どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載26)




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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載26)
まずは赤塚不二夫・対談集『これでいいのだ』から

清水正



 読まれていない『天才バカボン


 日芸所沢校舎での「マンガ論」で、森田拳次の『丸出だめ夫』について講義しているとき、赤塚不二夫の『天才バカボン』についても触れた。学生たちの反応がなかったので、聞けば『天才バカボン』を読んだことがないと言う。受講生百人あまりの「マンガ論」で『天才バカボン』を読んでいた学生はただ一人。これにはさすがに驚いた。赤塚不二夫も『天才バカボン』もすでに過去の遺物になりはてていたのか。
 わたしが学生時代、「ガロ」に連載されていた白土三平の『カムイ伝』、赤塚不二夫の『天才バカボン』を知らない者はおそらくいなかったであろう。が、今日の学生の大半は『天才バカボン』を知らず、『カムイ伝』を読んでいない。いったいどういうことであろうか。
 60年、70年代はまだ革命幻想が生きていた。打倒すべき国家や権威が存在し、左翼的な学生や改革を望む若者たちはそれらに立ち向かっていった。『カムイ伝』は革命幻想に生きる若者たちのバイブルであったし、『天才バカボン』は権力や権威を揺さぶるギャグとナンセンス満載であった。ところが今や、打倒すべき権力も権威もなくなった。革命はまさに〈幻想〉と化し、現実そのものがナンセンスと化した今日、『カムイ伝』や『天才バカボン』は漫画研究の対象とはなっても、生々しい衝撃力を喪失してしまった。たわいもない夢や希望の児童向けフィクション漫画に充足する振りでもしているほかなくなったのである。
 談志は、もう落語なんかしらねえよ、の捨てぜりふをしばしば口にしていたが、漫画家の中には談志のように破滅的挑発的な言葉を発する者はない。たかが漫画がされど漫画になり、なまじ権利を主張することで自らの首を絞めていることにさえ気づかずにいる。ハチャメチャなエネルギーが横溢した漫画は出ず、どれも似たり寄ったりのものばかりになった。漫画はもう終わったんだ、と言われてからもう二十年近くなる。
 わたしが「マンガ論」でとりあげる漫画家はつげ義春日野日出志などで、現在発表されている漫画はなにも読んでいない。赤塚不二夫は受け手がバカじゃどうしようもないと何度も口にしているが、送り手がバカだと球を受ける気にもならない。


 




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