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http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch



マンガ論課題               
嶋津きよら
②手塚治虫のマンガ『罪と罰』とドストエフスキーの『罪と罰』の決定的な違いについて書きなさい。

 私が幼少の頃に読んだ中で、最も印象の強い漫画は手塚治虫著の『リボンの騎士』である。まるで劇を見ているかのような物語の展開にいつもわくわくさせられていたものだ。手塚治虫の作品は、全集を図書館から借りて全部読んだ。飽きずに何度も繰り返し読み、その世界に浸った。今思えば、手塚治虫の描く、あの独自の世界観が私を魅了していたのであろう。その中には当然ながら、『罪と罰』という作品も存在したのである。
手塚治虫の『罪と罰』は、ロシア文学を代表する文豪、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキイの『罪と罰』を漫画化した作品だ。分かりやすく面白いコミカライズだということで、出版当時から今日まで大変根強い人気を持った作品である。この作品から『罪と罰』を知った人も少なくないだろう。実は私もそのうちの一人だ。ただ、ドストエフスキイの『罪と罰』と手塚治虫の『罪と罰』には多々異なる部分が見受けられ、手塚治虫版を読んだだけでは自分を『罪と罰』の読者と呼ぶことはできないだろう。今回の課題で手塚治虫の名前が出た時、とても不思議な感慨に襲われた。自分が今まで読んできた(積み重ねてきたものの一つでもある)作品が、廻り廻ってまた私の前に現れたのだ。人生では、自分の経験してきたことが何度も繰り返されるという話を聞いたことがあるが、まさにその通りなのかもしれない。自然と気持ちが高揚するのを感じながら、手塚治虫が『罪と罰』という作品を描くにあたり原本としたと思われる、新潮社から出版されている『世界文学全集』第二十二巻ドストエフスキイ著『罪と罰』を手に取った。
この本の扉には、ドストエフスキイの肖像画が載っている。何故か強い既視感に襲われ、手塚治虫の『罪と罰』を本棚から抜き出した。主人公のラスコルニコフが斧を振り上げる様が描かれている表紙を開き、ページを何枚か捲ると、そこに似たような出で立ちをしたドストエフスキイの姿があった。ああ、それなら見覚えがあるはずだと思いながら、私は首を捻った。どうして手塚治虫はこの肖像画を模写したのだろうと清水正教授は述べている。この二つを並べてみると、なるほど、確かに手塚治虫の描いた肖像画はこの扉をモチーフにしていることが分かる。ドストエフスキイを描く――これが一体何を指すのか。清水教授の著書『手塚治虫版『罪と罰』を読む』の『手塚治虫が描いたドストエフスキーの肖像画』にはこう書かれている。

  さて、手塚治虫がドストエフスキーの肖像画のコピーを描いたということは、彼がドストエフスキー文学の暗さ、深刻さを十分に認識していたと言える。手塚治虫は漫画家としてドストエフスキーその人を漫画化する意図はなかったということでもある。つまり手塚治虫はドストエフスキー原作の『罪と罰』の文学的な深さを十分に承知した上で、敢えて子ども向けの漫画化に踏み切ったということである。ドストエフスキーに対する畏敬の念を表明した上での漫画化の試みと言ってもいいだろう。

 ここから伺えるのは、手塚治虫の描く『罪と罰』は、あくまで原作をオマージュしたものだということだ。つまりこの作品に原作とは異なる点があったとしても、それはその作品の個性であるということである。ならば、その中から一番原作とかけ離れた描き方をされているものが、この課題を解く鍵となるはずであった。
結論から言って、ドストエフスキイの『罪と罰』と手塚治虫の『罪と罰』、この二作品の決定的な違いは物語のラストシーンであろう。原作の主人公であるラスコーリニコフは広場の中心で大地に接吻をするも、自分の罪を告白することはできなかった。しかし、その足で警察署へ向かい、犯行を自白する。裁判や八年の刑罰を受けた末に、彼の後を追ってシベリアに訪れソーニャと共に幸せな生活を送ることとなった。だが、手塚治虫版では、主人公であるラスコルニコフが広場の中央でその罪を告白するも、その後瓦礫と化したペテルブルクの通りを歩いていく場面で物語を終わらせている。ラスコルニコフがどうなったのかを、手塚治虫は明確にしていないのである。その先にあるのが希望だとはけして思えないようなその情景を、手塚治虫はどんな気持ちで描いたのであろう。ドストエフスキイに対しての思いをこの作品に反映したのであれば、この作品から私たちは何を感じ取るべきなのであろう。疑問を挙げればキリがないが、ただ一つ、確実に言えるのは、真実を知る唯一、手塚治虫はもうこの世界に存在しないということである。ラスコルニコフの向かう先にはどのような世界が広がるのか、それは読者が自分で想像するほかないのだ。その考えに到った時、手塚治虫版『罪と罰』は、ドストエフスキイの描く『罪と罰』とは別の物語であるということを、改めて実感させられた。
こうして、ラスコーリニコフとラスコルニコフは、今もなおその世界の中で違う物語を――違う人生を歩み続けている。