日野日出志の「女の箱」論 (連載12)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載12)

清水 正

 次の15頁1コマ目、画面いっぱいにギター、紐で括った本、大小の風呂敷で包んだ荷物二包み、ダンボール箱一つが描かれている。青年のわずかばかりの所持品である。2コマ目、青年は腕時計を見ながら「あと30分位であいつが車を持って来る時間だな……」とつぶやく。3コマ目、青年は押入の襖を細く開けて、「おかしいなあ、金はどこにしまってあるんだろう……」と口にする。押入の中は黒くベタ塗りされ、中に何があるのかさっぱり分からない。それにしても、この青年は女の金の隠し場所も知らないで、女の金を盗んでトンズラしようとしていたのだから、まったくアホそのものである。

4コマ目、押入の襖戸が大きく開かれ、中の上段には箱が何重にも整然と積まれ、下段に大きな箱が二つ置かれている。上段の箱の一つが落ちて中空に浮かんでいる瞬間が描かれている。画面左の立ち姿の青年は両手で積まれた箱を押さえながら「おっと……」と言う。青年の視線は落ちた箱を見ている。当然、読者のまなざしもこの箱に焦点を合わせる。

5コマ目、箱が畳に落ち、蓋が開く瞬間が描かれている。箱の中身は分からないが、落ちた瞬間の音「ぼとっ」が手書き文字で大きく描かれているので、この箱が重要な意味を持っていることが分かる。6コマ目、画面いっぱいに青年の驚愕の顔が描かれる。そうでなくても丸い目がさらに大きく見開かれ、今まで横線一本ぐらいで描かれていた口が初めて大きく描かれる。その口には真っ白な前歯までが描かれ、青年のショックの大きさを表している。こういったコマ絵で次の1コマ目に効果的に繋いでいくのが、頁コマ割の常套手法である。

 次の16頁1コマ目は突然カラー、頁二分の一の大きなスペースに、死んで硬直化した文鳥の死骸が仰向けに横たわっている。死骸の眼球は飛び出し、ウジ虫が全身を這っている。画面からは醜悪な臭いが漂ってくるかのようである。翼は閉じられ、両足はむなしく中空を掴んでいる。画面上部左に描かれた空っぽの箱と画面下部右に描かれた箱蓋の空っぽが、生きてあること自体の空虚さをさりげなく、同時に重厚な重苦しさで突きつけてくる。六畳一間の狭い空間から窓の外へと飛び去ったチチを追って、青年の頭から飛び立った文鳥は女がとっさに閉めた窓によって阻まれた。その後、この文鳥の行方は不明のままに捨て置かれていたが、ここでいきなりその〈真実〉が明かされることになった。

 2コマ目、画面右に、文鳥の死骸をはっきりと目にした青年の恐怖におののく顔がアップで描かれる。前髪は力なく垂れ下がり、口はだらしなく開かれ、両手はおびえでふるえている。「い…………いなくなった小鳥だ! 逃げたと言ってたくせに……………」青年のセリフから、女が文鳥のことで嘘をついていたことが明白になったわけだが、女の嘘に気づかなかった青年の能天気がここでも結果として強調されることになる。

3コマ目、男の顔がさらにアップ、その口は上の歯茎と下の歯まで描かれる。発するセリフは「やっぱり狂ってるんだ…………」。この青年は恐怖を全身に感じて初めて顔に表情を刻む人間であることが分かる。今まで、この青年に無垢な笑いの顔がなく、優しい微笑の顔がなく、相手の悲しみに同調する憂いの顔がない。彼にあったのは自己保身に汲々とした、内心の思いを相手に気取られまいとする、人間味に欠けた貧相なこわばった顔だけであった。

4コマ目、画面右下に襖戸を開けて女が入ってくる。画面右上部、天井板に「ただいま………」とある。画面左全体に青年の上半身が正面から描かれる。予期せぬ女の早帰りに青年は「ぎくっ………」と、心臓が止まるほど驚き、全身を固くする。

次の17頁1コマ目は前頁と同じくカラー、頁の二分の一のスペース、カメラは六畳一間の奥に両手両足をぴったりとつけて立ちすくむ青年の斜め後ろ姿と、襖戸を開けっ放しにして部屋に入ってきた女を斜め正面に捕らえている。このお互いに黙って向き合った構図は対決、葛藤の構図であり、部屋全体に緊張がみなぎっている。

画面上部やや中央、女の右側に前々1コマ目に描かれた青年の荷物、女の左側には前に描かれなかった青年の荷造りした本やダンボールなどが置かれている。右下部には今まで黒く描かれていた大きなテーブルが白く描かれている。青年の前には箱から飛び出た文鳥の死骸が横たわっている。青年は女が隠していた文鳥の秘密を知り、女は荷造りされた荷物を見て青年が隠していた秘密を知る。

が、開かれた箱は未だただ一つであり、開かれた押入には大小さまざまな箱が密封されたまま整然と並んでいる。〈狂ってる〉女と、女の留守中に金を盗んでトンズラしようとしていた青年が、お互いの秘密を晒された部屋で向かい合っている、この現場の異様な緊張感を平穏な日常に繋ぎとめているのは、目を細かく丁寧に描かれた畳である。

 この女と青年が向き合う姿を捕らえているのは、テレビの上に置かれていた佐渡人形のまなざしと言ってもいい。「チーコ」の場合は、作者は佐渡人形自体を画面下部に黒く描くことで、チーコと男の遊び戯れる幸福な時間が、不吉な事件が起こることの前触れでもあることを不気味に予告していた。「女の箱」の場合、この場面を見ているのは作者であって、佐渡人形のまなざしを介在させていない。

日野日出志はこの場面の硬直した恐ろしさを読者に直接伝える手法を採っている。見る者と見られる者の間に、もう一つの視点装置を設定することがないので、青年の恐怖は直に伝わってくる。女の妖艶な怖さをいかに描くか、作者はそのことに渾身の力を注ぐことになる。こういうときの日野日出志はストーリイテラーである以上に絵師としての力量を存分に発揮する。

 2コマ目、画面右に「ど…………どうしたんだい。こんなに早くびっくりするじゃないか、ほんとに……」と、青年は恐怖にこわばった顔に冷や汗を垂らしながらしどろもどろに言う。画面下部に描かれた青年の手指はまるでロボットのそれのようである。背景は指紋のような多重丸が無限に広がり、青年の内心の乱れと恐怖が端的に表されている。

3コマ目、画面右に女の冷ややかな顔が描かれ、画面左に「お店でボヤがあって…………それで、今日は休みになったの……」とある。女の顔は平成を装っているが、内心の怒りを込めた疑惑の念は背景に描かれた渦巻状の雲によって表されている。

4コマ目、女の顔がさらにアップされる。能面のような白く端整な瓜実顔に一重の美しい切れ長の目が描かれ、その瞳は怒りと悲しみを湛えて烈しく赤く燃えている。女は小さな赤い薔薇の蕾のような口をひらいて言う「この荷物はいったい……まさか私を捨てて……」と。言葉は穏やかだが、女の内心の烈しさはさらに大きくなった渦巻状の雲によって示されている。ふだんおとなしい女の、内心の烈しさをみくびるととんでもない破局を招くことになる。

5コマ目、青年の顔を前コマの女と同じ大きさにアップ、画面右に「そ…………そんなことあるわけないさ。ただちょっと整理をしてただけだよ」と苦し紛れの弁解を口にする。青年の前髪が怪しく揺れているが、これは女から発せられた烈しい疑惑の念風に煽られてのことだろう。小説では地の文で表現することを、日野日出志は人物の表情、背景の描写で表現する。

 青年は女の疑惑に対して、一貫してシラを切り続ける。正直に胸の内を打ち明けて、ことの解決をはかろうとはしない。なぜか。それは青年と女の結びつき方自体が、〈話〉の次元から逸脱した関係、すなわちセックスに重点を置いた関係だったからである。セックスは女と男の関係を深めもするが、同時ににっちもさっちもいかない泥沼にも引きずり込んでいく。

「女の箱」の青年の場合、女との関係はセックスばかりでなく、金もからんでいた。女にとって青年は快楽を与えてくれる金のかかるペットであり、言い方を変えれば所有物ということになる。青年は、その意味で〈六畳一間〉という〈鳥かご〉に飼われた文鳥でしかなかった。逃げようとした文鳥を窓を締めて阻み、それだけでは足りずに絞め殺そうとしたように、ペットでしかない青年が逃げ出そうとすれば、女は〈死〉をもって阻むのである。

日野日出志先生と。2011.4.22 東長崎「鳥貴族」にて。