意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載8)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載8)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正



山崎行太郎清水正。文芸GG放談を終えて。2010.12.26 熱海「ラビスタ」にて。
こわいことを言うようだが、プリヘーリヤははたして〈年金〉だけを抵当にして金を借りていたのかということである。もしかしたら、プリヘーリヤは〈いい方〉で亡き夫の〈親友〉であった〈商売人〉のアファナーシイに、文字通り〈からだ〉をも抵当にして金を借りていた可能性もなきにしもあらず、ということである。娘のドゥーニャにルージンとの商売上の〈取り引き〉のような結婚を承諾させたプリヘーリヤは、娘より前にすでにアファナーシイとの〈取り引き〉を済ませていたかも知れないのだ。

人生はきれいごとではすまない。プリヘーリヤは一人息子を殺人者に追い込み、一人娘を打算的な〈取り引き〉に応じさせるような、そういった優しく信仰厚き女なのである。『罪と罰』の深層舞台を覗き込むということは、描かれた半身の裏にカメラを回すということでもある。

 山城の『ドストエフスキー』には面白い指摘が何カ所かあるので、それらについて恣意的にとりあげていこうと思う。「第六章 カラマーゾフのこどもたちー『カラマーゾフの兄弟』」のⅡでドストエフスキーが〈大の甘党〉だったことに注目して、『罪と罰』のマルメラードフの名前ががマーマレードに由来していること、フョードル・カラマーゾフは酒を飲む際には甘いものを食べていたこと、フョードルとドミートリイの父子が奪い合ったグルーシェンカがグルーシャ(洋梨)であったことなどを指摘した後、「しかしここ、この大の甘党作家が至高ののあまみを見出したのはほかでもないよ残酷さの随においてであった。ドストエフスキーがあまいものを追求し究めてゆくとついにはある種の残忍さに行き着く」と書いている。レストラン「みやこ」でイヴァンがアリョーシャに語るトルコ人の芸術的な赤ん坊殺しの場面(山城はそれを「秘蔵の幼児嗜虐ネタコレクションの一部」と言っている)を引用した後では次のように書いている。

 極上の「あまいもの」は、笑っている赤ん坊の頭を母親の見ている前でうち砕く残忍さに潜んでいる。イワンは、嗜虐者たちが残酷さからその蕩けるような官能的なあまみを昆虫のように吸いあげるべく凝らした巧緻な工夫の芸術性に賛嘆を惜しまないが、ここで鋭敏に働いているのが甘党作家自身の舌であることは疑いない。

  ところで、今、アリョーシャは、食事どきだというのに兄から右のえげつない話を聞かされながら魚汁をすすっているわけだが、彼の席にも、彼の大好物であるさくらんぼの砂糖煮が出ている。イワンが「あまいもの」のことを最後に言い添えたのはアリョーシャがそれに手を出した瞬間だったのかもしれない。じじつ、アリョーシャ自身も残忍さの例外ではない。イワンは、このあと幼児虐待ネタを五つばかり紹介するが、まだ飽き足りないらしく、今度は、母親の前で猟犬の群れにこどもをずたずたに引き裂かせた将軍の話を披露して、「こんな奴をどうしてくれるよ」とアリョーシャに問いかけるのだが、郷里すると不意を打たれたアリョーシャは「銃殺にすべきだ!」と口走ってしまうのだ。「と言うところを見るとおまえのかわいい胸にもちょっとした小悪魔(besenok)はひそんでいるわけだね、カラマーゾフのアリョーシカ君!」。小天使の口から思いがけず出て来たこの小悪魔もきっと、さくらんぼの砂糖煮をこよなく愛する彼のあまいもの好きのうちに棲んでいたのだ。ちなみに、ゾシマも紅茶と一緒にさくらんぼの砂糖煮を食べるのが大好きだった。長老にも同様の突発的暴力性が宿っていたことは「俗界にありしゾシマ長老の青年時代の思い出。決闘」の章を読めば明らかだ。
  『カラマーゾフの兄弟』はありとあらゆる矛盾と対立物を砂糖で煮込んだ巨大なコンポートだ。ここでは「信仰の人」と「無神論者」の境界は煮つぶされている。ドストエフスキーは「信仰の人」と「無神論者」のり分割線が引けないところでアリョーシャを信仰の人として描こうとしているのだ。「信仰の人」か「無神論者」かという問いは読書を貧しくしかしない。むしろ、両者の識別を不可能にする「あまいもの」に注意しよう。信仰においてであれ性愛においてであれ、彼らはひとしく「あまいもの」を悩ましくしつこく貪婪に追求している。『カラマーゾフの兄弟』のゾッとするようなあまみはそこにあるのだ。
  嗜虐性と「あまいものがひどく好き」ということとの結合は単なるコントラストによる芸術的効果を狙った手法ではない。それはドストエフスキーの「残酷なる才能」の本質をなしている。(443〜444)

 甘いものが過剰に好きということの中に芸術的なまでの嗜虐性が潜んでいる。この芸術的な嗜虐性は、慣習、倫理道徳から法律、戒律までのさまざまなレベルでの善悪観念を超えて、ある種の人間を支配する。否、ある種の人間をカラマーゾフ的な人々に限らなくてもいいかもしれない。どんな人間の中にもこういった嗜虐性は潜んでいる。ドストエフスキーの〈残酷な才能〉は見習い修道僧アリョーシャの内部にも小さな悪魔が潜んでいることを当のアリョーシャ自身の口から言わせている。

 芸術的な嗜虐性を発揮するのは決してトルコ兵だけではないのだ。人間の歴史をひもとけば、人間という動物が、他の動物に対してばかりでなく、同じ人間に対して想像力の限りを尽くした残酷の数々を行ってきたか、どんな天才的なコレクターでも蒐集しきれないであろう。イヴァンが蒐集した〈秘蔵の幼児嗜虐ネタコレクション〉など、それらのうちのごくごく一部でしかない。人間の歴史は現在においても残酷な出来事を性懲りもなく積み上げている。人間がどんなことがあっても捨て去ることのできない〈官能的な喜び〉(сладострастие=淫蕩)が人間の喜怒哀楽の歴史を日々刻んでいる。

 ドストエフスキーの文学の根底に流れているのは〈同情〉(сострадание)と〈淫蕩〉(сладострастие)である。他人の喜怒哀楽を自分のものとして体感できる者がドストエフスキーの苦悩し悲嘆する人物たちの特徴である。

 マルメラードフは地下の酒場で初めて会ったロジオンに向かって「あなたの顔には、いわばある種の悲しみが読めますな。はいってこられたとたん、私にはそれが読めた。だから、さっそく話しかけもしたわけです。だいたい、私がこんな身の上話をするのも、でなくたってとうにすっかり心得ているここらの暇つぶしどもに、恥の上塗りをしてみせたいからじゃない。人の気持をわかってくれる、教育のある人を捜そうためなんです」と言う。マルメラードフは一種独特の臭覚でロジオンに自分と同じ血が流れていること感じる。一口で言えば〈ものに感じる心〉を持っているということである。

 功利主義的な思想を生みだし発展させた本国イギリスでは、こういった〈ものに感じる心〉〈同情〉を学問上ですら禁じているとマルメラードフに吹聴したのが、ロシアの新思想にかぶれていたレベジャートニコフヘであった。女も男も、大人も子供もすべての人間が高利貸しのまねごとをして生きていたのが十九世紀ロシアの首都ペテルブルクの現状であった。

 先にも指摘したように、こういった功利主義的経済学はロジオンが生まれ育った片田舎にすら浸透し、未亡人プリヘーリヤにも襲いかかっていた。プリヘーリヤが息子ロジオンに期待したのも、ペテルブルク大学法学部を出た暁には、大いなるルージンになれということであった。プリヘーリヤはラスコーリニコフ家の嫡男ロジオンが首都ペテルブルクで立身出世することを何よりも望んでいた教育ママであった。この母親は自分の野望、二百年の歴史を持った由緒あるラスコーリニコフ家の再建のためなら、娘のドゥーニャを犠牲にすることも厭わなかった。この母親はおそらく娘を犠牲にする前に、自身のからだを犠牲にしていたことだろう。子供二人を抱えた未亡人の〈暮らし〉を仔牛の感傷でもって読むことはできない。小説家ドストエフスキーの〈残酷な才能〉を理解するためには、批評もまたその才能を存分に発揮しなければならないということである。