どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載43)

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載43)

清水正



円生の芸道一筋と小さんの政治力



 小さんが会長の時に二つ目の集団昇格問題で、まず円生が強烈に反対、一門の円楽はもちろんだが、談志、志ん朝、円鏡など人気落語家が落語協会から脱会した。円生は三遊会を発足させたが、次期会長をめぐって談志と意見が対立した。談志は自分が会長になるつもりでいたが、円生は志ん朝を推薦した。談志は志ん朝に掛け合って降りるよう説得したが、志ん朝はそれをきっぱりと断った。談志は破廉恥にも師匠小さんに詫びを入れて落語協会に復帰した。続いて志ん朝落語協会に復帰した。三遊協会は瞬く間に瓦解した。
 この茶番劇からまず見えてくるのは、円生の芸道一筋の頑固さと政治力のなさである。小さんに会長職を禅譲したのはいいが、その小さんから肝心なことを何一つ相談されていない。円生は実力のある人気落語家の支持を得たはいいが、後任人事で決定的な間違いを犯している。
 談志は会長である師匠小さんを裏切ってまで円生と行動をともにした。談志は見返りとして次期会長職を求めた。円生はそれを断った。円生の頭にあったのは志ん朝であった。つまり円生は、談志よりも志ん朝の落語を評価していた。これは談志にすれば、絶対に許せない評価であった。
 談志は恥を忍んで小さんの元へと戻った。つまり円生は落語は名人でも、組織運営に関しては大局に立って判断を下すことができなかった。円生は談志の反逆精神と甘えの構造を看破して、予め戦略を練ることができない、名人気質の頑固者となってしまった。自分を裏切った弟子の談志を再び受け入れた小さんのほうが人間としてははるかに大きかったと言えよう。
 小さんは自分の弟子の談志よりも、志ん朝のほうを落語家として評価していたと見ることができる。父親の志ん生文楽、円生に志ん朝は高く評価されている。談志の落語を最も評価しているのは談志自身で、ほかの大幹部のうち誰一人として志ん朝よりも談志を高く評価している者はいない。談志にして見れば、こんな悔しいことはない。プライドの高い談志は自分で自分を最大限評価し、自分で自分をなだめたり励ましたり、おどけたりするほかはなかった。
 政治の世界では権力を握るためにはあらゆる権謀術策をはかる。金、女、地位、名誉、なんでもござれで、味方をふやし、票につなげ、最高権力を目指す。落語の世界は観客あっての人気商売で、芸を磨くこともそのうちに含まれている。芸道一筋の落語家ばかりで寄席がにぎわうわけではない。寄席の経営が成り立たなければ、落語家は失職せざるを得ない。
 もし三遊協会が談志会長で運営されていたら、第三の新興勢力として落語界もかえって活気づいたかもしれない。談志のプロデュース力は相当なものである。が、すでに見た通り、円生はそのおもしろい芽を摘み取ってしまった。
 裏切った談志を受け入れた小さんは前会長円生よりはるかに柔軟性のあるバランス感覚を備えた会長だったということになる。談志、志ん朝、円鏡が戻ってくれれば、落語協会は以前と同様の勢力を保持できる。意地を張って出戻り組を拒むよりは、受け入れた方が組織としてははるかに安泰という政治的判断が小さん会長にあったということである。小さんが談志を特別に可愛がっていたとか、甘やかしていたとかいう問題ではない。




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