清水正の『浮雲』放浪記(連載7)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載7)

平成△年3月14日
浮雲』におけるおせいの役割は重要である。
富岡が心中しようと思ってゆき子を誘って伊香保温泉までやってきた、その必然性をわたしは認めなかった。富岡は本気で死ぬことはできないし、ゆき子のリアリズムは富岡と心中することなど嘘でもできない、というのがわたしの人間認識である。わたしは、富岡が心中の妄想にかられた頃から、正直言って批評する情熱が薄れてきた。しばし、わたしの『浮雲』論は中断を余儀なくされた。今、こうして批評を続行しているのは、この『浮雲』を最後の最後までしっかりと、微塵の妥協もなく検証しつくそうとしているからである。
 富岡は速達で、ゆき子を四谷見附駅に呼び出すが、まずリアリズムに徹すればゆき子が富岡の呼び出しに応ずることはない。ゆき子がジョオと肉体関係を結び、ゆき子が外国人相手の娼婦になった時点で、富岡との〈腐れ縁〉は決着がついている。農林省を辞めて、木材の商売に転じて失敗した、埃臭い、どうしようもない富岡に、男としての魅力を見いだすことはできない。富岡はゆき子に捨てられるべき男である。こんな男に、ゆき子はいつまでもまとわりついていてはいけない。
 富岡と小舎にいた時、ジョオが訪れるが、ゆき子は富岡を選んでジョオを送り返した。ゆき子はばかな女である。というより、林芙美子はここでゆき子を裏切っている。ゆき子という女が、新しい人生舞台へと踏み越えて行ったにもかかわらず、ジョオではなく富岡を選ばせたのは、小説的次元での必然性から逸脱したことを意味する。
 今、わたしは林芙美子を批判しているのではない。誤解しないでほしい。わたしは小説的必然性を裏切ってまで、ゆき子にジョオではなく富岡を選ばせた林芙美子に泣けてくる。一度惚れた男にどこまでもついていく、そんな女を、小説的必然性を裏切ってまで描いたことにわたしは泣けるのだ。富岡、がんばれ、と言いたいところだが、富岡は富岡の人生を全うするほかはない。
 それにしても、富岡もまた林芙美子によって人生の必然性から逸脱した道を歩かせられている。ダラットでの富岡を見る限り、富岡は日本に引き揚げて来てすぐに農林省を辞めるような男ではない。映画では「つくづく官吏がいやになった」と説明しているが、原作では、父親の仕事を手伝うためと書かれている。まったく説得力がない。なにしろ、原作において富岡の父親は一度も登場してこない。もし、安定した収入を保証された農林省を辞めて、木材関係の仕事に転職するその必然性を示すためには、作者は富岡の父親の存在をきちんとえがかなければいけない。しかし、林芙美子はそのことを完璧に怠った。富岡の転職は、読者になんらの説得力も与えないままである。
 成り上がり貴族のドストエフスキーは、狂気に陥る小役人や屋根裏部屋の妄想家を巧みに描くことはできても、地主貴族トルストイのように貴族社会をリアルに描くことはできなかった。幼少女時代を学校を転々として行商仕事に励み、初恋の男・岡野軍一に結婚の約束を反故にされ、その後は女中、女給、女工、売り子、代筆屋などの職業を渡り歩いた林芙美子もまた、上品な家庭や官吏社会に生きる人物を描くよりは、事業に失敗したろくでなしを描くことのほうがペンが走ったということである。
 人物の性格、筋展開など、小説を書く上ですべての決定権は作者が握っている。富岡が農林省にとどまるか、辞めるか、そのことを決定できるのは作者である。速達で、逢いたいと言われたゆき子が待ち合わせの駅に行くか行かないか、決定できるのは作者である。わたしは一人の批評家として、作者が決定したことに異議を唱えたりもする。それはまた読者の側の自由である。