清水正  動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈虱〉(вошь) 連載2

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈虱〉(вошь)
連載2

 

 腹違いの妹リザヴェータを奴隷のようにこき使って支配しているアリョーナ婆さんは十四等官未亡人で、〈鬼婆〉ぶりを存分に発揮してため込んだ大金(約三千ルーブリ)は、彼女の死後、修道院へ永代供養として寄付されることになっていた。とにかくこの婆さんは『罪と罰』の中で、殺害前も殺害後も何一つ肯定的な照明をあてられなかった。アリョーナ婆さんは学生の語る醜悪な肖像とロジオンの生理的嫌悪感によって負のイメージを固定化されている。夫を失い、年中孕んでいるような性的に奔放な妹のリザヴェータと二人で、生き馬の目を抜くような現実を生きているアリョーナ婆さんの悲しみ、苦しみにロジオンの想像力はまったく働かない。わたしは十九歳の昔から、このことが不思議でならなかった。鋭い洞察力とものに感じる心を持っているロジオン、酔漢のマルメラードフやその一家の人々に深い憐憫の情をもって接することのできたロジオンが、なぜアリョーナ婆さんに限っては一片の同情も寄せることができなかったのか。なぜロジオンの〈良心〉はアリョーナ婆さんを社会に有害な一匹の〈虱〉と断定して、彼女を殺すことを許してしまったのか。わたしはロジオンの〈良心〉を善悪判断を下す絶対的なものと見なすことはできない。そもそもわたしは、ロジオンが自らの〈良心〉を疑っていないことが不思議であった。

 

ロジオンはある時は文字通り〈神〉を信じる者であるが、別の時には不信神者、〈神〉を冒涜する者として振る舞っている。つまり彼は救いようのない精神の分裂者である。ロジオンはドストエフスキーがデカブリストの妻フォン・ヴィージナ宛に書いた「私はたとえキリストが真理の外にあっても真理よりはキリストと共にありたい。が、私は同時に不信と懐疑の時代の子でもある」を継承する者である。が、彼はその分裂自体を冷徹に直視していた訳ではない。彼は〈神〉を信じる時には不信はなく、〈神〉を冒涜する時には信仰はないのである。このような分裂者は〈信〉と〈不信〉の間を悩ましく揺れ動くほかはなく、安らかな精神状態に至ることはできない。換言すれば彼は、自らの内部に〈信〉と〈不信〉を同時に内包した大いなる《我》として生きることができなかった。彼にあるのは〈神〉を肯定するか否定するかの二者択一であり、作者は最終的には彼に愛による復活を与えた。

 

 しかしわたしは復活の曙光に輝くまでのロジオンの〈信〉と〈不信〉の現場に執拗にこだわりたい。いったい彼の不信と懐疑は徹底していたのか。ここでは、アリョーナ婆さん殺しを許可した彼の〈良心〉に関して検証してみよう。業突く婆あの高利貸しアリョーナは社会にとって何の役にもたたない、否、役にたたないどころか却って有害であり、それは一匹の〈虱〉のような存在でしかない。この〈虱〉を殺して金品を奪い、それを元手に起業して成功した暁に、恵まれない多くの人々を助ければ、要するに一つの犯罪は百の善行によって贖われることになる。このような極めて単純な、小学生でも理解できるような理屈によってアリョーナ婆さん殺しは正当化される。この時、ロジオンは〈アリョーナ婆さん=虱〉を微塵も疑っていないし、〈虱〉の生存自体に生きる価値を認めていない。つまり彼はろくすっぽ考えもしないで、〈虱〉=〈害〉と決めつけ、そのことを〈良心〉によって保証してしまう。ロジオンが〈虱〉=〈害〉(ないし悪)と決めつける〈良心〉自体を懐疑しないのは、彼が人間中心のキリスト教的思想を前提としているからである。〈一匹の虫にも五分の魂〉をみとめる仏教徒にすれば、〈虱〉を〈害〉とか〈悪〉として一方的に排除することはできない。要するに、ロジオンの〈良心〉はキリスト教を前提にすれば〈絶対〉であるが、そのほかの様々な思想や神学を考慮すればたちまち相対化されることになる。