どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載35)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載35)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


「本書く派」の批評家談志

 談志は小さんの弟子ではあっても、小さんの落語をそのままに継承させるタイプの落語家ではない。談志は伝統的な落語から出発して、その落語を解体、独自に再構築をはかる、いわば革新的な落語家であるから、既成の落語に甘んじている保守的な落語家を認めない。
 談志からバカ呼ばわりされる落語家にしてみれば、談志を快く思う者はいない。が、談志は若くして『現代落語論』を刊行するほどの理論家であるから、正面切って論争することができない。落語は理屈じゃないよ、と開き直って、陰で談志の悪口を言うにとどまってしまう。
 今や、落語立川流の落語家たちが、まるで競うかのように本を出して、師匠談志の落語論に彼らなりのコメントを寄せているが、それとて本格的な落語論とは言えない。彼ら弟子たちの著作は、談志との師弟関係の内実、愛憎、葛藤のドラマの表出ないしは構築であり、浮かびあがってくるのは、談志の異様なほどの落語愛や傲慢、吝嗇といった、どちらかと言えば負の人間像である。
 談志の落語に対する情熱と愛情を疑う者はいない。しかも談志は落語家であると同時に落語批評家であり、わたしのように談志の落語を直に聴いたことのない者にとっては、談志は圧倒的に「本書く派」の批評家である。


 






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