清水正の『浮雲』放浪記(連載190)

平成A年8月31日
富岡が死のうと思ったときは、彼の方からゆき子に速達を出した。わたしはまさかゆき子が富岡の求めに応じるとは思わなかったが、ゆき子は、待ち合わせの四谷見付駅に三十分遅れでやってくる。落ちぶれ果てた富岡に何の魅力があるというのか。女のリアリズムでいけば、『晩菊』のキンに軍配があがる。金を目当てに昔の女を訪ねてくるような男に冷酷無情な振る舞いで応えるきん
が女であって、約束を反古にし続ける男の呼び出しに答えるようなゆき子は女のリアリズムから逸脱しているのである。が、作者はそんなゆき子に、新しい、富岡抜きの人生を与えなかった。まるで作者自身が意地を張っているかのように、ゆき子は富岡を執拗に求めていく。わたしは、それを小説的必然性からの逸脱とまで書いた。この考えを撤回するつもりはない。唯一、ゆき子が富岡を追い続ける理由があったとすれば、それは富岡の〈体臭〉とセックス力でしかない。この富岡の〈体臭〉とセックス力が、彼の卑怯も臆病もすべて覆い尽くしてしまうのである。富岡はドストエフスキー作品の愛読者であるが、作者は富岡の精神世界、その知的領域に踏み込んで、その領域でのゆき子との関係性を描くことはなかった。富岡はその意味で、作者によって精神世界を封印された存在とも言えよう。富岡はニコライ・スタヴローギンの卑劣に自らの卑劣を重ねて見る瞬間も描かれるが、ドストエフスキー論を展開する口を全面的に塞がれている。作者林芙美子は同時代の小説家や詩人が、ドストエフスキーについて多弁を振るっていたことを冷厳に見ていたとも言えよう。林芙美子はある時期の小林秀雄ドストエフスキー研究をライフワークとまで考えていたことや、坂口安吾が『悪霊』を読み込んで、さらなる作品を創造しようと『吹雪物語』を書いたようには、ドストエフスキー作品と向き合わなかった。小林秀雄は晩年になってドストエフスキー研究を断念し、坂口安吾は『吹雪物語』を懊悩の末に中断した。富岡に『悪霊』を読ませても、富岡に『悪霊』論を口にすることを許さなかった。林芙美子に、小説家としての覚悟と自負を感じる。ドストエフスキーを読んで、熱狂的な讃辞をおくった武者小路実篤横光利一の後塵を拝するわけにはいかない。林芙美子は自らの道を歩み通さなければならない。
 富岡兼吾はニコライ・スタヴローギンの虚無と卑劣に自らの姿を重ねることはあっても、ニコライの道をそのまま辿るわけにはいかなかった。ニコライ・スタヴローギンがニコライ・スタヴローギンであるためには、母親のワルワーラが、家庭教師のステパン・トロフィーモヴィチが、そして彼の弟子格として設定された人神論者のキリーロフ、国民神信仰者のシャートフ、ステパン先生の子供と言われる革命運動の首魁者を装っていた二重スパイのピョートル・ステパノヴィチ、それに彼に深く関わった女たち、正妻のマリヤ・レビャートキナ、貴族の令嬢リーザ、彼の子供を身ごもったマリヤ・シャートワ、彼の精神的な看護役を務めたダーリヤなどを必要とした。もちろん富岡兼吾が富岡兼吾であるために、作者は加野久次郎、伊庭杉夫、妻の邦子、ダラットでの愛人ニウ、ゆき子、そしておせいなどを用意した。両者における決定的な違いは、前者が他の主要人物たちと逃げ隠れのできない対話場面に登場しているが、後者においてはそれがほとんど行われていない。富岡は邦子と結婚していた友人の小泉、ゆき子の〈処女〉を奪い、後には正式の妾にした伊庭杉夫、ゆき子を愛して殺傷沙汰に及んだ加野久次郎、ゆき子が一時は心を癒された若い外人兵士ジョオ、富岡と深い仲になったおせいを殺した向井清吉などと、さしで徹底的に話すという場面を用意されなかった。対話場面は、主にゆき子と富岡に限定されている。その意味で富岡は、彼の〈体臭〉や〈セックス力〉に無関係な男の人物たちから、彼の卑劣を容赦なく告発されることを免れている。想像力の貧困な読者は、富岡の卑劣さ自体を見逃すことになりかねない。また成瀬巳喜男の映画『浮雲』だけを観ている者は、そのきれいごとの映像世界に容易にたぶらかせられるだろう。富岡兼吾役の森雅之から魅惑的な〈体臭〉や〈セックス力〉を直に感じることはできないとしても、全身から知的雰囲気と男の色気を発しているダンディな美男俳優に、人間としてのどうしようもない卑劣を感じ取ることは容易ではなかろう。森雅之ばかりではない。日本映画界屈指の美人女優・高峰秀子が演ずる幸田幸子が、もはや原作のゆき子から救いようもなく逸脱している。
 田中英司が「映画という魔界の出来事ーー成瀬巳喜男林芙美子」(「文藝別冊 林芙美子」2004年5月 河出書房新社)で次のように書いている。

  小説によって頭のなかで自分だけの映画を立派に構築している人は、程度の差はあるにせよ、概ね小説の映画化作品の細部に鼻白む宿命にある。小説が創り出す脳内映像は、時間、空間、色彩など、あらゆる制約から解放された究極の自由を得た映像であるにもかかわらず、目の前に展開する光と影によるお芝居はなんとおびただしい制約によってがんじがらめにされた不自由きわまりない創作物であろうかと、映画の弱点ともいえる部分がことさら眼に焼きついてしまうからだ。(166)

  あれほど感動したはずの映画なのに、その原作小説を読んで再見すると、どうしようもない駄作に思えてしまう。この映画鑑賞というものの頼りなさもまた、映画における神秘的な謎のひとつとして確実に存在しており、映画を研究する者とは、ときに「楽しむ」ことを捨ててでも、この謎の解明に取りかかりたいと願う酔狂な人間のことを指すのである(166