荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載2)

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清水正の著作   D文学研究会発行本

偏愛的漫画家論(連載2)
日野日出志へのファンレター

荒岡 保志漫画評論家
一大傑作「蔵六の奇病」の次に発表されたのは、これも日野漫画の傑作中の傑作にして、この「日野日出志論」の骨格にもなる「地獄の子守唄」、同じく「少年画報」11号であった。後に発表する「地獄変」、「赤い蛇」と共に自叙伝三部作と言われるその第一部である。
そして、この「地獄の子守唄」こそが、日野日出志がホラー漫画家として確立した記念すべき第一作なのである。

愛蔵本を手にする荒岡保志氏

私は、「蔵六の奇病」はホラー漫画とは思わない。
ねむり沼、夥しい数の烏、グロテスクな蔵六の姿、確かにホラーテイストは満載ではあるが、そのストーリーそのものにどこにもホラーの要素は介在しておらず、強いて言えば、後にブームになった「残酷な童話」、「大人の童話」の類と考えた方がしっくり行く。
初期の日野漫画にこの「大人の童話」は数多くあり、同じく1970年に「少年画報」に発表された「百貫目」、1971年に「少年サンデー」に発表された「白い世界」、1972年に少年画報社少年キング」に発表された「かわいい少女」、少し時期がずれるが、1977年に「少年キング」に発表された「山鬼ごんごろ」、1978年にみのり書房「ペケ」に発表された「鶴が翔んだ日」などが挙げられる。ここで、一作品ごとの解説は省かせて頂くが、どの作品も、死を背景に露出する人間の本来的な怖さ、そして優しさ、切なさを謳い上げる秀作で、このカテゴリーは日野漫画の重要な要素になっている。

日野日出志ご自身も、これまでの発表作品について、特別ホラーを意識して描いたわけではないと言っているが、この「地獄の子守唄」では、明らかに自分はホラー漫画家であると公言している。今までの作品が童話的だったため、あえてリアリズムに拘ったという経緯もあるが、それまでも、どうもホラー漫画家というレッテルを貼られがちだったので開き直った部分もあったのだろう、もう冒頭の一ページ目から不気味な似顔絵のご本人が登場し、この漫画は恐ろしいから読むな、と警鐘を鳴らしている。その上で、「私の名前は日野日出志、怪奇と恐怖に取り憑かれた漫画家だ」と、自分はホラー漫画家だと自己紹介するまでに及んでいる。

漫画家日野日出志は、煙突が立ち並び、廃液で濁るドブ川の流れる工業地帯の中のボロ屋で漫画を描いている。
子供の頃から病弱で陰気だった少年日野日出志は、ヘビ、カエル、トカゲ、また殺した野良犬の目玉、内臓などをホルマリン漬けにして、宝物として押入れに隠していた。
母親は狂人で、いつも気味の悪い歌を歌い、父親は自宅の裏手で工場を経営しており、朝から晩まで仕事で家を空けていた。
兄貴はひどいやくざで、やはり家には寄り付かなかった。
そんな中で、少年は、いよいよ怪奇、猟奇趣味を増し、自分が地獄の支配者で、怪物や鬼を操り人間たちを惨殺する幻想に浸っていた。
そして、自分を目の敵にしているいじめっ子三人組に暴力を振るわれたある日、少年は、狂った母親の歌う地獄の歌を歌いながら、その三人を自分の描いた絵の中で殺してしまう。すると、三人はその通りに本当に死んでしまうのだ。少年は自分の素晴らしい能力に気が付き、嬉しさに震えるのであった。
またある日の事、母親に押入れの宝物が発見されてしまい大騒ぎになる。父親に絞られ、宝物は捨てられ、燃やされ、それ以来、狂人の母親は何かにつけて自分をいたぶるようになる。縛り上げられ、竹刀で殴られ、針で刺され、火を点けられ、生傷の絶えた日はなく、少年は、ドブ川に落ちて死ね、と母親の死までを願うようになる。
それから数日して、母親は行方不明になる。少年の想像通り、ドブ川へ続くマンホールの下で、母親は腐り始めていたのだった。嬉しくて堪らない少年だったが、それから現在まで、気に入らない連中を残虐に殺し続けた、父親も、兄貴も。
そして今、ホラー漫画家日野日出志は最後に叫ぶ、「今度はこの漫画を読んでる君が死ぬ番だ、君はこの漫画を読んで三日後に必ず死ぬ! 地獄の底に落ちろ!」と。

一つは、絶対的な安全地帯にいる読者を作品の中に巻き込めないか、と言う発想で描かれているのだが、これについては見事に成功した。「少年画報」の編集部に、本当に死ぬのでしょうかと、読者から不安を訴える電話が殺到したらしい。
またもう一つは、前述した通り、日野漫画の重要な核となる後の自叙伝三部作の第一部を形成するということである。そして、この三部作以外にも、翌1971年に「少年サンデー」に発表された「七色の毒蜘蛛」など自叙伝的作品は幾つかあり、それは微妙な誤差を含みながらも、ジグゾーパズルの一片のような役割で日野日出志の家族観を構成する。それについては、「地獄変」、「赤い蛇」と合わせて、総括して後述したいと思う。

1970年はこのまま「少年画報」に作品を発表し続ける。13号、14号に分けて発表された、力持ちで気の優しい大きな兄が、弟、妹たちを飢餓から救うために自らの肉体を食べるよう命ずる「大人の童話」、「百貫目」、15号から17号に連載された、可愛いペットのつもりで飼ったはつかねずみが凶暴化し、家族全員を恐怖に陥れる「はつかねずみ」、18号、19号に分けて発表された、江戸川乱歩の「芋虫」にインスパイアされたのだろう、少年の母親に対する愛情の行き場所を、熱帯魚の泳ぐ水槽の中に見出す「水の中」、21号に発表された、廃棄毒物を垂れ流す工業地帯で、畸形に喘ぐ子供たちが、自ら造った泥人形を破壊することによって社会に復讐を果たす風刺漫画「泥人形」、34号に発表された、不治の奇病にかかった少年が、母親の愛情を独占したいがために蝶になる、日野漫画の耽美的傾向を見せる「蝶の家」など、どれをとっても甲乙つけ難い完成度の高い作品である。
これも前述したが、「水の中」は、1968年「ガロ」9月号に発表された「水の中の楽園」、「泥人形」は同じく「どろ人形」のリメイクである。

そして1970年冬、日野日出志にとって絶望的な事件が起こる。
11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを呼びかけた三島由紀夫が、果たせずに割腹自決をした、あの三島由紀夫事件である。
日野日出志にとって、三島由紀夫は正しく神だった。自分の神が死んだのだ。自分の身体の中から、確実に何かが抜けて行くのを感じ、何も手につかず、呆然自失であった。この事件のショックで、「少年画報」に連載を始めたばかりの「あしたの地獄」を途中で放り出してしまったほどである。
悪い事は重なるもので、実弟がやくざと喧嘩事件を犯して命を狙われるまでの事態になり、仕事場に匿い、イザと言う時のために日本刀を入手、自分も死ぬ覚悟を決めた。三島由紀夫の死に触発された為である。ただ、その事件は、父親が、実弟は家出をしたということにして一件落着を迎える。

1971年に入って、三島由紀夫事件の傷も癒えたのだろう、この年から「少年サンデー」に発表をし始める。
「少年サンデー」7号に発表された、愛人の居る街へ失踪する母親、残された娘と祖母である老婆の、「大人の童話」である「白い世界」、「少年キング」37号に発表された、漂流した異様な風景の孤島に生きるため、死肉を食らい、仮面を被る、とことん色彩に拘り、現実社会こそこの孤島に他ならないと言うアイロニーも含む日野漫画の代表作である「幻色の孤島」、「少年キング別冊」11号に発表された、現実だったのか、幻想だったのか、真夏の暑さが見せる幻覚か、耽美的作品「人魚」と、発表作品はやや少なめではあるが、漫画家日野日出志として確実にキャリアを積んで行く軌跡が読み取れる。

そして1972年、ファンレターを貰っていた女子大生と結婚、孤独で死と背中合わせの人生に終止符を打つ。
この年度は「少年キング」の他、秋田書店少年チャンピオン」、「COMコミック」、日本社「まんがNO.1」、芸文社「コミックVAN」、少年画報社ヤングコミック」、光文社「女性自身」など、少年誌、青年誌、女性誌を問わず、精力的に活動範囲を広げる。

精力的、と表現したが、実際には1972年度以降の漫画家日野日出志の活動はそんなレベルを超えていたように思う。一年で20作に及ぶ読み切り漫画を発表するわけだが、売れっ子漫画家の宿命とはいえ、毎年のようにこれだけの数の作品を発表すると、さすがに絵師日野日出志も乱筆になりがちで、作品の出来、不出来の差がかなり開いてくる。
ここでは、年度を追って、その中で代表的な、というより私好みの日野漫画作品のみをご紹介しよう。

まず1972年、この村では人間は死んだら猫になって生まれ変わると、道に迷った旅人に語るあどけない少女の猫化け夜話、「少年キング」2号に発表された「かわいい少女」、「大人の童話」でもあり、どんどんどろろん、と言う太鼓音もその不気味な雰囲気を否が応でも盛り上げる秀作であるが、ラストは、日野日出志にやられた、というどんでん返しが待っている。そして「COMコミック」に発表された、これも代表作で一大傑作と言える「赤い花」は、「水の中」、「蝶の家」、「人魚」などに片鱗が見られた日野漫画の耽美嗜好が見事に開花された作品である。

舞台は東京の郊外にある花造りの家、そこには、異常なほど花を愛する男が住んでいた。
そして彼の造る花の作品は品評会でもいつも絶賛されるが、どんなに高い値を付けられても売るわけではなし、園芸雑誌が取材に来ても何も答えない、一種の変人でもあった。
この男の花壇に、毎日花を買いに来る美しい女がいた。お花の師匠であった。そろそろ次の作品に取り掛かろうとする男は、その美しい女をモチーフにイメージを固める。
いつも通り、花を買いに来るその女を、男は裏庭に通し、そこで殺害してしまう。
そして、一糸纏わぬ姿の美しい女を、男は丁寧に切り刻む。肉は細かく切り冷蔵庫へ、骨は石臼で粉に、血はガラスの容器へ溜め、その中に花の種を浸す。
七日間の断食を済ますと、男は、変わり果てた女のその肉、骨の全てを食べ尽くす。さらに、男はその自分の排泄物を甕に溜めて言う、「これでお前もいよいよ花になれる」と。
男は血に浸してあった種を蒔き、その上にその排泄物を撒く。そうして美しい女の肉体が花に生まれ変わるのであった。
やがて、男の花壇に、血の滴るように赤い花びらが見事に開花する。

この耽美嗜好は、この作品以降にも随所に見られるが、一編を通して拘りを持って描かれたのはこの「赤い花」だけではなかったか。怪奇、耽美、エロティシズムの見事な融合、まるで江戸川乱歩の傑作短編小説を読んでいるかのようである。
また、絵師日野日出志は血に対する拘りが強く、流れる血に独特のペン・タッチを持つ。このペン・タッチこそが、美しい女の肌をより一層美しく、透き通るように白く、さらにきめ細かい印象を与えるのだ。

1973年はややスランプであったのか、と言う印象の年度で、1972年の年末に長女が誕生した事によって日野日出志の中に何か変化が起きたのだろう、「愛するもの、失いたくないものが出来て弱くなった」と言う。

一つは胎児の造形、もう一つは妻の妊娠から発想したと思われる、「少年キング」に発表された「わたしの赤ちゃん」は、魚も、鶏も、豚も、人間も、胎児の造形はほとんど変わらない、という事実を原点に、生まれてきた赤ちゃんが子宮でトカゲに進化したら、という発想で描かれた、ややアイロニーの要素を含んだ傑作短編である。昨年度に戻るが、「プレイコミック」に発表された「水色の部屋」も、妻の妊娠に触発されて描いた一編だろう。

また、日野漫画としては異質であり、どうしてもギャグ漫画が描きたかったのか、「少年キング」に発表された「おかしなおかしなプロダクション」は、馬鹿馬鹿し過ぎる作品と言えばそれまでだが、私は個人的には満更嫌いでもない。日野日出志は、デビュー前「杉浦 茂」に傾倒し、ギャグ漫画家を目指していた時期があったと聞く。こういうギャグ漫画もたまにはストレス解消になるだろうし、普段の自画像から想像するとあまり読者を寄せ付けない恐ろしい印象があるので、読者との距離を縮めるいい効果もあったろう。

荒岡 保志プロフィール

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
「荒岡 保(アラオカ タモツ)」の三男「保彦(ヤスヒコ)」の長男。荒岡 保は、戦後の焼け野原に簡易建築建物(今のプレハブに当たる)を販売しあっという間に財を築いた傑物で、あの菅原通斎が著書「無手勝流」で、「戦後の面白い奴」の一人に挙げている人物である。酒好き、女好きの放蕩三昧の生活から、47歳にして肝硬変により死去。荒岡 保の長男、次男には男子が授からず、荒岡家を継承する唯一の男子である。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。
その批評は、作品論というより、タイトル通り、漫画家本人の横顔に迫る漫画家論となっている。また、「偏愛的漫画家論」のタイトルは、氏が尊敬してやまない暗黒文学の案内人にして検索サイト「澁澤龍彦」の「偏愛的作家論」を捩ったものである。
偏愛する漫画家は、過去に批評した漫画家の他、「日野日出志」、「ますむらひろし」、「山松ゆうきち」など、結果として青林堂「ガロ」出身漫画家に偏る。