牧野邦夫から竹原嘲風へ─写実の精髄─



本日は大学院生のメイさんと中村橋の練馬区立美術館で開催されている牧野邦夫─写実の精髄─展」を観る。中村橋駅で降りたのは初めて。実は先日中村文昭さんに、ぜひ観てもらいたいという薦めがあり、今日、授業を兼ねていくことになった。二時間以上かけてじっくり観た。昭和二十四年の牧野の画学生時代の肖像写真がいい。いったいこの写真を撮ったのは誰なのかと思った。すばらしい写真だ。はっきり言って、この肖像写真に匹敵する「肖像画」はなかった。次にわたしの目をくぎ付けにしたのは「姉の肖像」。姉・英子の肖像に、決定的な「右手」が描かれている。牧野の絵に大きな意味を持って迫ってくるのが「手」だ。導く手、描く手、殺す手、愛の手、大いなる運命のような手が、牧野の絵の真髄を表出している。極めて自覚的な「手」だが、会場に入ってすぐの「姉・英子」の「手」はゾッとするほどの宿命的なつながりを感じる。支える手である、英子の手でありながら、英子から離れた大いなる他者の手を感じさせる。牧野の内なる「邪保」(魔物)は人物の衣装や自然の中に多様に描かれるが、決して肉体の中に描かれることはない。牧野の肖像画は無傷のままに執拗に描かれる。魔を内在させたままに狂いの表情を見せることはない。魔を外在化させることで牧野は不断に自らのアポロン化を図ったともいえる。昭和二十四年の<撮影された青年牧野の肖像>が抱えていた決断の内なる狂気はどこへ行ったのか。


「写実の精髄」と銘打たれた展示のさいごに、わたしが魂を揺さぶられたのは、別室に飾られた「少女」(野田文雄)であった。さらにその左に眼を移すと「雛三羽」、さらにその左に「鳥一羽」。まさに<写実の精髄>。作者は竹原嘲風とある。嘲る風か、なるほど。が、この絵に自嘲もなければ、高所にたった嘲りもない。崇高な境地に立ち至った者の、自然を見つめる謙虚に打たれる。自然の摂理、死と生を受け入れることそのものを<嘲風>とみたてる諧謔も無の境地と同化している。解説の文章を見る「竹原嘲風(1897〜1947)大正末期から江古田周辺に居住した日本画家です。彼の描写は速人御舟に魅かれながら、写実と細密描写、いずれの方法もすさまじい迫力で迫ってくる。非情とも思える強靭さで対象に向い、描き尽くそうとする気迫が感じられます。それは細密描写が潜在的にもつ凄みともいえましょう。」嘲風は江古田周辺に住んでいた。わたしはなんか神秘的な因縁すら感じた。この解説文を誰が書いたのか記名はなかったが、いい文章だ。「牧野邦夫」を観せたあとで、「竹原嘲風」「野田文雄」の写実まで至らせる意図の深さに感じるものがあった。