清水正の『浮雲』放浪記(連載23)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載23)
平成△年6月13日
林芙美子は窓の下を按摩の笛が通ったと書いている。底冷えのする寒い夜に、按摩が笛を吹いて歩いている。この笛の音を富岡が、おせいが、ゆき子が、向井が、どのような気持ちで聴いていたのか。作者はいっさい触れない。ただ〈按摩の笛〉が、〈風〉となって各人の胸の内を同調するかのように吹きわたって行ったことだけは感じる。富岡も、ゆき子も、向井も、おせいも、底冷えのする寒い夜の闇を杖をつきながら彷徨い歩いている。林芙美子は実にシンボリックな表現が巧く的確である。

  富岡は如何にも思いついたように、
 「さて、湯に這入って来るかな……」と言った。
  すると、おせいがすぐ立って、シャボン箱と手拭を取ってやり、「私も一風呂あったまって来よう」と言った。
 「あら、じゃア、私も一緒に行きましょう」
  ゆき子が何気なく、富岡の後から立ちあがると、おせいは急に不服そうな顔をして、
 「そうですか、それじゃア、お二人で行ってらっしゃい」と言った。
  ゆき子は、ぴいんと額に小石を投げられたような厭な気持ちで、おせいの荒々しさを眺め、階段を降りて行く、富岡の後へついて行った。
  下駄をつっかけて、裏口へ出て行くと、肌を射すような冷い空気だった。
 「おせいさんって、妙な女ね。貴方が好きなのじゃないの? 何だか変だわね……」
  ゆき子が嘲いながら、かまをかけるつもりで、富岡の後姿へ話しかけたが、富岡は狭い石段を降りて行きながら、「へえ、そうかい」とひょうきんな返事をした。
 「あのお猿さん、相当の浮気者だわ……」
 「そうかね……」
 「あら、そうかねって、貴方は、何時でも女にはよそよそしくしていて、女をちゃんと掴んでしまうンだから……」
 「別に、あのお猿さんを掴んじゃいないぜ。ばかなことは言わないでくれよ」
 「でも、興味はないわけじゃないでしょう?」
 「ないね……」
 「そうかしら。私が、湯に行くって言ったら、急にぷりぷりしたの変ね。あなたに惚れてるのよ。ーーばかにサービスがいいわね。貴方にだけ……」
 「ほう、そりゃア、いま初めて気がついた。もう四五日厄介になるか」
 「そうね。それもいいわね」
 (285〜286〈三十一〉)

 おせいとゆき子の反応の仕方が見どころの場面である。おせいは大胆な女と言うか、ゆき子に対して対抗意識を丸だしにして来る。おせいがもっと巧妙な女であれば、富岡との関係を勘ぐられるような態度はしなかったであろう。ここに描かれたような態度をとれば、ゆき子ばかりでなく、亭主の向井もまたおかしいと思うだろう。自分の若い妻が、富岡に対して親密な態度を示せば、二人の間に何かあったのではないかと疑うのが、最初の夜に泥酔して後先わからず眠りこけてしまった男の自然な反応である。作者は外に出た富岡とゆき子の会話場面を描いて、部屋に残った向井とおせいに何の照明も与えない。向井はこの小説では単にひとの良い亭主役を演ずる客体物として扱われ、心理の微細な襞に触れられることはなかった。
 富岡とゆき子がおせいのことを話題にしながら米屋の大湯に向かって階段を降りて行った時、はたしておせいはどこにいて何をしていたのか。林芙美子は描かないことによって、描かれざる場面を読者に想像させる手法を効果的に使っている。富岡とゆき子の会話場面を読みながら、わたしの眼にはおせいの姿がオーバーラップして見えてくる。おせいはすでに、優柔不断で、ずるい女たらしの富岡の犠牲者となっているが、彼女自身はそのことに気づいていない。おせいは、富岡とゆき子のあがっているリングに乗せられただけで、富岡との二人きりの新しい人生を歩むスタートラインにさえ立ってはいないのである。
ゆき子はおせいを〈お猿さん〉と言い〈相当な浮気者〉とまで言って、露骨に蔑んでいる。一人の男を好きになった二人の女は相手の弱点を徹底的に暴き合い、男の愛情を独り占めしようとはかるが、そのことで男の心を掴むことはない。嫉妬に駆られた女の言動にまともに付き合っていたのではからだが持たない。富岡はゆき子の抑制した激しい当てつけの言葉を軽くかわしながら、冗談とシャレの次元に逃げ込もうとしている。富岡の必死さは露骨には現れていないが、精一杯虚勢を張って取り繕っていることに間違いはない。

  二人はくすくす笑いながら、米屋の大湯へ這入りに行った。七八人の浴客が高声で闇米の相場を話しあっていた。団体客ででもあるらしく、二人ばかりの芸者らしいのも混って、客の背中を流してやっている。流して貰っている男が時々仲間に冷やかされている様子で、湯殿は仲々賑やかであった。 (286〈三十一〉)

 二人が大湯に入る場面は、日本の温泉場のおおらかさが実によく反映されている。今でこそ、湯船は無粋に男湯と女湯に分断されているが、昭和二十一年当時の温泉は伊香保に限らず男女混浴が当たり前であったのだろう。団体客の男たちや芸者で賑やかな湯槽の中で、富岡とゆき子の深刻な話など、みごとに相対化されている。
映画では富岡とゆき子以外の団体客や芸者は省略され、二人だけの世界を形作っている。成瀬巳喜男には、富岡とゆき子を大勢の裸の人間たちの中に紛れ込こませることで、彼ら二人が断続的に演じる腐れ縁を笑い飛ばしてしまうような視点はない。今村昌平が『浮雲』を監督したら、大勢の団体客や芸者の生き生きとした裸の姿を省略することはなかったであろう。成瀬巳喜男は富岡とゆき子が湯船に沈む二人きりの場面だけを切り取って、狭い時空に押し込んでしまうが、林芙美子が描く大湯の場面は、男客たちが大声で話す闇相場に関する言葉や、ひやかしの声やおおらかな笑い声に溢れた、一種のカーニバル空間を現出している。

  富岡は何気なく、ゆき子の裸を見たが、おせいのように立派な肉体でないのが哀れに思えた。若い芸者ばかりのせいか、ゆき子の肉体は何となく凋落のきざしをみせている。そのくせ、脚はすくすくとして、胴との均整がとれていた。ゆき子は勝手に軀を洗い、芸者のように、男の背中を流すという心づかいはしなかった。 (286〈三十一〉)

 湯殿で富岡はゆき子の裸をおせいのそれと比べて哀れに思う。富岡にとって女の価値はまず何よりも第一に〈立派な裸〉にある。〈凋落のきざし〉を見せているゆき子の裸に富岡は何の魅力も感じない。富岡のゆき子に向けられたまなざしは冷酷である。富岡は男の背中を流すという心遣いを見せないゆき子に自分勝手な女の姿を見ている。おせいは初めて会った富岡の背中を流しながら話しをした。富岡はゆき子が勝手に躯を洗う姿を見ながら、おせいの優しさや心遣いを思っていたに違いない。

 ーーゆき子は早々と湯から上った。洋服をぬいだ籠のところへ行くと、並べて置いた富岡の籠のものが、いつの間にか、青い木綿の風呂敷包みになっていた。違う籠ではないのかと、四囲を眺めたが、富岡の衣類の籠は見当らなかった。そっと、風呂敷の隅から衣類をのぞいてみると、妙なことには、その包みは富岡のものがそっくり包まれている。やがて富岡が上って来た様子だったので、ゆき子は服を手早く着て、鏡の前へ行き、髪をときつけにかかった。 (286〜287〈三十一〉)

 おせいはゆき子に対する戦いの火蓋を切って落とした。おせいが新しいパンツを風呂敷包みに入れておいたのは、富岡に対する心遣いの域を越えて、ゆき子に対するあからさまな挑戦を意味する。もしおせいが富岡のことだけを思っていたのなら、ゆき子にはわからないように、新しいパンツを籠の底にでも潜ませておいたであろう。わざわざ、富岡の衣類を〈籠〉から〈青い木綿の風呂敷包み〉に移したということは、おせいがゆき子に判らせるために意図的になしたということである。おせいは富岡をゆき子の〈籠〉の中から解放し、彼が自分と一緒に〈青い〉鳥となって飛び立つことを願っている。後から脱衣場に戻ってきた富岡がはたしてどのような反応を示すか、ゆき子は髪をときながら鏡に映った富岡を凝視する。この場面は、〈不在のおせい〉が富岡とゆき子の関係に致命的な一撃を打ち加えた恐るべき緊張の場面となっている。

 鏡のなかに写る富岡は、風呂敷包みにちょっとばかりとまどいした様子だったが、すぐ、素知らぬ顔で、風呂敷をといている。何となく、鏡の中をたんねんに探しているようだったが、しばらくして、ちらと、ゆき子の方を振り返るようにして、富岡は新しいパンツをはいた。ゆき子には、その真白いパンツが不思議だった。富岡は忙わし気に服を着て、風呂敷を小さくまるめてポケットにしまった。 (287〈三十一〉)

 さりげなく書かれているが、ここで富岡が〈新しいパンツ〉〈真白なパンツ〉をはいてしまったことの意味は明白である。富岡が脱いだ古いパンツは、富岡とゆき子の関係性そのもののシンボルである。おせいが用意した〈真白なパンツ〉は、富岡がゆき子ときっぱりと決別して、おせいと新しい人生を歩んでいくという意志の隠喩である。富岡はゆき子の眼を盗んだつもりで〈新しいパンツ〉をはいた。これで、富岡の意志は明確に示された。