どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載36)




人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。


どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載36)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


談志と志ん朝


 談志が認めた同世代の落語家として志ん朝がいる。談志は金を払ってまで聴きたいと思う落語家は志ん朝しかいない、とまで語っている。落語協会脱会と新団体の会長職をめぐって二人の間に感情の行き違いがあったことは明白であるが、談志は志ん朝の落語自体は高く評価していた。
問題は志ん朝が談志の落語を評価していたのかどうかである。おそらく志ん朝は談志の落語をそれほど認めていなかったと思われる。志ん朝は高座で落語論などぶったりはしない。むしろそんなことは恥ずかしいことだという思いがあっただろう。
大学の講座や落研で落語論をぶつぶんにはいっこうにさしつかえなかろうが、純粋に落語を聴きにきている客に落語論を披露してもお門違いということになる。志ん朝には落語家は落語に徹するという爽やかな意志を感じる。志ん朝には、わたしゃ落語をやる、理屈を言いたいやつは勝手にやってくれ、という思いに徹した時期があって、それ以降はそんな意志すら感じなくなった。
 おそらく熱狂的な談志ファンというのは、談志の落語論や傲慢な自信も含めて彼が好きなのであろう。談志の落語、特に写実主義時代の談志落語に魅せられたファンたちは、談志が解体と再構築を積極的に意志的に押し進めたあたりから、離れていったのだろう。
 小さんの落語に惹かれる落語愛好家は、高座で尊大に聞こえる談志の落語論など聴きたくはなかろう。談志の落語批評は彼の本で読めばいい。高座にあがった談志には落語を演じてもらいたい、これが落語愛好家の素朴な思いであろう。







人気ブログランキングへ←「人気ブログランキング」に参加しています。応援のクリックをお願いします。