どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載41)

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載41)

清水正



志ん朝の真打昇進



志ん朝に真打昇進で先を越された件について、談志は『現代落語論』で次のように書いている。

  小ゑんでながらくやっているうちに、ラジオ東京の歌謡夕刊というなまのディスクジョッキー番組に、芥川隆行丘みどりさんらと、またTBSTVの歌まね読本の司会を石川進さんと、その他単発のドラマだとか、コメディ等を演じ、雑誌の仕事もできてきて、漫談や本業の古典落語を演じているうちに、“小ゑんちゃん”で世間にも知られるようになり、やがて真打という声がかかってきた。
  この時、志ん朝が先きに真打になるというので、おもしろくなかった。
  後輩が追い越してゆくと思うと、イヤだった。真打になろうと思うからこそ、我慢し、修行し、辛いことも、しきたりだと思って働いてきた。ただそれだけが目標だったといっていい。噺家なら誰だってそうだ。

  それが、後からくる者が先に真打になる。
  わたしが噺家として拙いなら、これはしようがない。しかし、わたしはけっして噺が拙いとは思わなかったし、彼にヒケをとらないという自信もあった。修行の年代もわたしのほうが古いのだし、十年で真打になるのが普通のこの世界なのに、五年ぐらいで真打になるというのは、どう考えてもなっとくがゆかない。おまけに円楽もさきに真打になるという。
  わたしは師匠の小さんへかけ合った。すると師匠は、
  “気にするな、実力のある者が最後には勝つ”
  五年でなったのと十年でなったのと同じならお前がわるいといわれたが、どうもなっとくできない。そんな時、大阪から噺があって、こないかといわれ、いっそ行ってやろうか、とも思ったほどだ。しかし、どうさからったってだめで、
  “やなら、よしねえ”
  とくるだろうし、よしちまったら元も子もなくなるからとにかく我慢した。(159〜160)

真打の資格が許されるには、この世界ではすくなくとも十年のキャリアが必要とされる。わたしも入門から十一年目。
  真打をきめるのは、文楽志ん生正蔵、円生といった大幹部(大真打)の師匠たちと、席亭が話し合ってきめる。もちん、当人の師匠(わたしなら小さん)がはじめに推せんするわけだ。そして、弟子を真打にまでさせるのは師匠の義務といってもよいだろう。
  わたしの真打がおくれたのは、“生意気だ”という理由からだったらしい。が、べつに気にもとめなかった。(160〜161)

 この文章には志ん朝に先を越された悔しさが露骨に表れているが、同時に師匠小さんに対する憤懣も滲み出ている。キャリア十年の慣例を五年も早く破って志ん朝の真打が決まった。まず最初に志ん生が推薦し、文楽が積極的に押した。こうなれば誰も反対できない。ほかの大幹部と席亭がそれを承認した。円生はそれならうちの円楽もということで、円楽の真打昇進も決めた。
 談志は二人の後輩に真打昇進が遅れたのだから、その悔しさは計り知れない。ましてや談志はプライドが並外れて高い。これは一種の屈辱恥辱である。結果的には志ん朝に一年遅れで真打になったが、談志のいったん深く傷ついたプライドはそうそう簡単には治癒しなかったであろう。
 なぜ師匠の小さんは志ん朝よりも、円楽よりも早く談志を推薦しなかったのか。考えられるのは、談志を推薦する大幹部が一人もいなかったことである。談志の生意気ぶりをふだんは寛容に受け流していても、いざ昇進となれば、積極的に談志を押す者はいなかった。そういった空気を打ち破ってまで、敢えて談志を真打に推薦すればごり押しになる。
 小さんは大幹部たちの心証も配慮しただろうし、同時に談志の生意気も癪に触っていただろう。小さんと談志の師弟関係は一筋縄ではいかない。談志は従順型の弟子ではないし、小さんは談志を理屈で押さえる理論家肌ではない。小さんは良くも悪くも、落語の伝統を引き継いでいる正統派であり、二人はもともとそりが合わない。
 前にも書いたが、談志が小さんの弟子であり続けられたのは、小さんの女将さんの人柄にあったように思える。談志の本を読む限り、談志自身はそのようには思っていなかったようだが。






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