どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載27)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載27)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


快楽亭ブラックの『立川談志の正体』

 談志に戻ろう。談志の十八番と言われた『芝浜』を、談志が死んでからすぐに聞いたが、これは無理して最後までやっとの思いで聞いた。声がすでにだめな時の録画ということもあったが、どうも理由はそれだけではない。談志の弟子が書いた本を集中的に読んだが、中でも異色の弟子である快楽亭ブラックの『立川談志の正体』(2012年12月 彩流社)がズケズケと本音で書いているので面白かった。ブラックは談志の『芝浜』について次のように書いている。



 「談志師匠って何が良かったんですか『芝浜』ですか?」
  家元の死が報じられた二日後、浅草観音様のバカウマ、メチャ安の焼肉屋、肉のすずきでもうすぐ中村勘九郎を襲名する勘太郎と弟の七之助中村屋ブラザースと一杯やっている時、勘太郎君にそう聞かれた。
 「よくねェよ、あんなもの。家元の『芝浜』がいいって奴はよっぽどの田舎者だよ」
  あっしは「芝浜」が大きらいだ。酒呑みが大好きな酒を呑むのを辞めたがために小市民的な幸せを得ましたなんて話のどこが面白いのか。講談に、他に何の取り柄もなく、ただ酒が強いってだけで出世をした男の話があるが、このほうがよっほど落語だ。(139)

「芝浜」は家元の言う、業の肯定どころか、明らかに業の否定だ。
  だいたい「芝浜」はドラマとして薄っぺらだ。それが証拠に中村勘三郎が演りたがらない。役者として演じどころが無いのだ。「文七元結」は長兵衛が文七に金をやるところがクライマックス、盛り上がるが、「芝浜」にはそれがない。今「芝浜」を喜んで演るのは、尾上菊五郎前進座くらいのものだ。板東三津五郎も八十助時代に一度演ったきりだ。
  家元、ドラマとしての薄っぺらさをカバーしようと、カミさんが亭主が金を拾ったのが夢じゃなかったと告白するところを想い入れたっぷりに、過激に感情移入して演じる。
 「お前さんに正直に話した後で一杯やってもらおうと、一本つけといたんだよ」
 「いいのかい、呑んだら俺、酔っちまうぜ」
  ここで家元、半泣きになって、
 「ベロベロになっちゃえ!」
  これが嫌だ。あまりの臭さに聴いていて恥ずかしくなる。江戸じゃねェぜ。家元の「芝浜」がいいって奴は田舎者だってのはここだ。
  あっしが作った「芝浜」のパロディ、「川柳の芝浜」では、あえてこの場面を家元の完全コピー、わざとそっくりに演じる。すると必ず大爆笑となる。あっしのファンのほうが家元信者より健全な証拠だ。(140)



快楽亭ブラックは高校一年で談志の弟子になった落語家である。談志に預かった通帳から無断で金を下ろしていたのが発覚して破門になったりしているが、談志との関係は断続的に続いた。ブラックは談志門下の中ではもっとも過激で破天荒な落語家かも知れない。単なる暴れん坊ではなく、落語観はこの引用でわかるようにまっとうである。師匠談志に対しても何の遠慮もなく、ずばずば言いたいことを書いている。
 立川談春『赤めだか』(2008-4 芙桑社)、立川志らく『雨ン中の、らくだ』(2009-9 太田出版)、立川談四楼『談志が死んだ』(2012-12 新潮社)、立川生志『ひとりブタ 談志と生きた二十五年』(20013-12 河出書房新社)、なども談志について思う存分書いているが、ブラックほど大胆ではない。共通しているのは談志に対する愛憎のこもった葛藤である。
 さて、『芝浜』であるが、談志は『生意気盛り』でも書いているが、酒飲みの亭主の女房が気に入っているらしい。わたしはブラックと同じで、この女房が好きではないし、いじくりすぎればますます臭くなる、嫌みな女になる。ましてや、それでなくても理屈っぽい談志が演れば、この女房の良さはだいなしになる。『芝浜』の女房は淡々とやるほうがいい。あるいはがらっぱち風に、と思っている。



 




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