荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載41)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載41)

山野一
「消えた天才漫画家の復活を再び祈る」(その⑤)

漫画評論家だってカラオケします。撮影・清水正
●お嬢様は凌辱にしろ!山野漫画のハレハレ哲学(その②)


これも徹底している事であるが、山野漫画に登場する女性は、悉くセックスの対象に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。比較的ヒューマンドラマの一面を持つ「四丁目の夕日」でさえ、恭子の存在は、立花のセックスフレンドである。そこに、恋愛などと言うあやふやな感情が入る余地はないのだ。

それが良家、お嬢様と来れば尚更である。山野漫画には、哲学以前に方程式が存在する。それは、よりお譲様ならお嬢様なほど、より醜男、畸形、狂人に凌辱を受けると言う一種の反比例式なのだ。

「貧困魔境伝ヒヤパカ」で、巻頭カラーで収録される「人間ポンプ」は、如何にもインテリな大学の教授と女子大生が、東京都内の貧民地区に、貧乏人の現状を取材に行く、と言うストーリーである。町の全貌を見ると、そこが千住近辺である事が伺える。また、大学も「山の手大学」と、金持ち大学である事を意味する名前となっている。更にその美人女子大生は代議士の娘である、これでお膳立ては揃ったのだ。
この二人は、海水の溜まる地下豪に軟禁され、ポンプで海水を汲み上げるように強いられる。始めのうちは拒否していたが、プライドの高い二人にも次第に状況が飲み込め、貧乏人の言う事を聞かざるを得ない環境に追い込まれ、どんどん自我が崩壊して行く。
排泄、セックスの末、漸く地下豪から開放されたかに見えたが、地上に上がる二人を待つのは、醜男、醜女、町の貧乏人総員である。この後二人がどうなったかは、ここで書くまでもないだろう。

「星の博士」では、そこまで極端なお嬢様ではなく、登場するのはエリート社員の家族、と言ったところだろうか。
お嬢様である女子高生が学校から家に帰ると、玄関に汚い靴がある。何だろうと、女子高生がリビングに入ると、汚い中年の男が冷蔵庫を開けて、中の食品をムシャムシャと食べている。男は、自称、東京大学卒業の天文学博士で詩人だと名乗り、女子高生に、人類が死に向かっている事を、宇宙物理学的に証明する持論を繰り広げるのだ。
母に救いを求めようと女子高生が二階へ上がると、二階の寝室では既に美しい母は、犯された上刺殺されている。逃げようとする女子高生も、漏れなくこの天文学者に犯され、殺される。山野漫画のお約束である。

「人間ポンプ」は、山野漫画のエッセンスが満載の、読み応えのある傑作である。上流階級の教授と女子大生が、ある意味、どんどん人間らしくなって行く姿がリアルだ。どんなにインテリの教授も、どんなに着飾ったお嬢様も、一皮脱いでしまえば貧乏人と大差はない。最終的には残飯を食し、排便をする機能に過ぎないのだ。「ポンプ」とは、海水を汲み上げる事ではなく、この教授と女子大生の事に他ならない。

「星の博士」は、「宇宙が我々人類に約束しているものは滅亡だけ」と言う宇宙物理学を熱心に話す自称天文学博士の異様さのみが引き立が、エンディングで、帰宅する何も知らない主人が、この天文学博士とすれ違う場面は秀悦である。エリート社員だろう如何にもインテリな風貌の主人は、「何だあれは、気味が悪い」と、天文学博士を振り返る。二階の寝室では、愛妻と娘が強姦、惨殺されている事は知る由もないのだ。


●き○がいは虐待しろ!山野漫画のハレハレ哲学(その③)


「きよしちゃん 紙しばいの巻」、この作品は、「サイケでハレハレ劇場」の一話ではなく、単発で「月刊ガロ」に発表されたものだ。「特殊小児伝」とサブタイトルが付く。
今となっては、否、発表当時でも充分にタブーなテーマであろう、良く各方面からクレームが付かなかったものだ。発表誌が「月刊ガロ」だった事が幸いしたのだろう、仮にメジャー漫画誌であったら、大問題の前に掲載さえ見送られたに違いない。何と言っても、テーマはずばり、障害児苛めである。これは有り得ない。

元紙芝居師の 「金子青蔵」が、庭の枯れ木に作られた巣に雛が孵っているのを見て、一念発起し、再び子供たちに紙芝居を見せてあげようと公園へ向かう場面から始まる。
青蔵が公園に着くと、小学生の女の子がリーダーとなって、一人の障害児を苛めているのを見る。子供たちは、障害児を滑り台の下に寝かせ、その腹を目掛けて次々と飛び降りるのだ。障害児は、無表情で嘔吐する。これは洒落にならない。
慌ててその苛めを止める青蔵は、紙芝居を見せ、飴を子供たちに与えて宥めるが、現代っ子にそんなまやかしが通用する訳はない、逆に子供たちの怒りを買い、袋叩きにされる。青蔵が助けた障害児まで、その暴行に加わる始末だ。
次の朝、打ちひしがれた青蔵の最後の心の拠り所、小鳥の雛を、昨日の障害児が貪り食う姿を見る。

障害児、き○がい、これも山野漫画のレギュラーである。山野一は、彼らに人間としての生命の尊厳を持たない。言わば昆虫と同格か、それ以下か。「白鳥の湖」では、畸形魚と呼ばれ、漁の対象となっている。痛めようが、殺そうが、食おうが、どうでも良い存在で、そのアイディンティティは、ストレス発散の為の物に過ぎない。
また、「ビーバーになった男」に引き続き、この紙芝居師の名前が「金子」なのは偶然だろうか。執拗な山野一の事である、何かこの名前には曰くでもあるのだろう。


●現実を逃避しろ!精神世界へ誘え!山野漫画のハレハレ哲学(その④)


山野漫画のもう一つの特徴は、現実と虚構、正常と異常などの境目が極めてあやふやな事である。前述した「タブー」、「アホウドリ」などに代表されるが、どちらかと言えば人間が狂気に蝕まれる、その過程を描いた作品が多々ある。
給料日にギャンブルでそのほとんどを失ったサラリーマンが、自暴自棄となり会社の無断欠勤を続け、当然解雇になるが、彼は、自分の部屋の流し台の下にパチンコ屋がある事を知り、大当たりを繰り返す「パチンコのある部屋」。
夜中に聞こえる父と母の営みの喘ぎ声に、侏儒が現れ、犯される幻想を見る「侏儒の家」。
母に死体と暮らす女の子が、奇妙なバスに乗って向かう「ダリヤ園」で、変質者に襲われ殺される「太陽とダリヤ」。

「侏儒の家」は、思春期の乙女心の不安定さを、夢うつつの世界へ爆ぜらせた作品である。山野漫画としては初めての試みか。「太陽とダリヤ」は、内容こそ違え、「パチンコのある部屋」と同じベクトルにある、現実から虚構の世界へ逃避するストーリーである。「パチンコのある部屋」では現実社会から狂気へ、「太陽とダリヤ」では母の死から性へと逃避する姿が描かれる。比較的現実的に描写される「パチンコのある部屋」に対して、「太陽とダリヤ」はかなり幻想的である。「ダリヤ園」に向かうバスの中では、障害を持つ少女が運転手を揺さぶり、「行け行けゴーゴー」と喚き散らす。「ダリヤ園」の広い池は、スッポンでぎっしり詰まっている。言うまでもなく、男性器の象徴だ。そして、藁葺き屋根の大きな旧家で寛ぐ少女は、突如現れる変質者に襲われるのだ。

最後に、精神世界を描く「のうしんぼう」であるが、冒頭からどっぷりと夢の中、虚構の世界で、脈絡のない幻想的な風景のみで構成される作品である。気が付くと見知らぬバスに乗り、見知らぬバス停「のうしんぼう」で下車する男。不思議な風景を通り過ぎながら、山中に潜むビルに自分の部屋を見出し、生活していると、普通に友達が風呂屋に誘いに来る。何だか記憶は断片的である。到着した風呂屋は、パノラマのように艶やかで、花火が上がっている。

発表された漫画誌が「月刊ガロ」と言う事もあり、かなり「つげ義春」に影響を受けている、否、かなり準えた印象の作品である。「蓄膿三代」で多様したコラージュも、効果的に使用されている。「のうしんぼう」とは、「脳心捧」、即ち「脳幹」の事であろう。山野漫画に登場する、ちょっとした名詞は、意外と深い意味を持つ物が多いので要注意だ。