「サハリンにチェーホフを訪ねる」を寄稿

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


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四六判並製160頁 定価1200円+税


サハリン国立大学で刊行している学術機関誌がようやくできたということで、サハリンから帰国した山下聖美さんから本日受け取った。わたしはエッセイ風に書いたものを寄稿した。書き終えてから一年近くたつが、サーシャさんのロシア語訳と小生の文章を紹介しておく。
サハリン国立大学発行の機関誌

わたしは「サハリンにチェーホフを訪ねる」を寄稿した。



サハリンにチェーホフを訪ねる

清水正


 サハリンに着いたのは2012年9月11日、日本時間の午後六時過ぎであった。今回のサハリン行きの目的は、サハリン大学の日本文学・文化研究家のエレーナ教授の取材を受けることにあった。エレーナ教授は海外在住のロシア文学研究者に広く取材し、それを纏め発表する仕事をしているということであった。これは北海道大学名誉教授でロシア・ポーランド文学者の工藤正廣氏と交流している詩人の窪田尚氏を通じてもたらされた話で、私と日本文芸研究家の山下聖美氏が参加することになった。
 サハリンは宮沢賢治林芙美子も訪れており、一度は訪ねてみたいと思っていた地であった。私は四十歳から五十歳までの十年間に共著編著あわせて三十冊ほどの宮沢賢治論を刊行、林芙美子に関しても『林芙美子屋久島』『「浮雲」放浪記』No.1などを刊行している。また昨年は日大芸術学部図書館から『林芙美子の芸術』を監修・執筆して刊行した。
 さらにサハリンといえば『サハリン島』で有名なチェーホフを忘れることはできない。私は十七歳でドストエフスキーの『地下生活者の手記』と出会い、以後今日まで五十年近くドストエフスキーの作品を読み続け批評し続けてきた。現在は『清水正ドストエフスキー論全集』を第六巻まで刊行している。この全集はとりあえず全十巻の予定ですすめている。
 ドストエフスキーに熱中していた二十歳代の頃、私はドストエフスキー以外の本を読むことができなかった。トルストイを読めるようになったのは三十歳をすぎてから、チェーホフを本格的に読み始めたのは四十歳を過ぎてからである。ドストエフスキーの文学はヨハネ黙示録やヨブ記に多大な影響を受けている。ドストエフスキーの描き出す人物たちは激しく熱い。まさに彼らは「熱いか冷たいか」のどちらかを生きている。ドストエフスキーが生涯苦しんだ問題は神の存在をめぐってである。ところがチェーホフの人物たちの多くは、冷静で、シニカルである。神が存在しようがしまいがそんなことはどうでもいいさ、といった感じである。
 現代人が抱えている虚無はドストエフスキーのそれよりは、はるかにチェーホフのそれにあるように感じていた頃、当時出版社に勤めていた窪田氏から依頼されて『チェーホフを読めーー空虚な実存の孤独と倦怠ーー』(2004年4月。鳥影社)を刊行した。内容は「映画『小犬をつれた貴婦人』を観る」「チェーホフ原作『小犬をつれた貴婦人』を読む」「『かわいい女』を読むーードストエフスキー文学との関連においてーー」「『六号室』を読むーードストエフスキー文学との関連においてーー」「『黒衣の僧』を読む」「『退屈な話』を読む」である。
 その後、チェーホフに関しては「江古田文学」62号(2006年7月)に工藤正廣氏と対談「チェーホフの現在」、座談会「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」、そして批評「この陰鬱な曇り空は永遠に晴れないーーチェーホフの戯曲『イワーノフ』」を掲載した。対談と座談会ではチェーホフの『サハリン島』を俎上にあげ、この作品の謎に迫っている。
 ドストエフスキーは二十八歳の時にペトラシェフスキー事件に連座した廉でシベリアで四年間の懲役と四年間の一兵卒勤務に服することになった。この監獄生活を題材にした作品が『死の家の記録』で、この作品によってドストエフスキーはペテルブルグ文壇に確固たる地位を築くことになった。チェーホフドストエフスキートルストイの後に文壇に登場した小説家で、この巨大な二人の作家を意識せずにはおれなかったであろう。チェーホフの文学は一見、ドストエフスキーの文学とは無縁に見えるが、『退屈な話』の老教授の名前ニコライ・ステパーノヴィチはドストエフスキーの『悪霊』の主人公ニコライと彼の家庭教師であったステパンからとったのではないかと思わせるし、『六号室』や『黒衣の僧』などはドストエフスキー的世界とも通底している。
 私は工藤氏との対談で「『サハリン島』で一番不思議だなと思ったのは、チェーホフがサハリンにいた三ヶ月ほどの間に細かくひとつひとつの世帯を調査していて、七千八百くらいの調査書が残っている。なぜ、こんなに細かくここまで調べる必要があったのかと妙な感じがします。それは、まず軍事的な問題があったのではないか、領土の問題、それから調査したのはサハリンだけではなかったのではないか。個人的に小説家としてロシアの民衆をもっとよく知りたかったというだけではなく政治的な側面があったのではないかという感触があるんです」と発言した。はたしてチェーホフは小説家として純粋にサハリン島へ渡り、サハリンに暮らす貧しい人々の実態を緻密に調査し、それを作品に生かしたのか、それともそこには未だに解明されない何かが隠されているのか。その真実を明らかにするのは今後の研究にまたなければならないが、いずれにしてもチェーホフドストエフスキーの『死の家の記録』を意識して『サハリン島』を書いたことに間違いはないであろう。
 2012年9月12日、窪田、山下氏と三人で歩いてチェーホフ記念館を訪れ、販売されていたパンフレットとロシア語版『サハリン島』などを購入してきた。館内にはチェーホフが使用していた机や椅子、鞄、医療器具、肖像画、当時のサハリン住民が着用していた衣服、生活道具、関係文献や日本で刊行された翻訳本や研究書なども展示されていた。14日には通訳をお願いしたサハリン大学の大学院生アントニーナさんと窪田氏と三人でチェーホフ記念館を訪れ、拙著『チェーホフを読め』と編著『チェーホフの授業』を寄贈した。アントニーナさんのおかげで12日には許可されなかった写真撮影も許され、チェーホフ記念館の研究員イリーナ・アルトゥローヴナさんの解説もよく理解することができた。チェーホフ文学の内容に突っ込んだ話はできなかったが、サハリンにおいてチェーホフがはたした役割や当時の住民の暮らしの一端をうかがいい知ることはできた。
 エレーナ教授にはドストエフスキー関係の拙著を手渡し、簡単に自己紹介しただけに終わったが、今後、さまざまな研究会やシンポジウムを通して交流を深める機会を得たことは幸いであった。