ネット版「Д文学通信」5号(通算1435号)。岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載3)

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ネット版「Д文学通信」5号(通算1435号)           2021年10月30日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第3回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

二、哲人たちの哲学の根底

 

フリードリヒ(・ヴィルヘルム・ニーチェ)少年の苦闘 自身の信仰を懐疑した先駆者にとっての自我、学問、母、女性

 

 我々個々の人間は、幼少期には「神」や「宗教」の語もまだ知らず、「知性」や「理性」の語も知らず、プラトンデカルトもカントもヘーゲルも知らず(ほとんどの一般国民は、これら哲人たちの名さえ知らずに一生を終えるが)、世の為政者や宗教勢力、哲学学閥、学校教育、親たちがいかなる思想を自分たちに植え付けようとしているかも、全く知らない。

 我々個々の人間、いや選ばれし哲人たちが実人生、とりわけ「神」や「宗教」を深く考えない幼年期・少年期に自我といかに向き合っているかを、日記や自伝、哲学書や小説から追っていくことほど、彼らの生涯の「神」観や「宗教」観の神髄に迫ることのできる作業はない。

 なぜなら、「神」や「宗教」を知る前から、(例えば、既存の西洋の学術界や、戦前の教育勅語や戦後の学校教育法・教育基本法が勝手に前提し、西洋諸国民や日本国民に教育しているところの、日本では日本的なるものに偽称・仮冒した)西洋的自我について考えたことのない人は、日記・自伝にそのような記述が存在しないから、こちらも出会うことはないし、反対にそれを考えて記述し残している人は、必ずや哲人で、見るに値するからである。自我の葛藤を記録していない哲人も多くいるが、記録している人間は必ず哲人である。

 今、「神」や「宗教」への具体的対応を語る前に、哲人たちの若年期の凄まじさを、(一介の少年であったと言いたいが、幼少期から哲人であったと今や自負する)私自身の前述の若年期との比較で見ておこうと思う。ちなみに、誤解なきように断っておくが、私は今は自らを(幼少期も含めて)哲人の一人だと思っているが、最初に私のことを天才や哲人ではないかと言ってきたのは、先に述べた通り、両親でも自分でもなく、学校の先生や知人・友人たちである。

 私の場合、大学そのもの、自国の教育制度そのものを降りるという、あまりに急進的な行動をとったので、学界・学歴のエリートと言える後述の哲人たちと実人生は全く異なる。しかし、自我の葛藤様態においては、共通点のほうがあまりに多いのである。

先のような幼少期・少年期に特有の自我の葛藤は、当然ニーチェも経験しているが、むしろ、ニーチェだからこそ、西洋の群衆道徳の嵐の中でそれを自力で経験できた。私の場合も幼少期に、哲学だのニーチェだの神だの宗教だのといった単語を知る前から体験していたが、ニーチェもほぼそうであったと思われる。

 先の私の自我の葛藤(近現代の個人の発達過程において否応なしに要求される西洋的自我の芽生えに対して、実存の本拠である東洋的自我を守らんとする戦闘疲労)は、当然日本人としての経験と語り口調ではあるが、ニーチェの自我の葛藤は当然、対東洋のものではなく、対ドイツ国民のものであり、事実上、対キリスト教のものであった。少年期のニーチェ自身はそうとは気づいていなかったと思う。

 無論、このような葛藤体験の宗教的事情は、個々人によって異なっている。ニーチェの自我の葛藤は、一応はキリスト教信仰のうちに行われた葛藤である。父カール・ルートヴィヒは敬虔なルター派の牧師であり、母フランツィスカも牧師の娘であった。しかも、父カール、弟ヨーゼフ、伯母アウグステ、祖母エルムトーテの死を立て続けに経験する中での、自我の葛藤である。この頃は、キリスト者としての厚き信仰がニーチェを慰めたのである。フランツィスカも、当然ニーチェを牧師とすべく教育した。

 私は、キリスト教信仰なしに自我の葛藤を展開し、かつ祖母の死を二十代に経験したのみであるから、ニーチェ少年の悲しみに思いを致すという作業が私には必要であった。もっともこれには、私が小学生時代に経験したいじめ(友人の喪失・不在)や、いじめ相談への教師の素っ気ない対応(師の喪失・不在)という私の喪失体験が相当するかもしれない。しかし、「喪失」や「不在」の意味がやはり違う。私は、親の元へ駆け込むことができたので、超越存在への信仰が不要であったにすぎない。

 そして、ニーチェと私との共通点と言えば、肉親の女性に愛されて育ったことである。ニーチェは、母から職の具体的な道を無理に示されなかった私とは違い、牧師になることを母から期待されたが、概ね溺愛されて育ったと言える。それに、兄の学の内容自体への関心は強くないにもかかわらず、その学才を憧れて追いかけている活発な妹エリーザベトもいた。私にも、全く同様の妹がいる。ニーチェは、母、妹、祖母、伯母二人、女中の合わせて六人の女性に囲まれて育った。

 肉親以外の女性との交流と言えば、ルー・ザロメとの関係が挙げられる。ニーチェは最終的に、ルーへの求婚を断られたものの、ルーはニーチェの芸術活動にも参加した上、哲学の良き助言者でもあって、ニーチェはルーの存在に少なからず心を慰められたであろう。

 キリスト教信仰と肉親の度重なる死は、私とは異なるが、私が自我・自分とは何かという問題(つまり、対社会的文脈を離れれば、私の実存にとっては最初から解決済みの問題)を日本の群衆迎合主義(哲人には解決済みのことを、逐一「社会」へ引きずり込もうとする悪習)への疑念として受け止めたのと同じく、ニーチェ少年も、ナウムブルクの小学校、私塾、ギムナジウム、プフォルター学院、ボン大学ライプツィヒ大学と歩みを進める中で、自我・自分とは何かという問題がドイツ群衆への疑念、次いでキリスト教道徳への疑念へと発展したに違いない。とりわけ、プフォルター学院への転学によってキリスト教を離れたことが、信仰への懐疑と哲学の萌芽へとつながった。

 バーゼル大学教授となったニーチェが最初に発表したのは、アポロン的造形とディオニュソス的音楽とを拮抗・競合させた総合芸術論『悲劇の誕生』であったが、まずは元キリスト教少年としてのニーチェの基層を押さえる必要があるだろう。

 ニーチェがいわゆる弱者道徳、畜群道徳、僧侶道徳、奴隷道徳、君主道徳などについて、哲学概念として学的に解説するのは、生前には未発表だった『権力への意志』の草稿を除けば、『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』、つまりは最後方の著作群においてだが、ニーチェにとっても、少年期の経験からするに、「我」にとっての肉親の死への悲しみと大衆の倫理が別次元で動いていることへの違和感が、最初の哲学であっただろう。

 今ここで、これら「弱者(畜群、僧侶、奴隷など)の道徳」と「強者(君主、貴族など)の道徳」の概念を、ニーチェの言葉遣いで確認しておこう。これらの勇ましい言葉は、私が本稿で展開する群衆道徳論、「神のすり替え」論にとって、大いに頼り甲斐のある根拠となるであろう。本稿では、まずはこれら道徳と神の問題を論じた上で、後半で『悲劇の誕生』などを元にした総合芸術論を展開することになるであろう。

 

 誰の権力への意志が道徳であるのか? ――ソクラテス以来ヨーロッパの歴史において共通しているものは、道徳的価値をその他すべての価値の支配者たらしめようとの試みである。そのため道徳的価値は、生の指導的審判者であるべきであるのみならず、1) 認識の、2) 芸術の、3) 国家的社会的努力のそれでもあるべきであるとされる。「改善」ということが、唯一の課題とみなされ、その他すべてのものはそのための手段(ないしは、その妨害、阻止、危険、したがって絶滅するにいたるまで攻撃さるべきもの・・・)となる。――シナにもこれと似た運動があった。インドにもこれと似た運動があった。

 これまで地上において巨大な発展のうちではたらいてきたところの、道徳的価値の側でのこの権力への意志は、何を意味するのか?

 答え――三つの権力がその背後にはかくされている、すなわち、1) 強者や独立者に対する畜群の本能、2) 幸福な者に対する苦悩する者や出来そこないの者の本能、3) 例外者に対する凡庸な者の本能。――この運動の巨大な利益、とはいえ多くの残酷や虚偽や偏狭がそれに加勢してきたのだが(なぜなら、道徳と生の根本本能との闘争の歴史は、それ自身、これまで地上にあった最大の無道徳性であるからである・・・)。

(『権力への意志』上 第二書 これまでの最高価値の批判 Ⅱ 道徳の批判

2 畜群 二七四 二七四―二七五頁)

 

 私たちが現に住みついており、昔から馴れしたしんできたもののうちに問題をみとめるということは、ごく少数の者にしかできないことである、――私たちの眼の焦点がちょうどそこに合ってはいないからである。(中略)

 ところで、神の信仰が消滅しているとすれば、あらためてこう問わざるをえない、「語っているのは誰なのか?」と――私の答えは、形而上学からではなく、動物生理学からえられたものである。すなわち、語っているのは畜群本能である。この本能が支配者たらんと欲する、だから「汝なすべし!」ということになる。――この本能は、個々人を全体の意味のうちでのみ、全体のためにのみ、承認しようとし、全体から離脱する者を憎悪する、――この本能はすべての個々人の憎悪をこの者へと向けるのである。

(同 二七五 二七五―二七七頁)

 

 ヨーロッパの全道徳は畜群の利益を基礎としている。すべての高級な稀有の人間たちは、彼らを際立たせるすべてのものが、卑小や毀損の感情をともなって彼らに意識されるのを悲しく思う。

(同 二七六 二七七頁)

 

 群居動物の弱さはデカダンの弱さがうみだすのとまったく類似した道徳をうみだす。すなわち、彼らはたがいに理解しあい、同盟する(――大きなデカダンス宗教はつねに畜群の支持をあてにしている)。それ自体では群居動物はなんら病的なものをもっておらず、きわめて尊重すべきものですらあるが、しかしおのれを教導することができず、「牧人」を必要とする、――このことを僧侶たちはわきまえているのである・・・

(同二八二 二八二頁)

 

 私は教える、畜群は一つの類型を堅持しようとこころみ、この類型から変質してゆく者(犯罪者その他)に対しても、また、この類型以上に高揚する者に対しても、この両面にむかってわが身を護ると。畜群のこの傾向は静止と保存とをめざしており、そのうちにはなんら創造的なものはない。

(同 二八五 二八五頁)

 

 おのれ自身をつかみそこねることなかれ! 心のうちで、利他主義の意味における道徳的命令がささやくのを耳にするなら、そのひとは畜群に属している。これとは逆の感情をもち、おのれの無私無欲の行為のうちに、おのれの危険を、おのれの迷誤を感ずるなら、そのひとは畜群に属してはいない。

(同 二八六 二八五―二八六頁)

 

 私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである、――しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に、独立者、ないしは「猛獣」その他も。

(同 二八七 二八六頁)

 

 これまで地上に支配して来た、或はいまもなお支配している多くの精粗様々の道徳を遍歴して、私は或る特色が規則正しく互いに回帰し、互いに連結しているのを見いだした。その挙句、ついに私には二つの根本類型が窺われ、一つの根本的区別が際立って見えた。すなわち、主人道徳と奴隷道徳とが存在する。(中略)

この第一種の道徳にあっては、「よい」と「わるい」との対立は「高貴な」と「軽蔑すべき」というほどの意味であることは直ちに気づかれよう。(中略)

――高貴な人間といえども不幸な者を助けるが、しかしそれは同情からではない。殆んどそうではなくて、むしろ却って力の充溢から生れる或る衝迫からである。高貴な人間は自分のうちに強力者を認めて尊び、更に自分自らを統御しうる者を、語ることと黙ることを心得ている者を、悦びをもって自分に対して峻厳と苛酷を行なう者を、またすべての峻厳と苛酷に敬意を表する者を尊敬する。(中略)

道徳の第二の類型である奴隷道徳については事情は異なる。(中略)奴隷の眼差しは、強力な者たちの徳に対して好意をもたない。彼は懐疑と不信をもつ。彼はそこで尊重されるすべての「よきもの」に対して敏感な不信をもつ。――彼はそこでの幸福はそれ自身、本物ではないと自分に説得しようとする。その逆に、忍苦する者にその生存を楽にするに役立つような特性が引き出され、照明を浴びせられる。ここでは同情が、親切な援助を厭わぬ手が、温情が、忍耐が、勤勉が、謙譲が、友誼が尊重せられることになる。――それというのも、これらのものはここでは、生存の圧迫を耐えるために最も有益な特性であり、殆んど唯一の手段だからである。奴隷道徳は本質的に功利道徳である。ここにあの「善」と「悪」という有名な対立を燃え上がらせる日床がある。(中略)この人間は善良な、欺され易い、恐らく些か愚鈍で、つまり《お人好し》なのである。奴隷道徳が優勢を占めるところではどこでも、言語は「善」と「愚」とを互いに近づけようとする傾向を示している。――究極の根本的区別はこうである。自由への渇望、幸福に対する本能、および自由感情の敏感さは、必然的に奴隷道徳と奴隷的徳性に属するが、それと同じく畏敬への、献身への技能と熱中とは、貴族的な考え方と評価の仕方に例外なく見られる徴候である。――ここからして直ちに、何故に情熱としての愛――これはわれわれヨーロッパ人の特異性である――が端的に高貴な由来をもつものでなければならないかが理解されうる。

(『善悪の彼岸』 第九章 高貴とは何か 二六〇 三〇八―三一三頁)

 

 最高の階級が同時に僧職階級であり、従ってその僧職的機能を思わせるような尊称が彼らの総称として特に選ばれているといった場合には、政治的優位の概念は常に精神的優位の概念のうちへ解消するというこの通則に対しては、差し当たりまだ一つも例外はない(もっとも例外の生じる機縁はあるけれども)。そのような場合に初めて、例えば「清浄」と「不浄」とが階級的区別の目印として対立することになり、そしてここにまた、やがて一つの「よい」と一つの「わるい」とが、もはや階級的でない意味において展開する。

(『道徳の系譜』 第一論文「善と悪」・「よいとわるい」 六 二九頁)

 

 ――僧職的評価様式が騎士的・貴族的評価様式から分岐し、やがてそれに対立するものにまで発展を続けることがいかに容易であるかと、諸君はすでに察知したことであろう。(中略)

あのユダヤ人たち、あの僧職的民族は、結局、ただ価値の根本的な転倒によってのみ、従って最も精神的な復讐の一幕によってのみ、自分たちの仇敵や圧制者に対して腹癒せをするすべを知っていた。(中略)

 諸君は誰がこのユダヤ人的価値転倒の遺産を作ったのかを知っている…… ユダヤ人があらゆる宣戦のうちで最も根本的なこの宣戦によって与えた巨怪な、かつ極度に宿命的なイニシァティブに関して、私は他の機会において筆にしたあの文句を指摘する(『善悪の彼岸』一九五節)――曰く、「ユダヤ人たちとともに道徳上の奴隷一揆は始まる」と。この一揆は背後に二千年の歴史をもっており、そしてそれが今日われわれの眼前から退いているのは、それが――勝利を得たからにほかならない……

(同 七 三一―三三頁)

 

 無論、私のような個人の人生においてばかりでなく、明治の西洋哲学の輸入期において、ニーチェを我が師として選択した思想家や文豪は多くいる。

 日本で初めて本格的にニーチェを受容・紹介したのは高山樗牛だが、樗牛は民衆に弱者道徳を見、日本主義、次いでニーチェ主義から日蓮主義へと舵を切った。その樗牛に影響を与えた日蓮主義者は、田中智學である。当初からニーチェの思想と日蓮・法華思想は相性がよかったのであるが、同時に日蓮の思想が日本国体学者らの間で、ニーチェの弱点を克服する仏教内の最高宗旨と位置づけられていることが分かる。

 そして、ショーペンハウエルニーチェなどのドイツの哲人たちをしつこく引用して、意図的に夏目漱石の英国風趣味に対抗したのが、森鷗外である。美学論争においては、高山樗牛が、あまり気の合わないはずの没理想主義・写実主義坪内逍遙に近い立場から鷗外を批判したことを見ても、鷗外は実は極めて徹底した理想主義的ニーチェ主義とでも言える思想を持っていたようである。

 ただし、ニーチェ実存主義ないし実存哲学の先駆者と位置づける前に、ニーチェ少年の悲嘆と孤独に正面から応答したのも、森鷗外であると思う。西部邁もやや応答しているが、高山樗牛や田中智學は、我々男子たちが幼少年期に体験したはずの悲しみの涙や母親のぬくもりへの回帰を恥であると見て、男権的な強者道徳と強靱な国体の建設に重点を置いている。日蓮の思想、国柱会に心酔した宮沢賢治には、まだいくらか、いや、大いに母・妹・女性への思慕が窺えるが、ナチスニーチェを利用したように、明治期の日蓮主義者たちも、ニーチェを男権主義的国体・国立戒壇の思想に利用している。

 だが、いくら男子の自我成立に涙と甘えは不要であるとする冷徹な覇権主義を要求される、欧米列強との世界戦争が目の前にあるからと言って、それを隠すのは、ドイツやフランスの民衆蜂起の強がりと同様、弱者の覇権主義である。私はこれを「射精の国体」と呼ぶ。対して、本稿の趣旨は「子宮の国体」への回帰であると言えよう。

 ニーチェの超人思想に男権主義が見られないと言えば嘘になるが、日本の国体主義者が誤解したほどではない。超人は、人の死を悲しむことや女に甘えることが永劫回帰することをも恐れない。強権的未来を目指して突き進んだところで、また同じ母という源泉から産まれ、完全に同一の男として実存させられる羽目になるのが、ニーチェのいう永劫回帰である。当時の日本主義や日蓮主義は、この点を切り落とす傾向にあったと私は考える。

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                        発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館で「松原寛と日藝百年」の展示会が開催されています。 

 

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