で、「忘れ去られた存在」と言っていいでしょう。)
 イーザリーもまた、テキサス州の片田舎の、熱心なバプテスト派クリスチャンの家庭に育ったと言われています(彼自身が「洗礼」を施されたか否かは現在調査中です。彼の娘と思しき人物とコンタクトを試みたのですが、まだ返事を頂けていません)。その彼が、思いがけずその神の不在="空っぽ"を垣間見てしまった。その瞬間を起点に、論を進めていきます。
 その前に、そもそもなぜ、「神の不在」が"絶望"を導くのか?僕の様な無宗教者にとって、ここがすんなりと腑に落ちない部分でもあります。あの聖書の中のアブラハムの様に、命ほど大切であろうはずの、最愛の息子を捧げよと迫る"神"なる存在とは、一体何者なのでしょう?そしてそんな存在を、後生大事に抱え続けていく必要は、一体どこにあるのでしょうか?
 キリスト教においてイエス・キリストは、「人類全体の罪を背負って十字架に掛けられた」存在であるとされています。自らが背負った幸や不幸は、等しく他者と分かち得ることが可能だという幻想。僕はこの価値観を仮に「テレパシー幻想」と呼びたいのですが、このテレパシー幻想は、キリスト教のみならず、非キリスト教を含め、人類が根源的に備えた他者への幻想であることが、人類学を紐解くことにより伺えます。
 人類学者のフレイザーは著書『金枝篇』の中で、「元来、"王"とは生け贄の別名に他ならなかった」と考察しています。王とは元来、生け贄と同一の存在であり、死までの期間、特権的な地位を与えられた者のことであったと言います。王は、他者の災厄を一身に引き受け、やがて処刑されなければならない運命にありました。そしてその処刑は公開され、その記憶は公的に共有されたのです。加えて、前述した「蛇喰い」など、古典的な見世物小屋の芸が、その儀式の残滓の一端を留めていると仮定すれば。これらの芸に、"血"や"死"が付き物だということにも合点がいきます。
 「尊いものを殺める」ということと、それを衆目に晒すということ。そして、その記憶の共有。太古の時代、沈黙する神を前に、これらの過程を共有した者同士の結束は、現代人の僕らが想像する以上に深められたに違いありません。「自分を見放し、沈黙する神の前に"棒立ち"になっているのは自分一人ではない」という想いが、どれだけ個々の人間の心を癒したことでしょう。
 さて、クロード・イーザリーの運命に向き合いましょう。そもそもの始まりは1957年のこと。この年、ある事件が週刊誌に取り上げられたことをきっかけに、やがて世論は彼を、「原水爆時代のアメリカの良心」として取り立てました。ある事件とは、かつて米国を勝利に導いた一人の「原爆の英雄」が、今や片田舎で郵便局や食料品店に押し入り、逮捕され、精神鑑定を受けた末、軍人病院に収容されたというものでした。やがて週刊誌は、精神科医による「彼の異常行動と原爆投下との因果関係」に纏わる見解を誌面に掲載します。その内容は、イーザリーが「原爆投下という罪を犯しながらも、誰も裁いてくれないことに対し、良心の呵責ゆえ、あえて"罰せられるため"に犯罪を犯した」という以後の"定説"を人々に印象付けます。
 ただし、額面通りイーザリーを「アメリカの良心」と言い切ることには無理があるでしょう。そもそも軍役時代の彼は、功名のためなら抜けがけさえ厭わない、野心ある一軍人でした。仮に、彼の中にある"軍人としての野心"と、"ヒューマニズム"と名付け得るものを、比較するとしたら。当初のイーザリーはおそらく、前者を選び得る人間だったと僕は感じます。芥川龍之介の『地獄変』という小説に、燃え盛る炎に包まれた娘を前に、絵師である父親が、わが娘の死に際の美しさに魅入り、黙々と写生し続けるという描写があります。これを、現代に置き換えて想像すれば。兵器開発専門のある科学者が、ひたすらその探究心に乗じ、いかに効率よく人を殺せるかの研究に没頭するといった赴きでしょうか。
 本人の自覚の有無に関わらず、あえてイーザリーという男に"原罪"なるものを見出すとするならば。イーザリーの原罪は、いわば軍人的「理想」を達成する手段として「他者」を犠牲にすることも厭わないという、その"野心"にこそあったのではないでしょうか。しかし、残念ながら彼は、その望みを達成することに失敗します。詳細は後述します。
 やがてイーザリーは、自らが所属するアメリカ軍と距離を置かざるを得なくなります。その結果、寄るべなき彼が身を置く様になったのは、軍と真っ向から対立する価値観でした。つまり、「ヒロシマ」と「反核」です。
 義人ヨブが友人たちから言われのない非難を受けるのに対し、いわばイーザリーは、"原爆パイロット"であるが故に、"ヒロシマ"に纏わる人たちからやがて待望される"偶像"となっていったと言ったら言い過ぎでしょうか?原爆パイロットだった彼が、原爆投下に加担したというその罪に対する"自責の念"に駆られ、自らを罰するために、奇妙な犯罪を繰り返すという、悲劇の「イーザリー神話」。星条旗の"英雄"を志したにも関わらず、軍から放り出された彼が身を寄せた"場所"は、まさにここでした。やがてイーザリーは、間違いなく彼自身のことを"恨んでいるに違いない"と考えていた人々が、思いがけず、彼に対して好意的であることを知ります。
 そして世界的世論は、ある時期において、彼の生涯をハリウッドにて映画化しようと試みます。これは最終的には実現しませんでした。しかし、この状況を指し、イーザリー自身は自らを、書簡『ヒロシマ わが罪と罰』の中で、「銀貨30枚で師イエスを裏切ったユダ」に例えています。映画化の話を前に、イーザリーは、映画に出演することへの影響を含め、「僕の今後の生活」が、「僕がすべての人に対して負っている責任にふさわしい形で利用されることが必要なのだ」と述べています。そして、この様に後半生を送ることができてこそ、「僕ははじめて罪から解放された気持ちにひたれるだろう」と、哲学者アンデルス宛の手紙にしたためています。そうでなければ、「どれほどの名声を得ても、それはユダが師イエスを裏切って得た銀貨30枚に等しい」と書きます。

日野日出志体験』の表紙・背表紙



清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。