ここをクリックしてください エデンの南 清水正の林芙美子『浮雲』論連載 清水正研究室
清水正の著作 D文学研究会発行本
「雑誌研究」第九回」(2010/6/18)は蛭子能収さんの「愛の嵐」を取り上げた。受講生たちのレポートを連載する。
蛭子能収「愛の嵐」より
西牧裕太
この作品は矛盾を抱えているような気がします。
最初の三む頁、主人公は好きな女の前で大勢にいじめられることを恐れ、女を殴ってしまいます。
その後謝罪の意味を込めて女とセックスに及びますが、主人公の心は女に対してではなく、ソロバンの先生に向けられています。
女を好きだ、という事実を隠すために殴ったはずなのに、女と二人きりでいても女を好きな様子が見えない。ならなぜ主人公は女に好きといい、殴ったことを謝り、セックスに及ぶのでしょうか。
結局、セックスをしようとするも、主人公の心がソロバンの先生にあることからセックスもままならない。それならば、初めからセックスなどせず、早く戻って先生の手品を見た方が良いのではないか、そう思います。
とはいえ、早めに戻って手品を見たとしても、友人がソロバンで殴られ、SMプレイの様な事件を主人公は見てしまうのでしょう。そして、おそらくそ様子を嫉妬し、そこで初めて自分は先生を好きだったのか、と気づくストーリーになるのかもしれません。
いずれにせよ、主人公がソロバンの先生を好きである、というオチにつながるのでしょうが、じゃあ最初に好きでもない女を殴り、最終的に女を否定するような結末を迎える理由がわかりません。
描写自体もとても気持ち悪いもので、印象には残るけれど、決して良いものではありませんでした。とても違和感を覚える作品でした。