清水正の『浮雲』放浪記(連載191)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載191)
平成A年9月2日

 わたしは林芙美子浮雲』より先に成瀬巳喜男の映画『浮雲』を観た。原作を読まなければ映画は映画として魅力がある。が、原作を読めば、成瀬巳喜男の映画はきれいごとすぎるということになる。ゆき子に高峰秀子、おせいに岡田茉莉子をキャスティグした時点で、すでに原作から離れている。決定的なことは屋久島にロケーションしなかったことである。『浮雲』における最も重要な舞台となっているのが屋久島で、この舞台をセットで片づけてしまったことは致命傷である。確かに制作費の問題もあろう。製作時間の問題もあろう。が、ここにはもっと重大なことがある。ひとことで言えば、監督成瀬巳喜男が『浮雲』における屋久島の重要性を理解していなかったということにつきる。こういった指摘は、様々な制約のもとで作品を製作せざるを得ない映画監督に対して厳しすぎるかもしれない。が、やはり成瀬巳喜男林芙美子文学の真髄を掴みきっていなかったことは確かである。
 脚本を担当した水木洋子は、屋久島ロケーションの必要性を強く主張したが、結局ロケ嫌いの成瀬を説得することはできなかった。屋久島に実際に行ってみれば、誰もが屋久島をセットで間に合わせることの不可能を実感するだろう。屋久島の険しい崖を雨の中、命がけでトロッコで駆け下る場面など、セットではとうてい無理だ。尤も、この場面を屋久島でリアルにやるとなれば、まさに俳優もスタッフも文字通り命をかけなければならない。当然、莫大な費用がかかるし、製作期間も延びる。そんなこんなを考えれば、『浮雲』における屋久島の重要性を十分に理解していてさえ、ロケーションを決断することは難しかったかもしれない。
 その点、作品を読んで脳内映像を鮮明に構築することのできる読者は圧倒的に優位である。なにしろ、脳内映像は製作費がまったくかからない。必要とされるのは、作品を読み解き、映像としてイメージできる感性
と想像・創造力だけである。もちろん、脳内映像製作力に欠けているものは、他人が製作した映像作品で充足するほかはない。原作や脚本を読まない大衆相手の映画は、独自に脳内映像を作り上げることのできる観客など考慮する必要もなかったということになろうか。