清水正の『浮雲』放浪記(連載192)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載192)
平成A年9月5日 

田中英司は林芙美子を原作にした成瀬映画に関して小気味のいい辛辣な批評を展開している。成瀬巳喜男が最初に取り組んだ『めし』に関して「まず成瀬は林芙美子に対する思い入れを醸成させて『めし』という映画を監督したのではない。人気作家・林芙美子の絶筆小説「めし」は、六百万人の読者を有する朝日新聞に連載されていた話題作であり、映画化の企画としてはこの上なく強力なものであった」と書いている。多くの観客を獲得するための映画会社の戦略のために林芙美子の作品が利用されたまでのことということである。次作『稲妻』に関しては「映画『稲妻』を傑作と呼ぶ声は多いが、それが正鵠を射たものかどうかはともかく、林芙美子の原作が痛ましく改竄されていることは無視できない」と書いた後、次のように続けている。

 「稲妻」という小説は、芙美子が「一番悩み苦しんで書いた」「好きでなりません」(「私の仕事」)と告白しているほど情熱をそそいだ作品であるにもかかわらず、映画『稲妻』は小説の重要なポイントである「不具者からのまなざし」を排除し、芙美子が最も筆の冴えを見せ、シリアスなドタバタ劇として白眉であった「突然死」「強姦未遂」などのシーンをためらうことなく省略している。「稲妻」の小説に感動した心は、映画になった『稲妻』に、憎しみを仲介させた軽蔑を抱くのではないだろうかと懸念してしまうほど、ご都合主義の生ぬるさがこの作品には漂っている。(167)
田中英司の成瀬映画批評は的確で共鳴する。「成瀬は会社の求めに応じて律儀に仕事をしていたのであって、芙美子が命を賭して追求した芸術的主題に共鳴していたのではなかった」「映画『晩菊』を見て芙美子が満足したかどうかは疑問である。ここでもまた成瀬による原作小説の毒抜きは、ここでもまたさらにエスカレートしているからだ」「虚無をさまざまな視点から見つめ、読者を悪酔へ誘いながらも気持ちをゆさぶらずにおかない芙美子のすぐれた短編小説は、映画という器に注がれ、態よく酒精を抜かれ口あたりのいい甘酒のようにまろやかにされている」これらの評言は的確に的を突いている。田中が林芙美子の文学の本質に触れていたからこその評言である。田中は「秋その他」という林芙美子のエッセイから「日本にも主役の二枚目なんかをつかわずに、早くコセイのある端役ばかりをつかって、おもしろい映画を見せてくれるカントク氏がほしい」という言葉を引き出して見せる。このエッセイは文泉堂版林芙美子全集第十巻に収録されているが、よほど熱心な林芙美子の愛読者でなければ眼に触れることはないだろう。が、いずれにしてもこの林芙美子の願望は成瀬映画に対する深い絶望から発していると見ることができる。何度でも指摘するが、『浮雲』の幸田幸子を高峰秀子、おせいを岡田茉莉子にキャスティングした時点で、成瀬映画『浮雲』は原作『浮雲』とはまったく別物なのである。
 田中英司は林芙美子の『創作ノート』(燈社)の序文から「……技術がたくみなだけでちょろりと書いた作品など、私は吐気が来ます。どんなにおさない書きぶりでもいいのです。その作家自身が燃えて書いたものでなければ、それは芸術とは云いがたいのです」を引いた後に「このような熱を発動させて生み出された芙美子の作品が、口あたりよく薄められてしまいがちな名作映画となって人口に膾炙している事態に遭遇し、私たちは微笑みながら「映画の怖さだね」と呟くしかないのだろうか」と書いている。因みに燈社版の『創作ノート』(昭和22年8月20日)は文泉堂版林芙美子全集には収録されていない。なお、田中の引用には写し間違いがある。「技術が」は「技術の」、「芸術とは云いがたい」は「芸術的な作品とは云いがたい」である。なお、田中が「……」として省略した箇所は「読むひとの心に触れて来るもの、香気のあるもの、」となっている。これでは〈ひとの心に触れて来るもの〉〈香気のあるもの〉も芸術的な作品とは言えないということになってしまう。思うに「香気のあるもの、」の後に「でなければならず」が入るのではなかろうか。
 いずれにしても、林芙美子が『創作ノート』の序文「ノートに寄せて」に書いてあることは重要なので、次にわたしが感銘した箇所を引用しておく。

  ーー作家と云うものは、どんなに意気込んで立派なことを云ってみたところで、作品自身が芸術でなければ何もならないのです。作品のなかゝら、ふくいくとした芸術の香気が匂わないかぎり、それは只の読物になってしまいます。小説は面白くなくてはならぬと云う説がありますが、只、面白いだけのものを書くと云うことに私は承伏しかねるものを持っています。

  私は、目には見えない、手にはとらえられない恋いの気持のような、ふくいくとした芸術の香気を愛します。

  ルノアールが、鉛毒で、指がなくなるまで終生絵を描く以外に他の仕事に何の興味もなかったように、私はそうした作家の強い執着の思い、尊いと思います。ロートレークが、酒毒で中風となり、モンマルトルをらくはくして歩いたころの、その執着の愁いを美しいと思います。小説を面白くなくてはならぬとか、私小説は小説ではないとか、このごろ狭い議論が出ていますが、小説は只面白いだけでは芸術とは云えません。読むひとの心に触れて来るもの、香気のあるもの、【でなければなりません。】技術のたくみなだけでちょろりと書いた作品など、私は吐気が来ます。どんなおさない書ぶりでもいゝのです。その作家自身が燃えて書いたものでなければ、それは芸術的な作品とは云いがたいのです。

  芸術と云うものは、作家が永久に尋ねあてゝゆかなければならないものだと思います。どんなアブノオマルなものを書いても、その作品自身はノオマルでなくてはいけません。たとえば、アルチュル・ランボウの詩のように、ポオドレールの詩のように……。
  小説が面白いものだけの興味ならば、何も哲学はいらないでしょうし、思想だの、宗教だの、学問だのと人間が、こうしたわずらわしい学問の釦をはめようと焦る必要もないだろうと思います。
  ーー私のような作家もとにかく生れたけれど、私は一度も