猫蔵の日野日出志論(連載20)

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猫蔵の日野日出志論(連載20)
日野日出志の『七色の毒蜘蛛』論(連載3)
猫蔵

 見開き3ページ。
 見開きページ全体からはみ出す勢いで描かれた巨大な日の丸を、横なぎに払われた男の斬撃が真っ二つに切り裂いている。ここに記された男の独白を引用する。
「それは、狂気と幻想のドラマの幕あけにふさわしく、まっかにそまった夜空に巨大な空飛ぶ怪物どもが 群れをなして襲ってくる 光景から始まるのである」
“それ”とは、前ページにて語られた、“けんらんたる色彩によってはじまる、恐るべき私の記憶”のことであろう。漫画家として、常に現実を対象化し、戯画化することを生業とする男ではあるが、時として彼が立ち戻り、身を浸さなければいけないものこそ、強い感情を伴った記憶に他ならなかった。更にいえば、その感情とは、身も竦むような“恐怖”であった。
 子供の頃に親しんだ駄菓子の味を大人になってからも忘れられないように、シニカルな茶化しの玄人が反芻し、身を浸していたのが、よりにもよって身も竦むような過去の恐怖の感情であったという矛盾が目を惹く。日の丸を横なぎに切り裂いた斬撃の軌道のなかには、サーチライトによって空に照らし出されたB29の大編隊が描き込まれている。その配下にはシルエット状になった日本家屋が建ち並び、空を埋め尽くした機体から投下される無数の芥子状の黒点をなす術なく呑み込んでいる。
 考えてみれば、男はみずからの手で日の丸を描き、それをみずからの刀によって一刀両断している。これはいったい何を意味しているのか。思うにこれは、日の丸にまつわる男の感情の根底には“恐怖”のみならず、もっと別のものが潜んでいることを示している。そして日の丸を切り裂く彼の斬撃の軌跡のなかに、日本を焦土と化すB29の大編隊が描かれていたということは、刀を携え侍の格好をしてはいるが、この男の深層意識はけっして、“日の丸”を絶対的な「死狂い」の対象とはみなしていなかったことを表している。

見開き4ページ。
 黒い夜空、その淵だけをわずかに黒光りさせた黒い塊りが、「鬼畜米英」との貼紙の貼られた電柱を擁する日本家屋を直撃している。B29の落としていった爆弾である。見開き右ページ、B29については「無遠慮な空飛ぶ怪物」、爆弾については「まき散らされた不気味なくそ(・・)」と例えている。黒光りするくそは地上に激突し、七色の光を発して炸裂する。そしてすぐさま、町には広大な火の海が広がり、漆黒の夜空をたちまち真っ赤に焼き焦がす。
 改めて「七色」という言葉が出てきたが、この語り手は主観的な判断において、これをむしろ美しい色として感じている様子が読みとれる。事実、見開き左ページにおいて語り手は、「それは、とうてい この世の出来事とは思えぬ」「めくるめく、狂乱の幻想であった」と叙述している。投下された爆弾が降り注ぐなか、逃げ惑う人々に容赦なく七色の光と真っ赤な火が襲いかかる。4コマ目。頬に両の手のひらを張りつけ、防災頭巾を被った人物が火だるまになっている。5コマ目。地上部の地面へとカメラの視点は移っている。そこには、千切れた人間の手や足、そして生首が転がっている。そして、そんなものお構いなしに、われ先にと逃げ惑う人々の足元が、この場面の異常さを際立たせている。
 6コマ目。そして、ぱっくりと口を開いた瓦礫の隅から、真ん丸い目を見開いたひとりの男の子が外の様子を伺っている。独白は語る。「そして、それはすべて無音の世界の中の出来事のように 思えた」。男の子が身を潜める瓦礫にはまだ火の手は回っていないらしく、その視線の遠く先で、赤い炎が町全体を嘗め尽くしている。
 
見開き5ページ。
 どうやら男の子が身を潜める瓦礫は防空壕の入り口だったらしい。1コマ目、黒いシルエットの町に、白抜きで描かれた火の玉の群れが降り注いでいる。効果音は一切ない。そのかわり、この光景を叙述する独白の言葉が、建物の黒いシルエットの上に白ヌキで書き込まれている。「ああ… この世に これほど 狂おしく 美しい光景が またと あろうか…」
 1コマ目以降、4コマ目まで。防空壕の中から大空襲の光景に見入る男の子の顔を中心に、描き手の視点(カメラ)が徐々にクローズアップしている。1コマ目は無表情だった男の子の顔が、2コマ目ではわずかに口の端を上げ、笑みを浮かべている。いよいよ3コマ目では、その目が血走り、はっきりと興奮している表情を読みとれる。
「私は、防空壕の中で、夢をみているような」「恍惚感に浸りながら喜々として それらの光景を 眺めていた」とは、独白者の台詞である。“私”という言葉から、この男の子が冒頭に登場した漫画家の幼いころの姿であることが改めて分かる。
 独白の言葉は続く。「私が、あの毒蜘蛛を 初めてみたのは、 そんなさなかのことだった」。空襲の光景に見入る幼い“私”を防空壕の奥へと匿おうとして、父親がその背中に焼夷弾を受けてしまう。左ページ1コマ目、薄暗い防空壕の中、息を殺し身を潜ませる人々の姿が、グレーのスクリーントーンによって一様に塗り潰されている。ただそんな中、“私”の両目と父の眼鏡、そして父の背中で燃え盛る炎だけが、トーンの貼られることのない白ヌキによって表されている。まもなく父の背中の炎は居合わせた人たちの手によって揉み消されるが、その焼け引き攣った父の背中に、“私”は奇妙なものを見る。「まっかな色をした大きな蜘蛛が、不気味にうごめいている」のを、はっきりと見たのだ。左ページ3コマ目、父自身もまた、その眼鏡越しに、服が焼け落ちて露わとなったみずからの背中へと視線を注いでいる。その背中にはすでに、うっすらと例の大蜘蛛の姿が浮かんでいる。父自身もまた“私”同様、大蜘蛛の姿をそこに認めたのであろうか。
“私”と父は、ここにおいて、ある同じ秘密を共有した。ただ、父の瞳が眼鏡によって遮られているということは、“私”にとって父とは、同じ秘密を共有しながらも、必ずしも無条件にその秘密を分かち合える存在ではなかったことを意味している。
 
猫蔵・プロフィール
1979年埼玉県生まれ。我孫子市並木に二歳まで住み、その後埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩