ネット版「Д文学通信」4号(通算1434号)発行。近藤 承神子「ドストエフスキーとベートーヴェン」
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ネット版「Д文学通信」4号(通算1434号) 2021年10月28日
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「Д文学通信」 ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ誌
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近藤 承神子(こんどう・たかし)
私は音楽が好きで、SPレコードのころからイタリア民謡やオペラのアリアを聞いてきた。カルーソの甘美な声を回転音の雑音の中から聞き取り、陶然としていた。LPレコードの最初は二〇センチのベートーヴェン「運命」を高校の放送室で先輩が聞かせてくれた。ノイズの少なさと、シンフォニーの音響に驚き、曲目の良さまで理解できなかった。電機大学へ進学した同級生にオーディオ装置を組み立ててもらい、セラミックカートリッジでLPを聞き、FM放送に耳を傾けた。やがて放送もレコードもステレオ時代に入り、世間でもオーディオ時代が始まった。中古レコード店に通い詰め、新譜は廉価版を毎月買い漁った。カートリッジはMM型、MC型にグレードアップする。
カセットやオープンリールテープテープにFM放送を録音してコレクションを増やした。スピーカは高価であったので二〇組ほど自作し、嫁入りもさせた。オーディオがブームになって、ブームになると自作よりも中古を購入したほうが安価であるので自然に自作から遠ざかった。やがてCDの時代に移る。けれどもアナログレコード再生の道具は手放さなかった。演奏の映像が加わり、今は大画面をサラウンド音響で鑑賞し楽しんでいる。当初は有名な名曲ばかりを集めていたが、次第に耳が訓練されて、オペラの全曲、バッハの受難曲やオラトリオが聴けるようになった。
剣豪小説の五味康祐氏は「日本人のベートーヴェン好きは、貧乏に由来する」と語っているが、貧しき少年の尻を叩いてくれるベートーヴェンに励まされて私の今日があると同意できるのである。
それでは借金まみれのドストエフスキーはどんな音楽を聴いていたのか、探ってみようと思った。河出書房新社の米川訳全集を書棚から取り出して先ず別巻の「ドストエフスキー研究」を開いてみた。そこの年譜をたどり音楽に関係する記述はないか、たどってみた。
一八二一年一〇月三〇日、軍医の父が勤務するマリインスキイ病院の傍屋で生まれ、一〇歳まで病院の塀の外を知らずに育つ。読み書きは四歳から母の手ほどきを受ける。
一八四八年の二七歳になるまで音楽との接点を示す記述は見当たらない。この年の秋、「文学と音楽のサークル」を作ることを計画してスペシネフに提案するも、共鳴を得られず、逆に精鋭的・革命的なサークルに変更されドストエフスキーらが巻き込まれるとある。この「文学と音楽のサークル」がどのようなものか、具体的なことは分からないが、芸術家たちのサロン風な集まりではないかと想像できる。
翌年の一八四九年一月、二八歳の時、ペトラシェーフスキイ会員として金曜会に毎週出席していたが、会員の一人として大作曲家グリンカに招待され、感銘を受ける。グリンカは、ロシア音楽の祖と言われ、一九世紀前半のロシアにおいて、真にロシア民族的な音楽の道を開き、ロシア五人組やチャイコフスキーたちの六〇年代に活躍する作曲家たちの出現に寄与したといわれる人であるが、彼の音楽に触れて感銘を受けたのか、招待されたことそのことに感銘を受けたのかは不明である。代表作「ルスランとリュドミラ」は一八四二年初演されている。
一八六二年三月、困窮作家研究者救済協会主催「文学と音楽の夕べ」にルビンシテイン、ネクラーソフ、チェルヌイシューフスキー等と参加。ルビンシテインは一八二九年生まれ、一九世後半のロシアの音楽活動を推進した中心人物。
リストと並び称されるピアノの名手。ロシア音楽協会、ペテルブルグ音楽院を創設、チャイコフスキーは第一回卒業生である。のちに教鞭も執った。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番はルビンシテインに献呈されるはずであったが、彼はそれを喜ばず、さんざん難癖をつけたためハンスフォン・ビューロウに献呈された。後日ルビンシテインが自己の非を認めて和解したというエピソードがある。救済協会主催の「文学と音楽の夕べ」のプログラムの内容は不明だが、作家の作品の朗読と、ルビンシテインのピアノ演奏が行われたと考えられる。
一八七八年一二月一四日ベストゥージェフ女子大主催「文学と音楽の夕べ」では「虐げられし人々」からネルリの物語をドストエフスキー自身が朗読しているが、音楽が何であったか不明である。
一八八八〇年三月、慈善少年院のための「文学と音楽の夕べ」ではカラマゾフの一部を朗読、師範学校生のための「文学と音楽の夕べ」に出席した時は「罪と罰」から「痩せ馬の夢」を朗読、いずれも音楽に関する情報はない。その後も講演があったり作品朗読はあるが、音楽にかかわる記述は見られない。また、年譜の年月日に該当する書簡上中下各巻を検索したが、音楽に関する記述は発見できなかった。
一八六七年二月一五日、アンナと挙式、四月一四日債権者を逃れて海外旅行に出立する。以後四年余帰国しないのだが、西欧にいる間に、音楽会の会場に足を向けていないか、検索したが、どの書簡も、ルーレットとにのめりこみ、持ち金すべてを失っての金策が際限なく続く。
挙式後間もなく、五月一日、ドレスデン美術館で、ホルバイン、ラファエル、ティチアーノ、レンブランド等を鑑賞、フランス画家、クロード・ロランの神話に材をとった風景画に、その幻想的な画面に深く感動する。八月一二日バーゼル博物館でホルバインの「イエス・キリストの屍」に接し、震撼される。こうした感動したという事実の記述は書簡の中からは見つけられなかった。出典がどこかについて、年譜編纂の近田友一氏は触れていないが、ホルバインの絵は「白痴」に登場する。あるいは創作ノートに登場しているかもしれないが確かめていない。
右のように美術の鑑賞に関しては幾つか取り上げられているが、音楽の作曲者名、曲名が年譜に取り上げられたことはない。
とあきらめたところで、書簡下一六六ページの中で、作曲者、曲名の記述を発見した。一八七六年七月一八日の長文の妻アンナ宛の書簡の末尾に次のような文が綴られていた。
「・・・・・・私の天使、今朝ベートーヴェンの「フィデリオ」の序曲を聞いた。これ以上の名曲はほかにない!これは軽い、優美な曲風だが、しかし、情熱がこもっている。ベートーヴェンのものにはどれでも、情熱と愛がある。これは愛と、幸福と、愛の悩みの詩人だ!・・・・・・」
「今朝」と言っているからラジオで聞いたのだろうか、アナウンサーが曲名を報じたのだろうか、ベートーヴェンの序曲は「フィデリオ」のほかに数曲あり「レオノーレ一番、二番、三番」「コリオラン」「エグモント」と、どれも名曲と思うが、曲名を言い当てるためには聞きこむ必要がある。曲名をアナウンスされたとしても「ベートーヴェンのものにはどれでも、情熱と愛がある」と言い切っているところはベートーヴェンが耳になじんでいる人の発言だ。もっと、作曲者や曲名、演奏の技量に関する発言があってもよいはずと思うが、これ以外には発見できなかった。無念。せめてこれから「フィデリオ」を聞こう。
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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正 発行所:【Д文学研究会】
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撮影・伊藤景