どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載33)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載33)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正


落語協会脱退問題



 円生は落語協会の脱退と新団体の旗揚げに画策することになる。表だって動いたのは、これまた落語協会に常日頃から不満を抱いていた立川談志、円生門下の円楽、古今亭志ん生の次男志ん朝(長男の金原亭馬生は当時、落語協会副会長を務めていた)、月の家円鏡(後の橘円蔵)などであった。
 談志は新団体に円生を担ぐが、次期会長は自分がなるつもりでいた。ところが、円生は後継者に志ん朝を考えていた。それを知った談志は志ん朝に降りろと言うが、志ん朝はきっぱりと断る。志ん朝は談志の後輩だが、真打になったのは談志より先だった。談志は真打昇進おいて円楽よりも遅れをとっている。ひとの評価は別にして、談志は自分の落語に自信を持っていたから、志ん朝と円楽に遅れをとったことは人生最大の屈辱であった。この昇進問題で談志が師匠小さんに不満を抱いたことは確かである。
 話しを戻せば、先に真打になった志ん朝には志ん朝なりの自負がある。次期会長職を談志に譲ることはできない。となると、談志の決断も早い。談志はさっさと落語協会に戻ってしまう。師匠で落語協会会長の小さんにしてみれば、面子は潰されるは甘えられるはで、踏んだり蹴ったりである。よくこの時点で談志を破門にしなかったと思う。
 小さんは志ん朝と円鏡に対しても落語協会復帰を許している。懐が深いのかだらしがないのかわからないが、いずれにしても小さんに高度のバランス感覚や落語界の明確なビジョンがあったとは思えない。ひとりの落語家としては名人として評価されても、落語界全体をまとめ上げる政治力には欠けていたのかもしれない。
 円生は自分の主張を一貫して貫いたと言えるだろう。志ん朝の落語家としての実力も正当に評価していた。ただし、円生は後継者を志ん朝にすれば談志がまたまた反乱を起こすことを予測できなかった。否、予測していても、筋を曲げられない一本気な性分であったのだろう。
 談志を後継者に指名すれば、今度は志ん朝が言うことを聞かなかったかもしれない。両雄並び立たず、ましてや新団体には円生の直弟子の円楽もいる。前途多難な新団体であったことは明確で、とうぜん分裂も早い。円生亡き後は、円楽一門を残して、ほかの弟子たちは落語協会に戻ってしまった。はたから見ていても、こんなだらしのない、みっともない脱退・出戻り劇はなかった。






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