清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)について/山下聖美

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清水正・編著「ドストエフスキー曼陀羅」五号(2015年2月10日 日芸文芸学科「雑誌研究」編集室)が刊行されました。A五判並製221頁・非売品。講読希望者はD文学研究会メールqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp宛てにお申し込みください。

ドストエフスキー曼陀羅 5号 目次

ドストエフスキー放浪記ーー意識空間内分裂者の独白ーー/清水正……6

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)について/山下聖美……47

あなたにとっての〈私の一冊〉とは? と問われ『アンナ・カレーニナ』と答えると、怪訝な顔をされた。卒論はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』であったと言うと、意外な顔をされ、首をかしげられる。私の専攻が近現代日本文学であるからだろうか。本当に読んだのか、怪しさがこみ上げてくるらしい。しかし、そもそも私は、良く言えば繊細、悪く言えば、ちまちましたイメージの日本文学よりも、大味ながらもダイナミックな魅力を持ち、壮大で豪快な外国文学の方が好きだ。さらに、文学に対しては深いミーハー心と、ブランド志向をもっているため、名作しか読まない。
 だから、トルストイドストエフスキーと言えば、一度は読むべきものであるという意識があった。その真価を本当に理解できるのかと問われれば確かに怪しい限りであるが、とにかく触れてみなければならないものと思っていたので、大学生のときに読んでみたのであった。『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』の文字面を必死に追い終わった後に感じたのは、人間ってこんなに複雑なのか? という大きな謎であり、重い何かをつきつけられた気がした。
 ドストエフスキーは、私が今まで読んだものと、重量級に何かが違っていた。しかし当時の私にはその重い何かを深く考える意欲も機会もなく、さ、次に行こう、くらいの感覚でトルストイの『アンナ・カレーニナ』に手をつけたのであった。頁数がたくさんあり、登場人物のカタカナ名も複雑な、十九世紀長篇ロシア文学に対して、読了をあせってはいけない。結論を早く求めてもいけない。とにかく、日本の感覚とはスケールが違う。十九世紀、広大なロシアの土地を舞台に、とてつもない領土と財産をもつロシア貴族たちの物語だ。六畳の小さな部屋から大学に通い、一、二分刻みの電車時刻や授業開始時間にあくせくし、十円、二十円をやりくりしながら生活する、二十世紀日本の大学生とアンナ・カレーニナをとりまく世界は全く異なるのである。
 と思っていたが、長篇名作の力とはすごいもので、少しずつ長い日々をかけて読み進むうちに、あの、アンナ・カレーニナが身近にいるような、親近感と共生感覚が生まれてきた。だから、アンナが死を迎えたときに、本当にびっくりした。彼女の死はすでに本の帯や裏表紙に書いてあり、そうなる運命であることは頭ではわかっていたのだが、死を描く、その描写に、驚愕した。おおげさではなく、戦慄を覚えた。生きている人間が死ぬことを、間違いなく、私は体験してしまったのだ。アンナを死へと引きずり込む「何か巨大な、無慈悲なもの」の力に私自身も接してしまったかのようなあの感覚を、今でも忘れることができない。とんでもない文学があったものだ、と心底驚いた。
 この衝撃から数年後、大学院時代に清水正著『ドストエフスキー『白痴』の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)を読んだ。当時、ドストエフスキーの『白痴』が課題となっており、テキストを読んだだけでは重い何かをぼわっと感じるだけで終わってしまう私にとって、清水先生の批評は実に明晰であった。読む、とはこういうことなんだ、と理解できた。しかし一方で、先生は批評をすることで新たなる謎をさらに発見してしまっているではないか。考えなければならないことが多すぎる。一生をかけて文学をすることの意味を知った。
 『ドストエフスキー『白痴』の世界』には『アンナ・カレーニナ』論も収録されていた。それは、本のあとがきにあるような、模範的ではあるが冷めてしまったような説明とは全く異なった。トルストイのダイナミックな世界は、清水先生の批評により、その温度が保たれたまま、さらなる明晰さをもって私の前に広がり始めた。まるで、近眼で見ていたぼわったとした視界が、コンタクトをはめた瞬間に、はっきりと緻密な世界へと変貌していくような、そんな感じを味わった。一方でそこは、最新の3D技術をもってしても追いつかない、生々しく深い〈人間〉の世界でもあった。不倫をするアンナを表面的にのみとらえるのではなく、女の「跳躍」について、きれいごとや道徳観を超越した解釈を施していくさまは、圧倒的に〈文学〉であり、批評の力を私はみせつけられたのであった。アンナの〈死〉については次のように記されていた。

  トルストイは書いてしまった。言い換えればある何ものかに書かされてしまったのだ。“死”を恐怖し続け、“死”の神秘に打たれたことのあるトルストイに、一とき、ある何ものかが力をかした。少し抽象的な言い方になったが、つまりトルストイは、この世の次元にとどまる者には絶対に知ることのできない、あちら側の世界をかい間見た者として、アンナの死の場面を描いたということである。(二四四頁)  

 清水先生はさらに、「アンナの死の瞬間こそが、彼女の復活の時」であると解釈する。アンナは、欺瞞に満ちたこの世から跳躍し、彼女自身の生をつらぬき通そうとした。つまり真に生きようとして死を拒まなかった。ここに彼女の美があるという。清水先生の批評は、アンナ・カレーニナを〈死〉から復活へと導き、彼女に、そして作品に永遠の命を付与した。批評の力って、すごい、と私は心から感動した。かつて、アンナの〈死〉を共に体験した私もまた、清水先生の批評により、新たに生まれ出たような、復活感を体感した。強烈な体験であった。
 『アンナ・カレーニナ』は私の中で、トルストイのテキストと清水先生の批評が一体となった一つの作品として、永遠に存在するのであろう。だからこそ、〈私の一冊〉は、と問われれば、『アンナ・カレーニナ』と答えるのである。







色彩からみる『白痴』ー『白痴』に於ける〈緑〉ー/入倉直幹……50
ムイシュキン、あるいは聖なる〈物語〉/山下洪文……64
『白痴』マリイについて/小山雄也……72

一枚絵の可能性〜三年間の歩み〜/牛田あや美……76

小林秀雄に於けるジッドとドストエフスキー/此経啓助……85
『白痴』論ー文学の表層と深層ー/上田薫……91
清水正氏の「『悪霊』の世界」について/福井勝也……100
にがり顔のクリス丈Ⅱ(ヴァリエーションno.)/中村文昭……106
 ーー        

 「D文学研究会主催・第1回清水正講演会
「『ドラえもん』から『オイディプス王』へーードストエフスキー文学と関連付けてーー」を聴いて

D文学研究会再活動を祝う/下原敏彦……134
D文学研究会第一回講演に参加して/小山雄也……137
清水ドストエフスキーの「クリテイカル・ポイント」/福井勝也……139
  ー『世界文学の中のドラえもん』についてー
清水正教授の実存、常識、公正、重層。/尾崎克之……145
緊張の瞬間/伊藤景……147
  ーーD文学研究会主催の第一回講演会においてーー
批評の残酷性と真実性と無力性/山下洪文……150
 ーー清水正の新著『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んでーー
清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んで/伊藤景……154



 「文芸入門講座」(平成26年度)課題
清水正ドストエフスキー論全集』第四巻を読んで、手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』について思うところを記しなさい。

 
 川田修平……罪と罰、天才と凡人、愛と死、神と悪魔/160
 黒澤安以里……ドストエフスキーの原作と手塚治虫の漫画版『罪と罰』について/163
 前田悠子……手塚治虫地版『罪と罰』になかったもの/166
 飯塚舞子……原作地手塚治虫版における『罪と罰』/169
 渡辺友香……手塚治虫と『罪と罰』/172
 山田優衣……『罪と罰』原作と手塚版を読んで/175
 城前佑樹……わたしたちは越境して、もう一度、戻ってこなければならない。/179


『貧しき人々』秘話 ペテルブルグ千夜一夜/下原敏彦……194
  ーーロシア人亡命家族の鞄にあった未完創作ーー 

表紙絵/赤池麗    裏表紙絵/大森美波    扉絵/金正鉉
カット/聖京子
本文絵/杉山元一 佐々木草弥 此平聖菜 金正鉉 大森美波 梶本佳雪 赤池