猫蔵の日野日出志論(連載3)

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清水正の著作   D文学研究会発行本
猫蔵の日野日出志論(連載3)
『幻色の孤島』論(第三回)


清水正著『日野日出志を読む』(D文学研究会)の出版記念パーティにて。池袋の「嵯峨」にて。
右端が猫蔵。

 それでは、本編に目を移していく。『幻色の孤島』1ページ目(底本全体では90ページ目)。この導入部分では、見開き右半分のコマ全体を用いて、何者かが誰かへと宛てた手紙の文面が開示されている。引用する。

「拝啓。 最初から、たいへんぶしつけだとは思いますが、本題に入る前に、この手紙を手にされた方へ、一つだけお願いしておきたい事があります。 それは、この手紙を必ず最後まで読んでいただきたいという事なのです。 この手紙は絶対に冗談やいたずら書きなどではありません。わたしは、まじめです。まして、わたしが気が狂っているなどという事は、天地神明に誓ってもありません。 わたしはいたって正常な人間である事を信じてください。 わたしは今、恐ろしい孤島にいるのです。」

 次に、見開き左半分のページへと視線を移す。するとそこには、あまりにも奇奇怪怪な、荒野の姿が描き出されている。黒く塗り潰された太陽が照り付ける下、白く炙られた砂漠地帯には、動物とも人間のものともつかない白骨が、点点と散らばっている。ハゲワシが留まるそれらの傍らには、人為的に作られたとおぼしき粗末な十字架の墓標や、石を積み上げた石塔が突き立っており、ここが、狂気じみた荒野でありながら、人跡未踏の地ではないことを物語っている。
 再度、右半分のページへと視線を戻せば、先ほどの手紙の文面に書かれていた、「わたしが気が狂っているなどという事は、天地神明に誓ってもありません」という一文との落差に、驚きを新たにする。ページの見開き右半分が「正気」の領域であるとすれば、左半分は、まさに「狂気」の領域を描いている。右半分の文書を書いた書き手の“理性”を信用するのであれば、左半分に描かれた世界は、彼自身が文面のなかで告発した、「恐ろしい孤島」に他なるまい。
 みずからが「正気」であることを改めて意識せざるを得ない状況というのは、彼自身にとって当たり前だったものが揺らいでいるという前提によって引き起こされる。その時点において、彼はすでに、厳密な意味において正常ではありえない。見開きページ左半分に描き出された荒野が、描き手自身の「正気」の視点を通じて語られた世界であるとするならば、これを客観的なビジュアルと捉えるよりも、彼自身の肉眼を経て描き出された光景と捉えるべきだろう。この荒野には、おのずと、書き手自身の「正気」の裏返しが多分に反映されることとなる。右ページにおいて、みずからの「正気」を主張する書き手が、彼自身の理性を根拠にすればするほど、左ページの世界は、彼の「正気」をあざ笑う。
 
次なるページを見開く。
 彼が正常であるならば、いかなる思いでこれを見つめたのだろうかと思える、異様な光景が開示されている。白骨が連なる砂漠地帯を、二足歩行の不気味な恐竜が闊歩し、空には始祖鳥もどきの怪鳥が羽ばたく。海面からは何匹もの首長竜がその鎌首をもたげ、あたかも人類誕生以前の原始の時代を髣髴とさせる。異常なる光景を異常に描くことによって、みずからの理性の砦を守ろうとする、描き手の意識が伝わってくるようである。
 見開き左ページの2コマ目、本編の語り手らしき男がはじめて読者の前に姿を現す。扉絵に描かれていた、あの男である。コマ絵の上部に、「わたしは 気がついたとき この波打ちぎわの うす暗いほら穴のなかに うずくまっていた」という男の内的独白が埋め込まれている。そして男の呟きから、彼自身、ここが一体どこで、自分が一体何者なのか、把握しかねている様子が分かる。ここに描き出された世界が異質というよりも、この男にとって、他ならない自分自身が、理性の範疇からはみ出した異物なのである。
 語り手は、彼自身の姿を本編に描き出している。一人称で物語を語りながらも、みずからを客観視していることに注目したい。
 そういえば、ここに描かれた男の瞳は、左右でその大きさが異なっていた。彼は、みずからが気狂いではないことを訴えながらも、自分自身の姿を、どこか狂人じみたものとして描いている。しかも、その佇まいからは、ある熱中にとり憑かれて完全に狂乱に陥った様子というよりも、もっと別の、むしろ狂乱に陥ることの適わざる、とり残された理性の不気味さのようなものが表れ出ている。

 見開き3ページ目へ進む。
 波打ち際のほら穴を後にした男は、やがて「ここが かなり大きな そして 完全な 孤島であること」を理解する。また、分け入った島の内部は、「原色の木や花が密生していて 強烈なかおりを はなって」おり、今までのことを思い出せないのは、なにもかもこのにおいのせいだと男は呟く。のどの渇きに導かれたのか、森のなか、黒くベタ塗りされた沼(?)のほとりをさ迷い歩く。
 94ページ3コマ目。頭の痛みに耐えかね、思わず顔を手で覆った男のコマ絵。その傍らには、あたかも動物の腸を思わせる、太くて肉感豊かな蔦が巻き付いている。一瞬、ここがなにか動物の体内であるかのような感覚に陥る。
 4コマ目。「くそっ なにもかも このにおいの せいだ」と呟く。顔を覆った両手の隙間から、まん丸い男の目が覗いている。その瞳はやはり、たったひとつの点によって描かれており、嗅覚は麻痺していながらも、男の視覚はまだ死んではおらず、不断になにかを注視しているような印象を受ける。(改めて見直してみても、『幻色の孤島』全編を通じて、この男の目が瞑られているコマ絵はひとつもない)。両手で顔を覆った男をとり囲み、さまざまな姿かたちをした花や植物が、コマ絵のなか、枠内の四方に描き込まれている。もしこのコマ絵が着色されていたなら、配色として、ありとあらゆる原色が用いられたに違いない。毒々しいまでの原色によって目を眩ませられながらも、その奥にこの男が見据えていたものとはなにか。この見開きページ内においてそれを探し当てるとするなら、やはり、黒いベタ塗りによって逆説的に描かれた、3コマ目の泉のなかを除いて他にあるまい。
 先に、この森があたかも、なにか生物の体内であるかのような印象を受けると言った。では、動物の体内をさ迷い歩くとは、一体いかなる意味があるのであろうか。
 ここで、私の脳裏には、本論冒頭で述べた、<日野日出志の初体験>のエピソードが蘇ってくることを抑えがたい。ここに描かれた「原色の孤島」を、人間の体内、こと女体であると捉え直した場合、そのなかを巡る行為とは、男の視点による、女性体験そのものだからである。
『原色の孤島』に一貫して通底するものとは、孤立感である。改めて、本編の舞台である孤島に対して、“女体”を見る観点を重ね合わせ、男の言葉を読む。すると、「大きい」「完全な孤島」「密生」「強烈なかおり」などの言葉が網に引っかかってくる。まさにこれらは、女体に対する驚きを表したものである。そして、ひとりとり残され、自分自身を見失った男の姿が印象に残る。
 これらのことから読み取れるのは、渇きを癒してくれる泉へと辿り着き、のどを潤すことに成功した男の姿などではなく、森の奥深くへと分け入ったものの、そこで道を見失い、ついにはみずからが何者であったのかさえ喪失してしまった男の、苦しみばかりである。肉感あふれる蔦や毒々しいまでの原色の草花は、男の存在を圧倒している。餓鬼のように大きく膨れ上がった腹を露わに、目ばかりぎらつかせている男の姿は、この原色の孤島にあって、あまりに脆弱だ。
 見開き左ページに目をやる。目を見開いた男の頭上を、羽根を広げた巨大な蟷螂(かまきり)が横切る。次の瞬間、蟷螂は、やはりとてつもなく大きな蜘蛛(くも)の巣に絡めとられ、またたく間に蜘蛛の餌食となってしまう。左ページ6コマ目、全身に糸を巻きつけられた結果、蟷螂は大きな繭状のカタマリと化してしまう。
 まんまと蟷螂を捕縛した大蜘蛛が、あたかも、豊満な女の肉体を思わせる姿かたちで描かれているのは特筆すべきことだ。紡錘状に突き出た両目はまさに乳房そのものだし、ひときわ大きなお尻は言わずもがな、もはや獲物となって動かない繭状の蟷螂に、細くて長い両の手を巻き付けかき抱き、けっして離そうとしないその姿も、女のもつ本質的なサディズムと強欲さを見て取れるといったら言い過ぎであろうか。この大蜘蛛の姿に見慣れてしまうと、先に登場した大蟷螂の姿も、縦にばかりひょろ長い、てんで頼りないただの棒切れのように見えてしまうから不思議だ。いずれにせよ、捕縛された結果、蟷螂は生存競争に敗れたのみならず、その姿かたちさえ奪われて、キラキラ光る一個の巨大な繭にされてしまう。
猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。日大大学院芸術学研究家博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。本名・栗原隆浩