清水正の『浮雲』放浪記(連載6)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載6)
平成△年3月13日
 林芙美子原作の『浮雲』があり、水木洋子の脚本があり、そして成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』ができあがってくる。わたしは作品を一人で批評するから、映画のように一つの作品を製作するにあたって多くの人たちと関わらなければならない面倒を感じないですむ。水木の当初の脚本はずいぶんと長かったらしいが、それは監督によって容赦なく削られていったらしい。水木の完全版脚本を見ることができないので、水木が原作をどのように脚本化したのか具体的に検証するすることはできない。映画に採用されたセリフだけで見れば、原作での多くの場面を省略するにあたって複数の場面を一つに統合したり、人物のセリフを簡略化することで、筋展開は原作に沿ったものにしてある。
 成瀬巳喜男は映画作りにあたってロケーションをあまりせず、たいていの場面はセットですました。ダラットでの場面を除けば、舞台は主に敗戦後の昭和二十一年暮れから二十三年にわたる東京、伊香保、鹿児島、屋久島である。原作においては新宿、池袋は未だ復興ならず、焼け野原が手つかずのまま広がっていた。
 映画『浮雲』は昭和三十年製作であるから、もはや敗戦後の焼け野原を撮影することはできない。ゆき子と富岡が汚い旅館に止まる場面においても、妙に活気のある場面が映し出されている。まるで往時の浅草界隈を想起させるような賑わいで、敗戦のショックに打ちひしがれている者などひとりもいない。人々の顔は活気にあふれ、バーや安ホテルが雨後の筍のように建てられ、屋台には人が群れている。進駐軍の兵士とパンパンが腕を組んで歩き、女給が客を引いている。そんな繁華街をセットで作ることは可能だが、大空襲にあって焼け野原と化した東京の広漠とした光景を人工的に作り上げることはできない。
 伊香保温泉の石段はロケーションしたのではないかと思わせるリアリテイを獲得しているが、屋久島を舞台にした場面は、だれが観てもセットの域を越えるものではない。屋久島のリアリズムは、現地を取材した林芙美子のペンによって恐るべきリアリティを獲得している。原作を執拗に読んで、脳内に凄まじい自然の光景を映像化した者には、映画での屋久島は小学校の学芸会のセットぐらいのものにしか見えない。
 照国丸に乗船して、富岡(森)とゆき子(高峰)が比嘉医師に見送られる場面などは、ロケーションならではの荘厳なリアリティを感じる。しかし、二人が屋久島に着くまでのシーンはかなり見劣りがする。鹿児島を離れて、翌日の朝、十時頃、安房の沖合から、ゆき子は海の上に立っている黒々とした円い島を見る。作者はこの時の、ゆき子が熱にうかされた眼差しで捕らえた屋久島を「海上の向こうに、魔物のようにうっそうとした、背の高い小さい島」と書いている。
 脚本担当の水木洋子は、屋久島でのロケを強く主張したが、成瀬巳喜男はセットですました。屋久島の自然の壮絶さをセットですますことはできないが、もし屋久島で原作通りのシーンを撮ろうとすれば、莫大な制作資金を上乗せしなければならなかったし、映画全般の基底に据え置かれた〈きれいごと〉を根底から瓦解させられることにもなったであろう。
 映画における〈きれいごと〉が端的に現れているのは、ゆき子を美貌の高峰秀子が演じた以上に、伊香保温泉の〈頬紅を真紅につけた女〉おせいを岡田茉莉子が演じていることである。
 富岡は旅館代を得るために今まで手放そうとしなかった高級腕時計を売るために石段を降りて時計屋を探している時に、「お兄さん寄っていらっしゃいよ」と声をかけてきたのがおせいである。富岡のおせいに対する第一印象が〈頬紅を真紅につけた女〉であるから、どう間違えたっておせいを美人と思う者はいない。後に富岡はおせいを〈猿ッ子〉と言っている。おせいは田舎っぺ丸だしの垢抜けない娘だが、岡田茉莉子が演ずると、なぜこんな美貌の持ち主が、離婚歴のある父親ほど歳の差がある男と結婚しているのか、おそらく誰一人として理解できないだろう。
 おせいの存在性格をシンボリックに表しているのは、バーの近くに設定されたバスの発着場である。おせいは美人ではないが、東京へ出てダンサーになりたいという気持ちを抱いて、そのチャンスをうかがっている女である。自分を口説いて東京へ連れていってくれる相手を探していたと言ってもいい。富岡はおせいにとって誰よりもふさわしい男に見えていたはずである。おせいの秘められた欲望に注意すれば、バスの発着場を省略することはできないはずだが、知ってか知らずか、成瀬巳喜男は省略した。
 原作ではおせいの勤める狭いバーは「バラックにペンキを塗っただけの鳥小舎のような」と形容されているが、映画ではおせいの他に二人の年増の女給がおり、原作で描かれたようなチンケな店ではない。原作を忠実に反映しているのは向井清吉役の加藤大介だけと言ってもいい。