清水正・ドストエフスキーゼミ課題

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清水正の著作   D文学研究会発行本

池袋ジュンク堂三階のロシア文学コーナーに並んだ『清水正ドストエフスキー論全集』。四巻は地下一階の手塚治虫コーナーにあります。『ウラ読みドストエフスキー』はイー・ウンジュさんによって韓国語訳になりました。今年の十二月に刊行される予定です。

清水正ドストエフスキーゼミ「文芸研究Ⅰ」では週に一回のペースでレポートを書いてもらい、メールで送ってもらっています。今回は第九回課題「復活の曙光に輝いたロジオンについて」を掲載します。

 復活の曙光に輝いたロジオンについて

 冨田絢子


 神を信じず、教会にも行かず、ラザロの復活は学校にいた頃にしか読んだことがないというラスコーリニコフが、なぜラザロの復活の場面をソーニャに朗読させたのだろうか。それは、ラスコーリニコフは神など信じないと言っておきながら、ラザロの復活がどういう場面で、どういう意味を持っているか、はっきり理解していることの現れであると思う。そして、神を強く信仰するソーニャにとっても、ラザロの復活がどういう意味をもたらすかをラスコーリニコフは解かっていたに違いない。これは深読みかもしれないが、ラスコーリニコフはラザロの復活の場面に出てくるラザロやイエスやマリヤたちを、自分の周りの世界と置き換えていたのではないだろうかと考えた。
 そこでラザロの復活が出てくる、「ヨハネによる福音書」第十一章を読んでみた。ソーニャの音読の場面では、ラスコーリニコフとソーニャの興奮する様子が事細かに描かれるあまり、途切れ途切れでよく分からなかったので、「ヨハネによる福音書」第十一章1〜45を次に抜粋する。

ヨハネによる福音書」第十一章
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 抜粋したのはいいが、余計に分からなくなった。しかし、ソーニャが音読しているのと、ただ聖書を目で読むのは大違いだということは分かった。ごく簡単にまとめると、きっとこういうことである。ラザロはイエスの友人であり、その友人イエスによって、死んだはずのラザロは生き返った。そのラザロの復活を見ていたユダヤ人たちの多くはイエスを信じた。という内容であろう。ソーニャによる朗読はここまでで終わっているが、その後、ユダヤ人の指導者たちはイエスを殺す計画を考え、ラザロも殺害する計画があったという。このラザロの復活は、人類全体の罪をキリストが救済し、生に立ち返らせることの予兆として解釈されてきたそうだ。ラスコーリニコフはソーニャに対し、僕は全人類の苦悩の前に跪いていると発言していることや、僕は老婆を殺したのではなく、自分自身を殺したのだ、などと発言していることを考えると、ラスコーリニコフが自分自身をラザロと置き換え、ソーニャをイエスと置き換えていたとも考えられるのではないだろうか。丁度ラスコーリニコフは、ソーニャの友人であるし、ラスコーリニコフはソーニャによって生き返ろうとしているようにも見える。
 だが、言ってみればただの娼婦である、むしろ罪を犯したと考えられているようなソーニャを、イエスのような存在に置き換えるのはどうだろうか。と、思いながら読み進めていくうちに、ラスコーリニコフは、ソーニャのラザロの復活朗読の場面で、ソーニャ、リザヴェータは二人とも「聖痴愚」(ユロージヴァヤ)であったことを発見した、と書いてあるのが気になった。そこで、聖痴愚とは何かについても調べてみた。
聖痴愚とは、「常人のような知性を持たぬ痴愚者として生き、その生き方自体を神に近づくための苦行とする人々のこと」とされている。また、「狂者として社会の埒外にあり、それ故に常人が守るべきあらゆるルールから自由であった」という。そして、人々に救いの手を差し伸べて、人間でありながら人間を半ば超越した、神に近い存在として扱われていたというのだ。つまり、ソーニャはただの娼婦ではなかったのである。神に近い人物だったのだ。それを踏まえると、ソーニャが朗読していて苦しみ、また輝くのも無理はない。一人の友人を神のように復活させようとしているのだから。また、ラスコーリニコフにとってソーニャは、半ば神のような存在であるから、ソーニャの音読により生き返っていき、輝きを得たのだろう。
 ただ、ラスコーリニコフがラザロの復活を自分と置き換えていたとすると、いくつもの疑問点が見つかる。ラスコーリニコフもソーニャも互いを不幸で気違いだと思っているし、ラスコーリニコフは、自分もソーニャも呪われたものであり、行く道は同じであると考えている。そして、ソーニャは自分に手を下し、自分の生命を滅ぼしたとまで考えているのだ。要するに、二人の罪のない女を殺した自分と、家族の生活ために娼婦となったソーニャを同じ存在だと考えていて、ソーニャを神のようだと考えているとは捉えがたいのだ。それを考えると、ラザロの復活をソーニャに朗読させたのは、自分とラザロを置き換えるためではなく、自分とソーニャにとっての希望だったとも考えられるのではないだろうか。ソーニャにラザロの復活の場面を読ませることで、我々は同じ罪を犯したもの同士だが必ず救われるということをわからせたかったのかもしれない。
 全体的にこのラザロの復活の場面を通して感じたことは、やはりラスコーリニコフは凡人であったということだ。結局は、ソーニャにすら自分の罪を打ち明ける勇気がなかった。それだけのことではないだろうか。ソーニャに背中を押してもらわなければ、ラザロの復活を音読して貰わなければ、自首する勇気などきっとラスコーリニコフにはなかった。愛する人に縋っただけだったのだ。ラザロの復活によって輝いたラスコーリニコフは「打ちこわすべきものを、一思いに打ち壊す」とか「苦しみを我が身に引き受けるんだ!」とか「自由と権力、何よりも権力だ!」などと言う。これもつい勢いで威勢のいいことを叫んでしまっただけなのだ。言っていることとやっていることが違う人というよくいる人間だ。もし彼が非凡人であったならば、自ら犯した罪に苦しみ、ソーニャにラザロの復活を読ませたりしただろうか。

(参考文献)
ユーロジヴィについて
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/yurod.html